goo blog サービス終了のお知らせ 

氷流日記

氷(筆者)と流さんの奇妙な徒然記

レンガ路地 140112 Vol.2

2014-01-16 06:48:44 | 釜ヶ崎人情
レンガ路地 140112 Vol.1 からの続き




幸い空き家があったので、そこの前に陣取る。
しかし、いつ文句を言われるかも知れないので緊張感はある。
言われれば素直に謝って、描く許しをお願いするか、どこかに退散するかである。
あまり気に入っていない人物画のキャンパスを裏返して、
ライトレッドと白で薄く消して、
それから自分で調合したグレーの色でデッサンしていく。
デッサンといっても人体のような空間は無いので、
気を楽にして描いていく。





油彩 F10




描いている途中で横の家の人が無言で入っていく。
うわぁ申し訳ないなと思いながら、絵を描いていく。
通過するときには必ず挨拶をしているのだが、背後で完了してしまうと何も出来なくなってしまった。
かといって気配を感じるたびに後ろを振り向けば、
通行する人が警戒するかもしれない。
1人住民の人が覗いてくれる。
「見ていいですか?」
「どうぞどうぞ。ご迷惑おかけしています。」
少し世間話をして家に戻られる。
描いている場所から10m先の方。ほっとする。
堺筋で描いていたのとは違い、街歩く人との交流は少ない。
場所が場所だけにしかたないことである。
絵ほうはというと、まだ1回目なので奥行きはでなかった。
上から見ているよう。
とりあえずデッサンして色をのせた感じ。
細かい調子の変化を描いていかないと斜めから見た視線を感じることが出来ない。
建物とか空とか地面との境目がないので奥行きを出すのは難しいなと感じた。
次回の課題である。
ここで描き続けられるかという問題と奥行きを描ききることが出来るのかという問題の
2つをクリアして、この場所の歴史を描けるかということである。
まあ、それでも奥行きとか質感などそういうものよりも
この場所の歴史を描くことを優先していきたいと思う。





レンガ路地 140216 へ続く

















レンガ路地 140112 Vol.1

2014-01-15 05:00:31 | 釜ヶ崎人情
外の冷え込みは厳しいが、久々外で描くことにした。
堺筋を描いたあと、なんとなく描きたいところがでてこなかった。
釜ヶ崎に建っているビルや家を描いたが、いまひとつ心がのらない。
それは造形としての面白さ、構図の面白さから絵を描いているためだ。
ただ単に人物を描いているだけではと思い、
構図の勉強もかねて描こうと決めていたのでしかたいではあるが。
抽象画を描くつもりで現物のものを描こうとしていた。
ただそれだけで終われば、よくある狙った写真の作品になってしまう。
そこに街の匂いというか、味というか、
そんなものをかもし出せればと思っていた。








ずるずる描きたいと思える場所もなく時間は過ぎるのかと思っていたところ、
いろんな情報を知る機会を得て、興味がたくさん沸いてくる場所が見つかった。
それは入り込んだ場所にあり、大正時代にレンガや石を路地に埋め込んでいる。
元々湿地帯に街が出来たので水はけが悪い。
釜ヶ崎ということだけあって、昔は海岸沿いにあった場所である。
上町台地という断崖があって、その下に続く波打ち際と思えばいいと思う。
川から運んでくる土砂と干拓工事で大阪平野はどんどん広がっていく。
そういう場所だから、雨が降るたびに水浸しになって道路がドロドロになる。
昔の道路は舗装されている場所が少なく、がたがたしている。
平坦ではない。
生活するには非常に不便であるのでレンガや石を埋め込むことで、
多少水がたまっても堅い地面があれば何とかなるということである。
レンガは中小企業にあったものか、取り壊したものから拝借したのか、
地域のところから用意したみたいである。
さあ描こうというとき、少し度胸が必要であった。
それは路地が生活道路であり、道幅は1.5Mくらい。
2Mは無い。
私がここの住民であればあまり心地よいものではない。




