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氷流日記

氷(筆者)と流さんの奇妙な徒然記

楽描の会 3月21日 Vol.5

2014-04-07 07:19:57 | 氷流日記
楽描の会 3月21日 Vol.4 からの続き




参加者にはそこまでの話はしていないが、
デッサンによって思考回路が影響されることは話した。
それならば今の自分の生活スタイル、思考の仕方に
あったデッサンや描写をすればいいのではないかと思う。
あわない思考のデッサンをしても生き苦しいだけである。
それぞれの思考にあったデッサン方法でアドバイスしていく。
今回、初デッサンのMさんは大阪大学の先生。
心理学を教えている。
大阪大学の先生になるくらいだから相当頭はいい。
しかし、切れ切れのオーラはまったく出していなくて
ホントやわらかく温かい人である。
その彼が描いたデッサンは下の右側。







いきなりここまで描くとすごすぎる。
彼には視覚的アプローチでダヴィンチの描き方をアドバイスした。
やわらかくやわらかく煙のように描いていって、
光の当たっているところと陰のところその境目を大事にするようにアドバイスしていく。
そのアドバイスを素直に黙々と描いて行く。
イーゼルが行き届いていなかったのでイーゼルも無しで。
彼は続けていけば必ずすばらしいデッサン家になる。




楽描の会 3月21日 Vol.6 へ続く











楽描の会 3月21日 Vol.4

2014-04-06 07:24:57 | 氷流日記
楽描の会 3月21日 Vol.3 からの続き




商売のほうもそうである。
20年、プラッチック屋をしている。
自分の親、得意先の社長、仕入先の人々を長年見てきて、どういう思考になっているのか考えた。
一時期、商売は非情にならなければならないと、そうなろうとした時期もあった。
なろうとしたがなれなかった。
非情になって、銭をたくさん余るほど出来たとしても、
そこに生きがいを感じることが出来ないからである。
ようは商売の才能がないということである。
好きこそものの上手なれとはよく言ったものである。
事業を大きくしようとすることに魅力を感じることが出来ず、
存続できればいい、もし出来なかったとしてもそれでもいいじゃないかという
頼りない、ふにゃふにゃした考え方になった。
しかし、そうした考え方でないと見えてこないものがあるということに気づく。





参加者の石膏デッサン




崇高さを求め、険しい山を登っている人には絶対に見えてこないものがある。
賽の河原で石を一つ一つ手にとって眺めなければ見えてこないものがある。
山の上から見る景色は壮大ですばらしい。
全体像も見ることが出来よう。
競争に打ち勝ったものが支配することも出来る。
技術や才能で他をひれ伏すことも可能である。
可能ではあるが、下界に起こっていることはわからない。
何もないように見える。
下界に起こっていることを聞いて処理するけれども、それは処理で、
わずらわしい出来事である。
つまり、真実を手に入れることは出来ないわけである。
真実はいつも雨ざらしでゴロっとしている。
真実を手に入れられない代わりに、真理という禁断の果実に近づくことが出来る。
真理とは真実にあらず。
どこかコイルでグルグル固められたように嘘が潜んでいる。
これもありました。それもありました。
だから、神はいるのですよという布教もその一つかもしれない。
また逆に言えば河原でごそごそしているものは山の景色は見ることも出来ないのであるが。




楽描の会 3月21日 Vol.5 へ続く



楽描の会 3月21日 Vol.3

2014-04-05 05:51:45 | 氷流日記
楽描の会 3月21日 Vol.2 からの続き




一方、視覚的アプローチはあいまいな部分、
グレーゾーンはグレーゾーンのままに描き写していくので
人との差異を見ていくよりも共通点を探していくようになる。
デッサンも決め打ちしていくよりも煙のように薄く薄く徐々に形を形成していく。
そう形成していく。







構造的に見るよりも成り立ちを見ていくことである。
この人はどういう人間か、ここまで来るのに何があったのか、
そういう思考になっていく。
だから、絵を説明するときにその人はどういう人間で何をやっているのか、
そして、何か表現したかったのかを口にするようになる。
彫刻的アプローチの人から見ると
筋肉や骨を描けていないのに何ふにゃふにゃしたことを言っているのか、
馬鹿じゃないのと思われるかもしれない。
彫刻的アプローチを指導している人が言うことには
人体を構造的に表現できるようになったら、
何でも描ける。色も思うように使えばいい。
まず、描けるようになれ。
描きたいものはその後でもいい、そういうことみたいである。
それでは遅い。
ボランティアに例えてみよう。
人助けをしたいと思い、活動してみても思ったようにすることが出来ない。
お金がないからである。
では、まずお金を稼ごうと事業を始めたとする。
事業が軌道に乗り始めてきたらボランティア活動をしようと思っても、
少々のお金では事業自体の存続が危ないので、まだ出来ない。
それでは事業をもっと大きく、もっと大きくしてからやろうと考える。
事業は大きくなった。お金もある。
ではボランティアに大きくシフトして活動ができるかと言えば
100%出来ない。
せいぜい企業メセナでお金のないボランティア活動をしている人たちに寄付をすることぐらいである。
それはかつての自分に協力することである。
もうこの時点で異質のものになっている。
それに企業をそこまでの規模にするには骨の髄まで効率化が染み込んでいる。
効率化を強力に進めることは企業にお金が内部留保することであるからいいことであるのだが、
その一方、お金の取り分を少なくなる人たちを作ることになる。
商売は推し進めれば推し進めるほど、非情になる。
構造的に物事を見たり、思考したりすることは非情になることであり、
仏作って魂入れずになってしまうことになる。
これは3年間、視覚的デッサンと彫刻的デッサンを揺れ動きながらやっていって、
自分がどういう心の変化が起こるかと観察した結果である。




