釜芸 写真 Vol.10 からの続き
少しだけ落ち着いたらしく会話のキャッチボールができるようになった。
「そうやねん。結局、自分で気をつけなあかんねん。
わかってるけど坊主がな。」
とまた戻る。
堂々巡りではあるが、少しずつお酒も冷ましながら頭も冷めてくる。
でも、どう考えても理不尽な話で初めに結論ありきである。
やっているロケハンは自分たちもやりたくなかったのだが、
上からの命令で仕方ないのだと言うかもしれない。
でも、そんな言葉では受けた苦しみを拭い去ることは出来ない。
いやいやしているといっても、そこに居続ける事で
その人の生きかたは示されている。
写真と映像と違うものであるが、
取り組む姿勢で出来上がる作品はまったく違ったものになる。
ドキメンタリーと報道とは大きな隔たりがある。
ドキメンタリーはその場所に居続けることが大事であって、
どんな結論がでてくるか本人さえわからない。
報道は自分と意見が合うところだけチョイスして持って帰ってくる。
そう持って帰る。
その場所に立って見続けることが大切ではない。
自分が情報発信源になるか、自分の社会的立場が大切である。
絵で言えば個性を出すこととか絵が売れるかとか、
そんなことを言う人は多い。
描き続けることを夢だと言う人や
何かのために描きたいとか言う人はあまりいない。
描き続ければ何かが見えてくるという人は多いが・・・
前者は食うために生きる。食うために絵を描く。
後者は生きるために食う。絵を描くために食う。
前者の生き方を否定はしないが、
絵や音楽などの芸術は贅沢品であって、
それで食っていけるとしたらそれは何かの犠牲の上で成立していることを
忘れたくない。
その犠牲は自分の生涯を賭した犠牲ではなく、
誰かが請け負ったおかげで成り立つ犠牲である。
支えられて来た人々ではなくて、顔も見たこともない誰か。
絵が売れた。
それで自分の技術や感性が認められた、
世の中に受け入れられたと喜んでいる場合ではない。
ゼロサムゲームではないが、
贅沢品はどっかからかっぱらってこないとお金は発生しない。
そういうお金だと売れっ子の芸術家、売れっ子を目指す芸術家には知って欲しいと思う。

少しだけ落ち着いたらしく会話のキャッチボールができるようになった。
「そうやねん。結局、自分で気をつけなあかんねん。
わかってるけど坊主がな。」
とまた戻る。
堂々巡りではあるが、少しずつお酒も冷ましながら頭も冷めてくる。
でも、どう考えても理不尽な話で初めに結論ありきである。
やっているロケハンは自分たちもやりたくなかったのだが、
上からの命令で仕方ないのだと言うかもしれない。
でも、そんな言葉では受けた苦しみを拭い去ることは出来ない。
いやいやしているといっても、そこに居続ける事で
その人の生きかたは示されている。
写真と映像と違うものであるが、
取り組む姿勢で出来上がる作品はまったく違ったものになる。
ドキメンタリーと報道とは大きな隔たりがある。
ドキメンタリーはその場所に居続けることが大事であって、
どんな結論がでてくるか本人さえわからない。
報道は自分と意見が合うところだけチョイスして持って帰ってくる。
そう持って帰る。
その場所に立って見続けることが大切ではない。
自分が情報発信源になるか、自分の社会的立場が大切である。
絵で言えば個性を出すこととか絵が売れるかとか、
そんなことを言う人は多い。
描き続けることを夢だと言う人や
何かのために描きたいとか言う人はあまりいない。
描き続ければ何かが見えてくるという人は多いが・・・
前者は食うために生きる。食うために絵を描く。
後者は生きるために食う。絵を描くために食う。
前者の生き方を否定はしないが、
絵や音楽などの芸術は贅沢品であって、
それで食っていけるとしたらそれは何かの犠牲の上で成立していることを
忘れたくない。
その犠牲は自分の生涯を賭した犠牲ではなく、
誰かが請け負ったおかげで成り立つ犠牲である。
支えられて来た人々ではなくて、顔も見たこともない誰か。
絵が売れた。
それで自分の技術や感性が認められた、
世の中に受け入れられたと喜んでいる場合ではない。
ゼロサムゲームではないが、
贅沢品はどっかからかっぱらってこないとお金は発生しない。
そういうお金だと売れっ子の芸術家、売れっ子を目指す芸術家には知って欲しいと思う。
