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氷流日記

氷(筆者)と流さんの奇妙な徒然記

釜ヶ崎のこえ Vol.3

2013-09-29 06:55:16 | 釜ヶ崎人情
釜ヶ崎のこえ Vol.2




こえ21 砂漠に建つ修道院。ここに入るものは一度お葬式をする。
     生きている間に家族との縁を切り、死者として生きる道を選ぶ。


こえ22 彼らにとっての宗教とは別れた人たちといつかは必ず会える。そういう憧れなんです

こえ23 こういうことが死者とともに生きるということなんだと

こえ24
 風は思うように吹かないし、どこから来るのかわからない。
     死んだように生きた者が生きているような死んだ者と出会える。

こえ25 孤独死、孤独死と言うが死ぬときは孤独なんです。
     たったひとりの楽しさ。死ぬまで生きている。
     ぎりぎりまで生きている間、孤独。
     それがすばらしい。

こえ26 死ぬまで生きている限りは希望なんです。死ぬまで希望。

こえ27 死んだ先のことは生き残った人たちが考えればいいです。
     生きている限り生きている喜びがあり、
     死んでいくものがいれば、その生き方を忘れないと伝える。
     記憶の中で生きていくことを伝えてあげる。

こえ28 宗教というのは死者の霊を黙らせるものではなく、
     生き残った者が死んだ者と対話できるようなものでないといけない。


こえ29 助からないと思っても助かっている

こえ30 仕事が仕事をしている仕事





   

     

釜ヶ崎のこえ Vol.2

2013-09-29 06:06:27 | 釜ヶ崎人情
前回 釜ヶ崎のこえ Vol.1



こえ11 余裕の一文字の余る。その余るは与えるともともと同じであった。
     与えると余る。
     では時間がたくさんあれば余裕が出来るのかと言えばそうでもない。
     制限というものがあって、はじめて余裕が生まれる。


こえ12 時間というものは不思議なもので、
     時間に余裕が出来ると、いろいろな用事を入れて、
     心に余裕がなくなる。
     時間は貯金が出来ない。
     その日のうちに使わないといけない。


こえ13 スタートの遅いやつは仕事が出来ない。
     早くするものは間違っていることに早く気づき、多くを修正できる。


こえ14 知らん土地来て生きていこうとしたら、
     生半可なことじゃ生きていかれへん。


こえ15 そうそう、この前ではお葬式は遺影写真がなかったの

こえ16 純情で居続けられることには条件があると思う。
     まず、アマチュアであること。
     対象となる自然や人間に対して畏怖の心を待つこと。  
     作品にするときは日常の延長のものを描き、生活からにじみ出たものを描くこと。
     そして、絵描きだけでなくてもいいので純情に生きている人とたくさん交わること。


こえ17 純情に生きる人が集まるところにはある法則がある。
     主宰している人が技術の向上よりもみんなが集うことを何より大事にしていること。
     それぞれ違う思いの者同士が同じ場所で同じ時間に同じことをする。
     技術よりもそういうものを大事にする。
     プロになれなんて言わない。
     そして相反することであるが主宰するものが飛びぬけた技術を持ち、
     指導はしないで一緒に制作すること。


こえ18 みんなを看取るまで続ける

こえ19 忘れ去られる、無視をされるということは寂しいことである

こえ20 恋と愛することは違うと思う。
     自分の作品であっても他人の作品であっても
     愛することが出来るが、
     恋とは作品を作ること自体に思い入れをするような行為だと思う。







哲学の会 ”火” 13年09月 Vol.8

2013-09-28 06:49:02 | 釜ヶ崎人情
哲学の会 ”火” 13年09月 Vol.7 からの続き





火も一緒で危ないから使っちゃダメ、煙が出るから焼き芋ダメでは
本当に必要なときに火を扱えることが出来なくなる。
いざとなれば出来ると思っても出来ないもので、
焚き火の炎でちょうどいい焼き芋を作るにはちょっとした技術が必要である。
コントロールされた火を使うのではなく、
自分で火をコントロールする。
この違いは大きい。
自分で行動するのか、どこか人ごとで行動するのか。
除菌除菌と言ってスプレーをシュッシュとしている人はどこか人ごとで行動しているのではないか。
震災になって、避難所でシュッシュとしていたらこんな馬鹿なことはない。
自分は良かれと思ってしているかもしれないが、
周りのみんな被災しているのに思いをはせることができないのは気がおかしいとしか思えない。
みんなでどう生きていくかという大きなテーマの前ではちっぽけな話である。
個という概念が強くなっている今、笑えない現実がないとは言えない。
個や一つだけの花というような考え方は
他人と一緒に何かを作るというようなことを連想させない。
自己完結してしまっている。