楽描の会 3月21日 Vol.4 へ続く









楽描の会 3月21日 Vol.2

2014-04-04 04:52:14 | 氷流日記
楽描の会 3月21日 Vol.1 からの続き




しばらく、ブログの更新を怠けていました。(^^;
消費税前の駆け込み需要で忙しく、お疲れで。
4月になり、うって変わって暇になる。
暇でもからだの疲れは取れず、絵もブログもぼちぼちいこかと思います。
では本題に戻ります。

一方、視覚的アプローチで有名な人はダヴィンチ。









目で見えたものを描き写す。
あいまいに見えたものはあいまいに描く。
彫刻的なアプローチはあいまいに見えるところは知識と経験で描ききる。
そうすることによって外界との境界を断ち切り、
閉じられた世界になる。
縦方向に強い力をもたらせる。
視覚的アプローチは形があいまいなところもあるので
外界との境界はわかりづらいところも発生する。
どこかしら繋がっているようにも見える。
それによって横の広がりを感じさせる。
閉じられた空間ではなく、開かれた空間になる。
絵画を描くなら、私は視覚的アプローチの方がいいと思う。
どちらを選ぶにせよ、ある程度描けるようになるともう後戻りは出来ない。
思考がデッサン方法に支配されていく。
彫刻的アプローチを選ぶと絵を描く想いよりも先に筋肉や骨がかけているかどうかを
口にする。
初めこんな絵を描きたいと話していた人もそれを話さなくなる。
そして、筋肉や骨が他の人とどう違うかや
ポーズによる変化を話すようになる。
つまり、人との差異、違いを見つけようとする。
絵を構造的に、人を構造的にみていくことになる。
もはや人を人として見るのではなく、
人体としてみることになる。
構造的、解剖学的に見ることはモデルとなった人の魂は
絵にこめられなくなってしまう。
誰かのために、何かのためにではなく、
自分の表現のためという自己完結型になる。




楽描の会 3月21日 Vol.3 へ続く





楽描の会 3月21日 Vol.1

2014-03-26 05:16:16 | 氷流日記
21日、ココルーム前のカマン!メディアセンターで開催した。
12時から私を含めて11人集まった。
哲学の会の西川さんや
釜芸の岩橋さん駆けつけてくれた。
2人の心意気、有り難い。
会を盛り上げてあげたいという気持ちがたくさんたくさん伝わってくる。
会の滑り出しは上々である。
この日の石膏デッサンはビーナスとアグリッパー。
石膏デッサン初挑戦という人がほとんどである。
何しろ初めてだからやり方がわからない。
ブロックインから形を起こして、
薄い鉛筆で徐々に描写していく。
そういうやり方を紹介する。
彫刻的デッサンと視覚的デッサンのアプローチの違いも紹介する。
彫刻的デッサンはバックを描かずに手でつかめるような感覚で描く。
視覚的デッサンはバックと同時進行で光を感じるように描いていく。
彫刻的デッサンは自己を表現するにはぴったりの方法。
いわゆる個性を表現するということ。
色は自由。制約はない。
好みの色を描いてもいいし、実際の色を使ってもいい。
彫刻的なアプローチで有名な人はミケランジェロ。







一つ一つの筋肉を描写し、余すことなく描いていく。
あいまいなところは容赦しない。
とにかく描きまくる。







人物は人物。バックはバックと描き進めていくので、
物と物はどれくらい離れているかとか形がどんな形かがはっきりする。
はっきりはするがバックとの一体感がなくなる。
融合したものがないので横の広がりがなくなり、閉じられた空間がそこにある。
つまり、自己の世界観または神々の世界を表現し、
鑑賞者が一緒の場所に立っているような感覚はなくなる。
光っているが光を感じることが出来ず、
人物の周りに空気があり、風が流れているようなものはない。
独立独歩、わが道を歩くである。
今の時代にマッチし、現代風である。
1億総個性の時代。
この方法ですべて事足りるかも知れない。






楽描の会 3月21日 Vol.2 へ続く