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氷流日記

氷(筆者)と流さんの奇妙な徒然記

2014年05月 哲学の会 Vol.9

2014-06-19 05:02:17 | 釜ヶ崎人情
2014年05月 哲学の会 Vol.8 からの続き



製品の重量からしてちょっと安いのではない。
かなり安い。
機械動くだけましかと取れば大怪我になる。
後日、一緒にもらった図面から重量計算して見積りすると
製品の値段より材料の値段の方が高い。
いただいた製品は図面と比べると肉厚がうすい。
重量が軽くでているということである。
正規の重量になると製造するたびに赤字になる。
おまけに製造するたびにロスが必ず発生する。
それを考えるとこの仕事を請けることは破産する道を歩くことになる。
お客さんが意識してか、無意識かわからないが
こういうトラップは世の中ではいくらでもある。
大阪にある超有名家電メーカーの仕入れ担当者が工場を視察しに来て、
この仕事をしてほしんだけどと図面を見せる。
1回のロットの売上げが10万円くらい。
図面に記される特殊なABS樹脂で利益が出るように計算して。
一見、これでいいと思うのだが、
その材料は特殊なので1トンの発注が必要である。
1回の発注での金額は80万円。
これでは小さな会社は身が持たない。
購入した材料の製品分は保証するか、
メーカーさんが材料を購入して、都度材料をうちのほうに売る形は出来ないかと
お願いする。
至極、真っ当な話である。
答えはノー。
大きな会社からの仕事なのにそういう条件をつけるとは
考えられないという感じである。
30分以上押し問答をして諦めて帰って行った。
そういう仕事でも喜んでするところがある限り、
条件をつけるところはひどいところなのだろう。
世の中にはこういうことがある。
哲学の会も終了し、みんなで西成市民館を出る。
でたところ西川さんが目を丸くして怒っている。
「酒買ったんやけど、お釣りこんなん出て来た。」







手のひらを見ても状況をつまめない。
お釣りにゲームのメダル?
5円玉?
「誰かが一生懸命偽造したんとちゃう?」
ウェイさんが応える。
「偽造にしては5円玉はおかしいやろ!。」
どういうことか。これ以上の詮索はやめよう。
気をつけていても防げないこと。
気を抜くとアカン場所。釜ヶ崎。
だから面白い。










2014年05月 哲学の会 Vol.8

2014-06-18 05:14:45 | 釜ヶ崎人情
2014年05月 哲学の会 Vol.7 からの続き



話を戻すことにする。
哲学の会は終盤になり、ある若い男が発言する。
「バイトで腹立つことがありまして。
バイトをやめるときに給料を取りに行くことになったんです。
向こうから電話かかってきて、
『何でお前、電話かけてこないんや。
もうええわ、どっちでもええから3時位に来い。』
と店長言いわれ、そこでもプッチと切れ。
何でそこまで言われんといかんねん。
で3時頃というから3時過ぎに取りにいたら
『3時と約束したのに何で3時に来ないんや』
とまた怒鳴られて、いらいらして。
行ったらすぐくれると思っていたバイト代をもらえず、
『いそがしかって計算できていないから、お前計算しろ』
と言われて、何で俺計算せなあかんねんと
そこでまた腹立って。
残業の時間の計算とかいろいろ向こうが管理しなければいけないことを
俺のせいにしたりして本当に腹が立った。
ぶつぶつ文句を言われ、給料の計算は俺がして、
働いた時間も俺がチェックして。
何でそこまで俺がせなあかんのか。
本当にひどい扱いをされた。」









そこで私は聞いた。
「バイト代はきっちりもらった?」
「はい」
「自分で書いた残業代もその通りに払ったの?」
「はい、それはもらいました。」
「じゃ、人格的に問題のある人だけど、
人としてはそんなに悪いやつじゃなくて、
まだ良心的だと思うよ。」
本人は不満顔。
「ウェイさん。どう思います?」
「お金もらえるかもらえないかが大切やから、
そうやってお金がもらえるからええと思うし。
君が計算した金額をちゃんと支払ったのは
そんなに悪い人では無いと思うよ。」
この言葉裏には善人面してひどいことをする人間がいるということを言っている。
私がしている工場の仕事で、
ある会社から見積もり依頼が来る。
指し値。
この値段だったらやってもいいよ。
材料の値段はこれで、製品の重さはこれです。
現物の製品を持って見せる。
お客さんから材料を買って、製品を売る。
相殺する賃加工である。
ちょっと安いけどどうかと。
仕事のないところは何も考えずに飛びつく。