レンガ路地 140112 Vol.2 へ続く









街歩き 140103 Vol.5

2014-01-14 07:18:25 | 釜ヶ崎人情
街歩き 140103 Vol.4 からの続き



日本の芸術、芸事は差別からの飛躍をテーマにしていることが多い。
だから、室町時代の能とか狂言とかの興業は四条河原ですることが多かったらしい。
日本の芸事の起源は古墳時代まで遡(さかのぼ)る。
祭事や踊りをするものは能とか狂言の世界に繋がり、
古墳で葬式をしていたものたちは穢れの思想が生まれてからは差別を受けることになる。
今で言えば地区といわれるところである。
古墳を作った人たちは土木工事の専門家になる。
そういう人たちも江戸時代とかには黒鍬(くろくわ)ものとして集団で生活し、
全国を飛び回る。町人との交流は少なく、差別の目で見られていたとも聞く。
このように芸事は差別と切っても切られないものがある。
そう考えれば、今も昔もそう変わらないと考えるのがよいかと思う。
貧困や差別は恣意的に作られる部分が大きく占めていることを見逃すことは出来ない。
阿修羅さんが続ける。
「この不法投棄、いらないと言って捨てるものがいれば、
必要だと言って漁るものもいる。
食べていくために、銅なら銅、鉄なら鉄、ステンならステン。
分別していく。
どこかの標語ではないが、混ぜればごみ、分ければ資源。
そういうことである。
いろんな要因が重なって、解決の道はないような状態です。」
世の中、理想だけでは生きていけない現実があり、
本当に一筋縄ではいかないものである。









「釜ヶ崎は救急車の出動が多い地域です。
生活保護の人や労働者でも保険に入っていない人が多い。
では医療費はどうするか?
市や府、国が補償する。
少々対応が悪くても踏み倒しはない。
どこも嫌がるので1ヶ所だけが受け入れをしてくれます。
今の受け入れ先が3代目であり、
以前の病院では粗末な扱いの報告もあります。
病室が死体の安置所の横であったり、夜中に追い出されたりしていました。
それでなくなっている人もいるそうです。
本人から医療費を受け取っていないのでいろいろと問題が発生しているみたいです。
労働者をどんどん受け入れるので病院としては儲かるんですね。
儲かったらどうするか、別の場所に大きな病院を建てて受け入れを拒否する。
その繰り返し。そして、今が3代目の病院である。
問題は多いが、釜ヶ崎の街にとってはなくてはならない存在です。」
現状を訴えて、改善したとて、受け入れ自体を辞めてしまうと治療を受けられなくなってしまう。
だから、不満はあるが我慢する。
世の中がお金がなかったら生活できないようなスタイルに変化してしまっているからである。
ただ、海外のように公的健康保険がないところと比べれば、貧乏人は死ねと言われるよりはましかと思ってしまう。






街歩き 140103 Vol.6 へ続く






街歩き 140103 Vol.4

2014-01-13 06:42:32 | 釜ヶ崎人情
街歩き 140103 Vol.3 からの続き



駐車場には屋根があり、路上販売の品々が並んでいる。
「路上販売を警察が排除して、苦肉の策として出来たのが駐車場での販売。
当然、盗みの横流しのものは置いていない。
南海電車の降下したには今でも路上販売があります。
でも朝7時には警察が路上販売を摘発したり、排除したりします。
そういう背景で車一台分の家賃の用意して、駐車場で販売をする。」
商魂たくましい。ちょっとやそっとじゃ折れない心がある。
「日本橋には5階百貨店という店があるのを知っていますか?
2階であっても5階百貨店。
通天閣が出来る前に、5階百貨店の横に5階建ての展望台がありました。
本当は展望台が先だけど。
その展望台を見に来る観光客相手に路上販売をする。
その名残が残っている。だから、名前は5階百貨店です。」
路上販売の駐車場を過ぎて、南海電車の高架下を通過する。
そこは不法投棄の場所。
フジテレビの報道2001で放送された場所。
ちょうどその番組は私も見ていた。
キャスターがこんな場所を子供たちが通学路として通っていくのは
どうお考えですかと攻める。
かなりの不快感を持った。
それは橋下さんも同じのようで、
「不法投棄、不法投棄とおっしゃいますけども、
不法投棄はよくないですよ。
それはわかった上で申し上げますが、
現にこの場所付近に住んでいらっしゃる方もいますから、
そういうことを踏まえて発言なさってください。」
橋下さん、たまにはいいこと言うやんと思いながら番組を見ていた。
その場所にいる。









