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氷流日記

氷(筆者)と流さんの奇妙な徒然記

ホワイト展

2014-03-29 06:18:46 | 展覧会
28日の金曜日から大阪難波にある戎橋画廊にて
ホワイト展が開催される。
私は釜ヶ崎のおっちゃん2人を描いたものを出品している。
2人のおっちゃんの人生は谷あり、谷あり、たくさんのものを見てきた。
それを一つひとつ言葉にして文章にすると
不具合が生じる。
言葉の持つパワーというものはすごいがすべてをさらけ出すと
暴露になり品がない。
絵もすべてを出すと品がなくなるが、
描いたとて鑑賞者が細かい事実を読み取ることが出来ない。
絵はそれがすばらしい。
泣いて笑って歩んできた人生を絵では暴露できる。
彼らの心の叫びを、そして息遣いを描きたいと思ったが、
そこまでは描くことが出来なかった。
少しでも匂いだけでも出せたらと、
そう思って描いた。
間に合わせの作品にするつもりはなかったので、
彼らのためにも自分なりに魂を込めたつもりである。
お近くの方でお時間ある方はどうぞ足を運んでください。










日展 Vol.3

2014-03-09 05:54:11 | 展覧会
日展 Vol.2 からの続き



彫刻の展示は勢力争いの力のせいか脇に追いやられている感がある。
満員電車に押し込められて展示しているようにも見える。
彫刻の展示は前からしか見えなく、後の様子は確認できない。
とても残念である。
入り口のエントランスにはスペースがあるので、せめて特選くらいだけは全部見られるように展示してほしいと思う。
特選の鈴木徹男さんの作品を眺めながら、彼が人体をどう解釈しているか確認していく。
彫刻でみていくほうが生身の人間よりもより理解を深めやすいというのが
私の印象である。
それも突き抜けたうまさが無いとかえっておかしくなる。
そういう意味でも滋賀県にある佐川美術館の佐藤忠良の彫刻は
いつ見に行っても新しい発見がある。
鈴木さんの作品を見ながら気がついた点を頭に記憶しておき、
その場では迷惑になると思ったので離れて柱に隠れてクロッキーする。
胸と肋骨の際の突っ込み方とか腰骨と足の際の突っ込み方とか。
後から見える足の形とか。







描いていると美術館の学芸員の方がつかつかと近づいて、
「あの~。ここではスケッチすることが出来ないんですけど…」
目が点になる。
「邪魔にならないように離れていてもダメですか?」
「はい。」とつれない返事。
お店で服を選んでいたら買う前にシャッターを閉められて追い出された感じである。
とても陳腐な気持ちになった。
日展が悪いのか、美術館の方針なのか、どちらかわからないが名も無い人の文化を育てようとする気概がない。
どちらが悪いにしても名も無い人の美術をあこがれる心があって、
芸術文化、美術界は支えられているのだと思う。
絵を買うコレクターに絵の傾向や趣向は影響されるが、
買う絵の具、キャンパス、筆、そして入場券。
決して安いとはいえないが、我々が居なければ、
描いて無駄に捨てるようなものが無ければ、
巨匠と言われる画家さえ絵の具を手に入れることは困難になるだろう。
芸術家は大学や町の画塾などで学べばいいというのだろうか。
一人ひとりの画家や彫刻家ではなく、
美術館や団体はどちらを向いて眼(まなこ)を向けているのだろう。
画廊の出先機関にはなってほしくないというのが私の希望である。















日展 Vol.2

2014-03-08 05:32:18 | 展覧会
日展 Vol.1 からの続き




私にとって有難いのは私が所属する日洋会、
この団体も日展系の団体であるが、
画家としてこうあるべきとか、やるからには頂点を目指せとかそんなことは言われない。
要するに好きなように自由なように描きなさいという風土である。
絵を見て「なかなか個性的だね」と言われることがあっても、
もっと個性を出しなさいとかも言われない。
指導される先生方も絵を売ってどうこうしようというのがないことがとてもいい。