古来火はどう付き合うかということで人々は怖れてきた。
自己完結型に支配することではなかった。
どう付き合うかと話し合うことで人と人をつなぐ役目もやってきた。
そして火もまた人と同じく自然の中で土のように独立して立っているようなものではない。
何かに寄り添うような形で存在している。
太陽のように燃え盛る炎があれば、別なのだが、
火は昔からそこに存在していたというものではない。
火を見て遠い記憶を思い出す人もいるだろうが、
大地を見たり、風を感じたり、木々の中で立ってみたりすると
太古の昔に思いをめぐらすことができるが、
火にはそういうものがない。
今という現実を一緒に寄り添ってくれる。
火に寄り添う気持ちで付き合うことも必要なんではないか。
そういうことを考えた。





哲学の会 ”火” 13年09月 Vol.7

2013-09-27 03:52:21 | 釜ヶ崎人情
哲学の会 ”火” 13年09月 Vol.6 からの続き




西川さんが、
「昔の火の生活から今は電気の生活になりました。
今は火を使うといえばタバコくらいか。
だから、俺はタバコやめへん。(笑)
火を使うことで人類になった。
その火を人類は扱えなくなってきた。
根底のものが失われつつある。
火とどう向き合うかはこれから大きなテーマになってくるね。」
と締めくくる。







色々な意見が出て、単に暖をとるもの
調理するものだけではないようである。
火を使うことで人類が生まれたことを考えると当然のことであろう。
火は人と人とをつなぐ何かがあった。
今はお一人様を代表するように一人ですべて完結する生活スタイルが
多くなってきている。
それゆえ火との付き合い方が変わってきている。
個人レベルでは完全にコントロールされたものしか扱わない。
路地で暖をとりながら焼き芋を焼くような習慣も
嫌煙され、市役所などに通報される。
田んぼの野焼きも出来ない。
ダイオキシンがクローズアップされすぎる。
そんなことを言えば焼肉や焼き魚も食べられない。
テレレのコマーシャルを見れば、除菌除菌と声を上げる。
除菌グッズや除菌家電が無いと時代遅れのようになっている。
おかげで食物アレルギーの子供が増えてきている。
西洋医療のように元となっているものをたたけば、
すべて解決するようなものではない。
モグラたたきと一緒でたたいてもたたいてもきりがない。
それよりも東洋医学の漢方のように、
少しずつ体に毒を取り込んでいくほうが利にかなっているのではないかと思う。




哲学の会 ”火” 13年09月 Vol.8 へ続く








哲学の会 ”火” 13年09月 Vol.6

2013-09-26 07:16:13 | 釜ヶ崎人情
哲学の会 ”火” 13年09月 Vol.5 からの続き




続けて西川さんが、
「哲学のベースはひとりで生きていけないことなんです。
火、炎、暖をとりながらゆれ動く。
火の番がいりますね。燃えれば灰が出来る。
燃えカスは消し壷に入れる。
昔、看護師をしていたときにこういうことがありました。
冬場の当直は寒い。暖房機もない。
だから、練炭を使っていた。
火鉢に練炭を入れて看護師仲間で囲んで暖をとる。
するとほわぁと気持ちよくなってバッタと倒れることがあるんです。
患者さんもそういうことがわかっていて、
患者さんが助けに来てくれる。
何度かそういうことがありました。
一酸化炭素中毒。ほっといたら死ぬからね。
気が付いたら手足が動かない。
頭だけははっきりしているんだけど、体が動かない。
火というものは常に危険を伴っていて、
だから誰かが一緒にいないといけない。




油彩 20分×6 F10




そういうものと武器を使うような火。
それとどう向き合うか。
アフリカの言葉でこういうものがあります。

火を消すときは火では消えない。

争いは争いで解決しないということです。
別の何かで解決しないといけないということなんです。」



哲学の会 ”火” 13年09月 Vol.7 へ続く