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氷流日記

氷(筆者)と流さんの奇妙な徒然記

センタ- 140915 Vol.3

2014-10-14 07:03:04 | 氷流日記
センタ- 140915 Vol.2 からの続き



場所はあいりんセンターに移す。







ここでの中での撮影はしなかった。
何かぞろぞろ歩いて、押しかけといてパシャパシャ写真を撮ることは
失礼だと感じたためである。
2回に登ってみんなで移動しているときに一人のおっちゃんが吠えた。
「どこにも行き場のない人間がここに来るんや。
わかってるかっ!!!!!!」
後ろめたい気持ちがさらに後ろめたい気持ちにさせる。
では、センターに行かないでいいのかというとそれはそれで問題がある。
あいつらはあいつら、俺は俺という感覚では世の中に一石を投じることは出来ない。
知らないふりをすることは体制を強化する人たちに協力しているようなものである。
だから、文句を言われてもセンターに行って自分の目に焼き付けてくるべきだと思う。
1階に降りて、センターを出る。
オリーブという施設のと間には監視カメラが設置されている。
日本ではじめて監視カメラが設置されたところ。
カメラは360度グルグル回ることができるみたいである。









どの時代もそうであるが、生きることは難しい。
生き抜くことはもっと難しい。
生かすことはさらに難しい。
監視するより生かすことはないのだろうか?
話してもわからない人間だと思っているのだろうか?
それとも話す価値のない人間だと思っているのだろうか?
不思議と組織の一員になると人間は変わってしまうし、
組織から開放されて一個人になるととてもいい人だったりする。
人を監視続けると、そういうものだとそれが当たり前だと思考が働くみたいである。
つくづく思う。
人は思考や思想が行動を決定するのではなく、
行動が人の思考や思想に影響を及ぼすというなんだと。
組織の見えない力(強制力も含めて)や何気ない言葉で縛られて身動きが取れない状況になることは
これを読む皆さんのほうがよくわかっていることだと思う。



センタ- 140915 Vol.4 へ続く






センタ- 140915 Vol.2

2014-10-13 10:56:12 | 氷流日記
センタ- 140915 Vol.1 からの続き



楽描の会をとおして、ヨネキチさんなどいろいろな人と知り合えることが
有難い。
外で写生をしているときもそうである。
誰かしら話しかけてくる。
団体で描いたいると特にそうである。
一人で描いていても話しかけてくる。
まわりに人がいないと突っ込んだ話を初対面であるにもかかわらず話しかけてくる。
人は心の奥底に閉まっておいても
知らず知らずのうちにあふれてしまっているのだろう。
隠そうとする気持ちと自分を知ってもらいたいという心と
相反するモノがせめぎあっているのだと思う。
そこに非日常的に路上で絵を描く。
それも観光名所じゃなく、釜ヶ崎で描くということが
吐露するような油断が生じるのかも知れない。
しかし、外で描くことにも一つ動かされない自分がいて、
そんなときにお盆の夏祭りのときに水野阿修羅さんの街歩きの講座があった。
自分で歩くだけでは発見できないものや知識を知ることができるので
好奇心がそそる。







みんなに説明しているのが阿修羅さん。
紫のヘアーに耳には安全ピンピアス。
独特の風貌であるが語り口調は静かでとても紳士的である。
紳士的ではあるが中にある芯はずぶといものがある。
酒を飲んで、アドリブで大きな声をあげているおっさんたちには
魂がある。大手で働くサラリーマンには無い魂を。
そのおっさんたちでも持っていないような深い魂を阿修羅さんは持っている。
ちょっと脱線して街歩きの模様を話してみる。








この写真は西成区ではなく、線路を渡った浪速区のところ。
ここら辺は昔、今宮村と呼ばれていた。
写真の線路沿いのところには所狭しとラーメンの屋台が立ち並んでいた。
当時は活況を呈し、繁盛していた。
その後、市の行政命令などがあり、今は面影もない。
持久戦になるとやっぱり官庁の力というものが大きいのかと思わざる終えない。




センタ- 140915 Vol.3 へ続く



センタ- 140915 Vol.1

2014-09-28 08:35:02 | 氷流日記
9月15日、楽描の会があった。
この日は互いの顔を描く企画。
その描いた顔を10月末から始まる萩之茶屋芸術祭に出品する。
それぞれの作品を出すのではなくて、
楽描の会の中の統一性を出すことに少し多めに重心を置く。
ホントの個人個人の作品は釜展に展示できたので、
あえて萩之茶屋芸術祭には趣向を変える。
他の団体も出すので、楽描の会の存在というものに注目してもらいたい
ということでそういう風になった。
しかし、その日はヨコトリの狂言の公演前。
ギャンさんはカメラ取材の密着で参加は出来ない。
朝の自宅での朝食のシーンから
ココルームでの昼食、釜芸の詩の講座、狂言の練習
インタビュー、自宅での夕食。
ずっと張り付いている。
息苦しいほどの取材である。
失うものはないんですとケロリと笑う、ギャンさん。
6時台のニュース番組の特集に流すらしい。
10分くらいの報道だそうだ。
今回は釜芸がメインでニュース番組なので大丈夫だと思うが、
こちらとしては少々不安。
編集の仕方によっては事実と違うものが出来上がるからである。
そんな時期だからみんなの集まりは悪かった。
私、YUさん、アマゾンさん、ミナさん、哲学のユースケさん、ジョニーさん。




