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氷流日記

氷(筆者)と流さんの奇妙な徒然記

天王寺公園 Vol.4

2014-05-19 18:43:53 | 氷流日記
天王寺公園 Vol.3 からの続き




初めの動機が人々を救いたいという気持ちがあり、
それにはお金が必要である。
そのお金を稼ぐために行き過ぎたことをすれば、
人々を救うために仕方がないことだとは絶対に言えない。
逆にお金のための動機で始めて、人々を救いたいと改心し、
行動を起こしたとしよう。
それは本物か。それも違うと思う。
ビルゲイツや松下幸之助が莫大な寄付をしていることは
よく知られていることであるが、
では彼らが慈しみの世界を作っているかと言えば、
それは絶対にない。
たくさんの人の幸せを奪うことで成り立っている部分が大きいという事実があるからである。
場合によっては誰かの命を奪っているかもしれない。
今、もてはやされているホキ美術館だってそうである。
自分の才覚だけでは絶対に集められない莫大なお金が存在し、
そのお金で美術館はできている。





左が私の絵。右がギャンさんの絵。




哀しいけれど世の中は人のお金をかっぱらっていくことで成り立つところが大きい。
ついこないだまでやっていたエコポイントやエコカー減税は
大手企業に対する損失補てん。
合法的なもの。
政府は裾野に広がって経済が潤うと言ってやった。
けどその前にほとんどの大会社は海外に生産拠点移したですね。
大手企業にお金がわたって、庶民のみんながお金を使ったというだけである。
大手企業に渡したお金も庶民のお金。
このシステムは変えることが出来ない。
目をそらさずにじっと見て、
突き通して見て人間や自然などを理解したいと思う。
そんな現実から目をそらして、
目の前にある事象や事実をもって
人間はすばらしい、自然は美しいと言っても
何を伝えるのだろうか。
絵を描くときも現実や制約からは逃れることが出来ない。
美しい女の人の絵、美しい裸婦の絵、神々しいまでの風景の絵、
今売れている絵はその技術がどれだけすぐれているかだけである。
美しい女性を描いた絵のような生き方をしている人なんていないと思う。
私は人間に興味がある、驚愕の技術には興味がない。
美しい絵を描く人に人が群がってくるのは
人間に興味があるのではなくて、その人の技術に興味があるのではないかと思う。

どういう人間になるかは絵が下手なうちに決まるみたいである。





天王寺公園 Vol.5 へ続く




天王寺公園 Vol.3

2014-05-18 05:59:18 | 氷流日記
天王寺公園 Vol.2 からの続き




こちらの二人も心優しい人。
しかし、他の人と違って他人の目を気にしている。
水彩のほうはお菊さん。
何とか絵として成立するように要所要所に墨で決めている。
いつものなれた手で。
もっと冒険というか挑戦をしてほしかったなと思う。
自分はこう思うんやという主張を聞かせて欲しかったのがもったいないなと思う。
作品はぐちゃぐちゃでも今日はこの分野を挑戦するとか、
気持ちをぶつけすぎて絵がぐちゃぐちゃになってしまったとか。
メルちゃんの鍵盤を叩くような絵にように。
もう一方の鉛筆の絵はサトユキさん。
美しいと思ったので描いてみましたという感じなのだろう。
性格もそういう方なのでそうの通りと言えばそうなのだが。









では彼女が世界を美しいと見てるかといえばそうではない。
彼女は本当に優しく、人を温かく見ようとしている。
人が住みやすい世界にしたいと思っている。
そう思っているからこそ猫の里親のお手伝いやホームレスの人たちともお付き合いしている。
人が住みやすい世界にしたい、猫が幸せに暮らせるようにしたい。
そう思っていることは世界を美しいと思っていることではない。
その瞬間、瞬間は美しいと感じることがあるでしょう。
だから、そのときの瞬間を描いたら本物の絵になるかと言えばそうでないところが
絵の不思議さというところである。
例えば、同じ蓮を描くにしても
こんな汚い世界に頑張って咲いているなという心で描けば本物の絵になっていくと思う。
どんなにうまくても、どんなに下手くそでも鑑賞者が最初にどんな気持ちをさせるのか、
そういう気持ちをさせることはその人が世界をどう見ているかということを
言ってるようなものである。
ではそれはどこから来るものなのか。
それは最初の第一歩である。
白い紙に鉛筆なり、筆を入れるときである。
そして、その気持ちを最後まで持続させ続けられるか、
それに尽きるかと思う。



