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氷流日記

氷(筆者)と流さんの奇妙な徒然記

釜芸 あります

2013-12-01 06:22:15 | 氷流日記
今日、12月1日 朝10時から
カマン!メディアセンターで
私、本宮氷が絵画の講座をします。
前回は顔の比率。
今日は水彩。
絵を描く魅力はなんと言っても色彩。
その色彩を使う講座をします。





尾崎放哉 追記

2013-11-17 08:33:24 | 氷流日記
尾崎放哉 Vol.6 からの続き



西川さんが書いた
「一人」のうらに
の刊行記念トークがあります。

11月29日(金) ジュンク堂難波店 18:30~

12月10日(火) Calo Bookshop(大阪・肥後橋) 19:00~


興味のある方は覗いてみてください。

11月29日に多分行きます。私。
場違いのかっこうしているのがいたら、それが私です。




尾崎放哉 Vol.6

2013-11-16 06:25:17 | 氷流日記
尾崎放哉 Vol.5 からの続き




放哉のことを書いているのか、日勝のことを書いているのか、
ちょっとわからなくなってきているかもしれないが、
前日載せた日勝の絵や放哉の句には
視界を開けるような爽快感はないが、
胸を打つ、心臓をえぐり取ってしまうような強さがある。
泳ぎに例えれば、
個性、能力、才能と呼ばれるものは
果てしなく続く海を泳ぐ遠泳のようなものである。
途中途中に島があり、それぞれのステージをクリアしていく。
途中の島でいかだを手に入れるかもしれない。
もと行けばモーターボートを手に入れるかもしれない。
ヨットや豪華客船だって手に入る可能性だってある。
それがその人の個性だと入れるだろう。
もう一つの”地”。
これは泳ぐより海底に潜っていくようなもの。
酸素ボンベもなく、深く深く潜っていく。
どれだけ潜っていくかはその人次第。
どんな豪華客船に乗っている人でも
たった一人で酸素もなく潜っていくしかない。
深く潜りすぎれば、放哉や日勝みたいに戻ってこれなくなってしまう。
深く潜ることはいいが、垂直に潜っていくので前に進んだことにはならない。
それでも同じだけ時間は進んでしまう。
世の中の評価や対価はどれだけ前に進んだかである。
豪華客船やモーターボートでも停泊したままならお金は入らない。
ただ泳ぐだけでしか出来ない人でも泳いだ分だけ日銭は稼げる。
人間を知るには深く深く潜らなければいけないが、
それでは日々を生活する糧が入らなくなる。
そこに人間の悩ましい問題がある。
そういう問題を潜り抜けた西川さんが
放哉と出会い、共鳴し、執筆した。
前に進むことしか考えていない人には読んでも刺激がないので何の価値もないように思えるかもしれない。
でも、少し潜ってみようと思った人は
ぜひ読んで欲しいと思う。
深く深く傷を負った人には味わい深いものになることを約束します。
小さく叩く人には小さな音。
大きく叩く人には大きな音。
そんな呼吸をする本です。









尾崎放哉 Vol.5

2013-11-15 07:04:05 | 氷流日記
尾崎放哉 Vol.4 からの続き




放哉や日勝のように表現することを個性という。
個性。個性と言っていいのだろうか。
個性というにはあまりにも軽すぎる。
壮絶な人生を語るような言葉ではない。
ここに1000円あったとする。
その1000円で残り1週間過ごさなくてはいけない事態になったとしよう。
1週間後に給料が入るが、一ヶ月カツカツの生活。
だから、借りても返せない。
ある人は計画的に7等分して一日使えるお金はこれだけ。
そのお金でつつましく生活する人もいる。
またある人は知り合いにお金を借りにいくかもしれない。
ただ返すあてはない。
そのまま縁を切りとんづらをかます。
だが、それも限界はある。
ある人は電車賃を払って、友人に食料を分けてもらおうと頭を下げにいく。
パチンコやボートでお金を増やそうとする人もいるだろう。
それらを一つひとつ、
「あなた個性的ですね。」と言えばぶん殴られることだろう。
では上に書いたよなことはその人をあらわさないかと言えば
その人そのものである。







着飾ることのないもの。
個性を越えた個性。
それが”地”である。
その”地”に詩情があったり、絵心があったりするのだと思う。
古典的な絵に命を懸けて、古典技法を学ぶ。
グレーズで美しいグラデーションを奏でる。
美しい色面の抽象画でもいいだろう。
そして、命を懸けた絵が売れて、
自分の進む道に間違いがないと確信する。
だが、それをも越えた”地”や”性(さが)”に比べて
なんて軽い軽い命だろう。
放哉と日勝の作品からはそんな野太い地の底から立ち上るような声が聞こえてくる。
所詮、個性というのは”地”に纏った美しい絹の衣ではないかと思う。




尾崎放哉 Vol.6 へ続く




尾崎放哉 Vol.4

2013-11-14 06:50:03 | 氷流日記
尾崎放哉 Vol.3 からの続き



西川さんのこの本、
「一人」のうらに
尾崎放哉の島へ
この本は教え諭すような本ではない。
彼が哲学者だからといって、
何か教訓じみたものを求めようとすると期待はずれになる。
そもそも教訓や有益性を求めるならば、
それは哲学ではなくて宗教である。
宗教は答えを与え、よりよい生き方を求める。
一方、哲学は問いをすることによって、生きる意味を考える。
この本は西川さんが生きる意味を考えていく過程の
途上の本である。
宗教は秩序に向かい、哲学はカオスに向う。
その間で人間は増大していくエントロピーとどう向き合い、
均衡を保ち、平静をよそえるか
そこに人間性というか人間味がでてくるのではないか。
それは水鳥が水面下で激しく動かす足のようである。
放哉は降りかかった受難をそのまま受け止め、
流すことなく、切り売りするように句を作り続けいたと思う。
そういう人たちは早死にする傾向がある。
放哉も例外ではなく、41歳で生涯を終える。
放哉のそんな生き方に重ねあわす絵描きが二人いる。
ゴッホと神田日勝。
ゴッホは言わずもがな、皆さんご存知であろう。
神田日勝は東京で生まれ、疎開で北海道まで移り住んだ。
厳しい寒さでのなれない農作業は試練のようなもので
ときに騙されて老馬を買わされ、
すぐに死んでしまい、お金がなく、これからの生活をどうしようかと途方にくれる。
それでも自然と向き合い、一心にすべてを受け止めて、
その受け止めたものを切り売りするように絵筆とナイフで
ベニヤの支持体になぐるように叩きつけた。









絶筆となった馬の絵である。
彼の絵は一部を除き、技術を出そうとか、うまく描こうとか、
達者にほめられたいとか、
そういういやらしいものがない。
ならざるようにしかならない絵である。








尾崎放哉 Vol.5 へ続く