ジョニーさんの作品 メルちゃんを描く



他には途中詩の講座に行った、メルちゃん、ギャンさん、ヤマヒロさん。
新しい出会いもあった。
ジョニーさんの友人の鬼龍院ヨネキチさん。
彼はアベノベルタなどでイベントをプロデュースしている人である。




ヨネキチさんの作品 ヤマヒロさんを描く




センタ- 140915 Vol.2 へ続く





第1回 釜展 Vol.6

2014-09-20 04:25:18 | 氷流日記
第1回 釜展 Vol.5 からの続き





YUさんの作品




釜展で感じてのは会場にいて、すごく疲れたこと。
作品の熱気が伝わり、体力を削られたようであった。
置き方は壁に掛けることが出来ないので、
立てかけるか、テーブルの上に寝かすか。
そんな置き方で誰の作品か判別しにくいのに伝わる熱気はすごかった。
今までの展覧会では味わえないものである。









最終日の2時頃から夫婦善哉のプロト版を上映する。
監督うんこさん。編集うんこさん。
一緒にみんなで食べた善哉を思い出す。








流れる音楽もマッチしていい作品に仕上がっている。
残るは口縄坂の撮影と通天閣での撮影。
何で絵描きの会で映画を撮るんだろう。
私も不思議である。
うんこさんから映画を撮りたいとギャンさんの夢をかなえたいと迫られて、
じゃ撮りましょうかとトントントン。
世の中おもろいもんです。
掘れば出てくる才能はいっぱいあるんですね。
私は指をくわえてただ見ているだけ。
ちょっとエキストラで出演もしたけど。
大体は裏方。
おかげでゆっくりと覗き見ることが出来た。
楽描の会、釜展を通していろんなおもろいもんを味あわせてもろた。
まだまだ企画はある。
ジョニープレゼンツ 沖縄祭り。
沖縄に特化した一日。
着物の柄や色からイメージした抽象画や紙粘土で作るシーサー。
出来れば沖縄県民会の人と交流してやりたい。
沖縄が持つ負の記憶も含めて味わいたい。
他にはギャンさんたっての希望の裸婦デッサン会。
これは3月に決定した。
会場も抑えた。ずいぶん先の話であるが。
それと年末には干支の置物を作りたい。
木村伊兵衛のような写真を撮ってみようかという話もある。
第2弾映画、今度は寅さん。
集まればそんな阿呆な話をしている。
でも、いろんなものを味わおうということだけは一致している。
やったところで世間に注目させようとしていないところが
本当にすばらしい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
偉大なるアマチュア集団。
ホンマもんは専門のプロではなく、
アマチュアの中から悪あがきをしながら出てくるのではないかと思う。
俵屋宗達や岩佐又兵衛のように。





YUさんの詩





第1回 釜展 Vol.5

2014-09-20 04:23:30 | 氷流日記
第1回 釜展 Vol.4 からの続き




夏の疲れで一月くらい更新をあけてしまった。
沖縄がルーツのジョニーとお互い体は嘘つかんねとメールで慰めあい、
少し元気になった翌朝、また働く。




ジョニーの作品



夏の疲れだけでなく更新が遅れたのは絵をもうちょっとがんばらないと
そう思ったからでもある。
きっかけはメルちゃんの作品。
釜展に出品したコラージュ本はとても圧力のある作品でした。







細部にまでわたり心を配り、魂がこもっている。
魂がこもっているといっても自分の表現したい世界をガラクタたちを通して言っているのではなくて、
缶や手袋、診察券、メモなどの声を聞いて作品にしている。
捨てられたものをガラクタとして利用しているのではなく、
捨てられたものを魂のあるものとしてひとつひとつ大事に扱っている。
これはすばらしいことである。








私もそういう姿勢で描いているつもりである。
出来不出来は別にして (^^;
だから、メルちゃんも私も自分の個性をまず初めに出そうとはしていない。
個性を出そうとすると声が聞こえなくなるからである。
聞こえなくなっているのに作品に魂がこもることはない。
作品を自分の分身だと考えている人には理解できない話である。
生れた作品は自分の子供にかわりはないのであるが、
人格としては別人格である。
作家とは別次元でありコントロールできるものではない。
これは私の考えであるが、
個性は出すものではなくて漏れるものである。
出さないように出さないように蓋を閉めても
勝手にあふれ出る。
そういうものであろうと思う。
そういう意味でメルちゃんは私のライバルである。
メルちゃんがそこまで細部に気を配っているなら
私ももっともっと気を配らねばと決意する。
そうして描いているうちにブログに時間を費やすことが出来なくなってしまった。
これはいいのか悪いのかわからないが、
そういう1ヶ月でありました。




第1回 釜展 Vol.6 へ続く