そこは有名なところで釜ヶ崎をうろうろしていたら必ず見つかる場所である。
阿修羅さんが横に立ってみんなに説明をしていく。
「市は何もやっていないんじゃないかと批判している人もたくさんいます。
それは逆でこと不法投棄の件については市はよくやってくれています。
一日に何度も市はごみを回収します。
夜中の2時にごみをきれいに片付けても、明けて5時にはごみでいっぱいになります。
監視カメラで摘発しようとしていますが、
効果はなくて、いろんな地区から集められてごみの山になっています。
ごみといっても西成にもともとあったごみをかき集められたものではないですよ。
多少はありますが、基本は西成以外の業者や個人が勝手に釜ヶ崎に持って行って、
人気のない夜中に捨てる人が多いんです。」

釜ヶ崎は不法投棄やスラム化されたところがある地域ではなかった。
日本橋や千日前辺りにあって、半強制的に移されて出来た街である。
出来たと言うと語弊がある。
元々あった町を行政が作り上げたと言えば正しいだろうか。
千日前には芝居小屋やお墓があった。斎場もあったし、処刑場もあった。
お墓と笑い、芸事は中世の日本はセットであった。




街歩き 140103 Vol.5 へ続く




街歩き 140103 Vol.3

2014-01-12 05:53:31 | 釜ヶ崎人情
街歩き 140103 Vol.2 からの続き




シェルターは建て替えるために更地になっている。
「建て替えるのはいいんですけど、今度東京でオリンピック決まりましたよね。
東京は大阪に比べて給料がいいんです。倍違うようなときもあります。
だから、人がそっちに行ってしまってシェルターが建てられなくなるんではないかと
業者がビビッて入札しなかったんです。
入札したのはたった1社。もし、建てられなくなったと言われればどうしようもないので、
市は様子見をしています。1社では入札にならないからですね。
ここの場所はもともとは四恩学園というのがありまして、その跡地です。
釜ヶ崎の暴動の後、四天王寺に移りました。
横には市営住宅がありました。
しかし、ここに子供がいるのはよくないという市の方針で、公営住宅を斡旋して、
子供を地区からどんどん追い出していきました。
その場所は高齢者福祉施設 三徳寮 になっています。
次は小学校に行きましょう。」
萩之茶屋小学校まで歩く。








「ここの小学校は一時期1000人を越える子供たちがいました。
それが子供たちを追い出す方針のおかげで、今は50人になりました。
新しく住みだした家族者か抵抗している人々の子供くらいが残っているようなものです。
その小学校の周りを覆う塀には水道管をめぐらしています。
ある時間になるとその金属のパイプから水が出てきます。
パイプの下には鉢植えがあり、市や学校は花に水をやるためだと言っております。
こじつけです。
水は夕方になると流れてきます。あたり一面は水浸しになります。
水浸しになるとダンボールを引くことが出来ません。
つまり、路上生活者を寄せ付けないようにするためのものなんです。
商店街でもありますよ。シャッターを閉めた後、店前に水を撒く。
理由は同じものです。
商店街は別にして、公は生きる権利を保障しなくてはいけません。
排除することは真逆の行為だと思います。」
市と学校が一緒になって排除していく。一番弱い子供から。
残るは独り者だけになる。
孤独な人々がいる街と言われるが、
そういう人たちが引き寄せられたということだけではなく、
行政が恣意的なことをした結果、街がそうなったという事実は大きい。
この場での質疑応答をした後、次の場所、駐車場に行く。



街歩き 140103 Vol.4 へ続く