岡田征彦先生の作品




天野富美男先生の作品



見ていただいてわかると思うのだが日展の中では異色な部類である。
その中にいてのびのびと描かせていただいている。
しかし、去年の問題発覚でこれから日展はどうなるのか、
横から覗き込むような気持ちで見ている。
対岸の火事のようで面白そうである。
ぐるっと洋画見てまわって、次は日本画。
その他はわからないので今年はパスすることにした。
日本画まで見て、もう一度気になる作品を見ることにする。
前日に書いた彫刻の作品。
とにかく突っ込み方がいい。
この彫刻がいいからといってこのように絵で表現すると、
それはそれでまた好くない。
硬くなる。
彫刻は閉じられた空間でまわりの部屋や屋外に影響されることなく成立している。
絵はそういうわけにもいかなく、まわりの空間も一緒に描かないとダメだと思う。
人物は人物。バックはバック。
そういう感じで別々のものではないと思う。




日展 Vol.3 へ続く




日展 Vol.1

2014-03-07 05:19:52 | 展覧会
先日の日曜日に大阪市立美術館まで行った。
会期中の日展を見に行くためである。
お目当ての人がいるわけではないがとりあえず見に行く。
入ってすぐのところに彫刻の展示をしている。
特選のうち2点を気に入る。
特に入り口前に飾ってあった茨城県の鈴木徹男さんの作品がよかった。
腰の辺りや胸と乳房の際とか突っ込み方が他の作品よりも秀でていた。
鈴木さんの作品を長々と眺め、中に入るとえらいさんの作品が立ち並ぶ。
もう飽きたのだろうか、朴とつに作品を作っているという感じのものではなく、
思想や理念を具現化している感じを受ける。
今の私には鈴木さんのような素朴で突っ込んだ作品のほうが彫刻はいい。
美を見る目がないからそう思っているのかもしれないが・・・




油彩 20分×9 2日間に分けて F20



洋画を見てまわる。
すごい技術の作品が立ち並ぶ。
やむにやまれぬ想いを作品にぶつけるというよりは
自分の中になる真理を追い求めようとしている作品が多いような気がする。
これも時代の流れなのであろうか。
他の団体の作品の方がいいのかと言えば
個性の発表会ばかりでしんどくなる。
普段の生活でも自分の主張ばかりする人間はつまらない。
かといって話をあわせるだけの人間もつまらない。
人ごとのように一般論をぶちまけて
どや顔するやつも辟易する。
絵も一緒だと思うのだが、どうも芸術と言われる世界では違うようである。
表現の自由で何でもありというのが腑に落ちぬ。
昨年から日展もいろいろ問題を表面化させているが、
社会とのつながりを考えるならば在野と言われる団体よりもいいのではないかと思う。
ただ日展だけでなく、他の団体も含めて高みを目指して険しい山を登っていく人がほとんどである。
高みに立とうといている。
高みに立てば全体を見渡すことが出来るが体に突き刺すような体験をすることはない。
低みに立って、一旦自分の中に通さないと内から湧き上がるものが出てこない。
ただそれだけで終わると住めば都で堕落してしまう。
この違いは最初の一歩をどう踏み出すかで決まると言っても過言ではない。




日展 Vol.2 へ続く







エリオット・アーウィット展 Vol.6

2013-11-23 07:23:10 | 展覧会
エリオット・アーウィット展 Vol.5 からの続き



作為的なものが多すぎる。
偶然なで季語とも必然に変えてしまう。
すべてを対角に収めて、美を構築していく。
この世にあるものは収まらないものはない、とでも言いたげである。
すべてがシリアスであり、すべてがシリアスでない?
そんな軽いものではない感じがする。
作品でこれだけ演出している人間が、
自分の言動を演出しないわけがない。
フェイク。
すべてがフェイク。
何が真実で、何が嘘かわからない世界。
本当はすべてが嘘かもしれない。
と言うのはこの人の主題があるようでないからだ。
一つのテーマに追いかけるという姿勢ではない。
ジャーナリズムでもなく、報道カメラマンでもない。
報道カメラマンはニュースのあるところ、話題のあるところに渡っていく。
そういう軽さはない。
では何か。
彼は編集する側の人間。
メディア王とか大統領の補佐官のような感じを受ける。
自分が見たもの、いや編集したものが真実だと。
少し黒いものが見えた。
対角の面白い迷路に誘い込み、真実の色合いを変えてしまう。
黒人の写真も本当は演出なのか。
本当は。いやいや下種な考えはこれくらいにしておいたほうがいいかもしれない。
ただ言えることはアーウィットの作品は
人間至上主義、いや白人至上主義の視点で制作されている。
冷徹な目で見た世の中をもともと持っている彼のユーモアな気質で
柔らかに包み込んでいる。






仲間と居ながらにして独りでいることが人間観察である
それこそが写真のもっとも好きなところである