2014年05月 哲学の会 Vol.9 へ続く






2014年05月 哲学の会 Vol.7

2014-06-17 05:10:25 | 釜ヶ崎人情
2014年05月 哲学の会 Vol.6 からの続き




彼が変えようとしている美術界もその社会の恩恵をたくさん受けている。
美術界を盛り上げたり、存続していくことは
理不尽に扱われる人たちを作っているということも私は知ってほしい。
いくら絵で生活するために貧窮を極めても
遊んで暮らしていることにはわかりない。
鎌倉時代まで農民一人が
侍、役人、坊さんを養っていたという事実から言っている遊びで
無駄金を浪費する遊びを言ってるわけではない。
室町になると農業生産が爆発的に向上し、
養ってもらえる人たちが増えて、俺は能をやる、俺は絵を描く、
じゃ俺は建築家になるという具合に職業の選択が広がった。
絵でも能でもやっている本人はわからないが、
養っている人たちがいないと絶対に成立しないのである。
(養っている人たちもわかっていないけども)
文化は養っている人たちの基盤がしっかりしていないと育たないものである。
だから、徒党を組んで偉そうにしている絵描きの絵や
こころを込めて描いても評価もされずゴミのように消えていく絵、
そういうものも含めて絵の具は安くなっている。
後世に残る絵が素晴らしく、ゴミになった絵が素晴らしくないのではない。
後世に残る絵もゴミの絵も等しく尊く、ゴミの絵があるからこそ
それとは違う絵が光り輝くわけである。
だから、美術界の悪しき慣習を切って捨てることは
美術界自体を失くすことにも繋がるのである。
絵もゴミの絵と評価された絵とを二者択一する考えではなく、
どちらの絵も支えている人たちがいて、
参加することすら出来ない経済状況の人たちがいるという事実がある。
二社択一よりも三角形の三者を考えてみてはいかがだろうか。







こんなことを書くのも
まあ、ただの負け犬の遠吠えなのだろう。




2014年05月 哲学の会 Vol.8 へ続く







2014年05月 哲学の会 Vol.6

2014-06-16 06:57:52 | 釜ヶ崎人情
2014年05月 哲学の会 Vol.5 からの続き




かつて興味があり、継続してブログをチェックしていた画家がいた。
彼は東京芸術大学出身で関西の芸大の先生をしている。
どこにも所属せず、一匹狼で通している。
骨格の研究はずば抜けたものがあり、デッサン力はとんでもないものがある。
彼が言うには、
「お偉い先生が弟子を引き連れてぞろぞろ歩くようなことは良くない。
美術界をそういう連中が悪くしている。
絵は技術を研鑽していき、人とは違う個性を題していく場なのだ。
美術界の悪しき慣習に戦い、無くしていきたい。」
そう宣言して活動している。
サムライといったらよいか。









その彼がある日、ブログにこんな感じの記事を書いた。
「レ・ミゼラブルも観て感動した。
現代の世界ではありえない状況であるが、
かつてこういうことがあったと映画を通してでも知るべきである。
学生諸君はおおきに観るべきである。」
一見、スジが通って素直な気持ちを書いているように思える。
その話にケチをつけるべきところがないように思える。
しかし、私は反吐でた。
現代の世界には無い?それはありえない。
ホームレスの姿はどこでも見かけることだし、
理不尽に扱われる人たちを作らなければ成り立っていけない社会が
今も昔も変わらずあり続けている事実がある。
これは真実である。
そういう真実に背を向けているからこそ世の中の仕組みがわかっていない。
それに自分は高みにいて、人々(学生)を引き上げようとする好意も好きでは無い。
悪気がないことは明白なのであるが、
俺がこう思ったんだから、こう思ってよという悪意はある。
悪気は無いが、悪意はある。
こう思ったから、こう思えよとは横柄な話である。
自分が体験したことを伝え、それについてどう思うかは聞いた本人に任せないと
真実は伝えられない。
思ったことを感じて欲しいとは、偏った真理しか伝えることが出来ない。
写実、写実と言われるが、何だか言葉がつまらなく感じる。




2014年05月 哲学の会 Vol.7 へ続く

2014年05月 哲学の会 Vol.5

2014-06-15 05:20:21 | 釜ヶ崎人情
2014年05月 哲学の会 Vol.4 からの続き



また、シローさんが話す。
「それから、雑魚に君付けされると腹立つ。
酒飲みに飲んだ勢いで頭を触られると腹が立つ。」
いつもの話の流れを読まない発言。
彼らしくてとてもいい。
シローさんと私は仲がいい。
画集をもらったりしている。
絵を愛する同じ男として見てくれているからである。
世界素描体系とか高山辰雄の画集とか。
どれも私の持っていないものばかりなので、
とても有難い。
死ぬまでにみんながびっくりするような作品をつくると意気込むシローさん。
ただ私と同じように絵だけではない生活があるので
絵だけに集中することは出来ない。
逃げているといえば逃げているのであるが、
絵だけ描いていても何を伝えようとするのだろうか?
自分の心に思い描くことさえ描けばすべて赦される。
世の中そういうもんじゃないと思う。









絵の世界で生き、絵の世界で起こったことや感じたことを描く。
それでは机上の空論である。
たとえ絵だけでは生活できないからとアルバイトをしてもである。
アルバイトでは表面的なことしかわからない。
どっぷりとずぶずぶに浸からなければ
本当の顔が見えてこない。
ずっと絵の中で完結している人は恋をしているようで
恋をしている間には愛を語ることは出来ない。
生活観がないからである。
絵で完結し、絵で稼ごうとする人は絵に生活観を出してはいけない。
売れないからである。
自分の部屋や企業の一室に飾るにはどこかライトなところが無いといけない。
それは描き込みが出来ていないとかそういうことではない。
売れている絵は一応に描き込みが出来て、画家もそれに賭けている。
生活の延長や画家の洞察力と解説されるがゴロッとした野ざらしの真実はない。
社会情勢を表現するような絵であったとしても
自分の体感した中でうまれた思想の絵はほとんど出会わない。
絶対的な絶望感からうまれたものがないからである。
いやいや、シベリア抑留や太平洋戦争みたいなものない現代に
そういうものがうまれるわけないないやんと反論があるかもしれない。
でも、そこまではいかなくても縦方向の穴に落ちた絶望感はちゃんと用意されているのである。




2014年05月 哲学の会 Vol.6 へ続く