天王寺公園 Vol.4 へ続く





天王寺公園 Vol.2

2014-05-16 07:12:20 | 氷流日記
天王寺公園 Vol.1 からの続き




みんなも負けじと描きましょうと勢を出す。
YUさんは和紙に水彩絵の具で試してみる。
にじみがすごいのでテーブルに置かれた絵はもう一つの感じがした。
YUさんがおもむろに絵を持ち上げて透かしてみる。
窓から入る日差しが和紙を通って視界に入る。
なかなかいいじゃないかとみんなが覗き込む。
和紙の好さ、和紙の温かさが伝わってくる。
絵そのものというよりは
素材の持つ強さ、特性と言ったら良いであろうか。
先鋭的な光を放つのではなく、
温かく和らげる。








YUさんとツートップをはるギャンさんは何を描いても人を温かくさせる。
本当に不思議である。







本人はこうしてやろうとかそんな想いはない。
描くことで精一杯であるからである。
しかし、どんな絵を描いても彼の絵は温かい。
それは彼が世界を温かい目で見ているからである。
普段を生活する生き方も同じである。
彼ら2人を心の友と出来たことを本当に幸せだと感じる。




天王寺公園 Vol.3 へ続く





天王寺公園 Vol.1

2014-05-13 18:25:35 | 氷流日記
5月5日、こどもの日。
天王寺公園に雨の振る中、楽描の会のメンバーが集まる。
天才メルちゃんや日洋会のミナさん、釜芸でもおなじみのウン子さんも来た。
当然、ギャンさんもYUさんも集まっている。アマゾンさんも。
こどもの日に子供と触れ合うこともなく、天王寺まで来ている私。
5月3日に少しだけ時間を作ったので良しとしてほしい気持ちである。
9時半に天王寺公園のゲート前に集まり、そろそろ入場しようかとするときに
本降りになってきた。
それにしてもである。
5回やって4回雨。
私の雨をひきつけるパワーは底がないみたいである。
それでも集まってくれるのは有難い話である。
前日から雲行きが怪しいことはわかっていたので
YUさんと電話で打ち合わせをしていた。
慶沢園にあづまやがあるので底で描こうと決まった。
とりあえずそこを目指す。
その場所はなかなか広い場所で占領するようであったが
雨で人通りも少ないと判断したのでどっかりと座る。
おのおの、絵の具の用意をして絵を描き始める。
そうすると森之宮のデッサン会の仲間のサトユキさんがおはようございますと
元気な声で入ってきた。
ああ、あんたも来たかとみんなで迎え入れる。
絵を描き始めてすぐに知的障害の子と引率のお兄さんがあづまやに入ってきた。
メルちゃんが相手をし、なにやら会話をしている。
本当にやさしいメルちゃん。
彼も引率のような仕事を以前していたらしいみたいである。
私が横から割って入り、
「絵描きましょ。出来たらお兄さんも。」
と言って絵を描く一式を渡す。









興奮して夢中に描きだす。
その姿を見て、みんなが高揚する。
みんな描き終えていないが、今日の会は大成功である。







負けじとメルちゃんも描く。
指で描く。
外から音楽が聞こえ、そのリズムに乗って、鍵盤を叩くように描く。
彼は普段からそんな感じで嘘がない。
だから、絵からはまったくいやみが感じられない。
嘘でなく、こういう絵を描けと言われても描くことは出来ない。普通は。
メルちゃんはすごいなといつも思う。
2人の競演は見ていても気持ちいい。



天王寺公園 Vol.2 へ続く










クロッキー会 Vol.2

2014-05-10 07:07:40 | 氷流日記
クロッキー会 Vol.1 からの続き



本当は街角で描くときは立って描くのがいいのではあるが、
膝の悪い人もいるのでイスに座ったり、腰掛けたりして
クロッキーをした。
なぜ、座って描くのがよくないかと言えば
自分が座って落ち着いた気持ちが絵に表れて、
どうしても動きのない、または動きの少ない絵になってしまう。
油絵でもそうである。
みんなで固定モデルを描くときは仕方がないのであるが、
本当は描くときは立って描く方が西洋画はいい。
室内であっても立って、靴を履いて足を踏ん張って描く。
これが一番大事で、次が手の動かし方。
手首は動かさず小手先で描かない。
腕一本が一つの筆のようにして描く。
クロッキーも同じである。





「Oさんのクロッキー
赤ちゃんをあやしている母性を感じる。
その姿が美しい。
きれいに描こう、美しく描こうとしていないところがとてもいい。」




2時半に再度、集合してお茶にする。
向う先はマクドナルド。
コーヒー1杯100円。
とても安上がりでいい。
みんなでわいわい言いながら
クロッキーを見せ合う。
「手首を使わなくて、腕で大きく線を引くと
線が切れてきます。
線もちょこちょこ描かずに一本でぐっと描きましょう。
失敗したらもう一枚。
神は何ぼでもあります。
どんどん描きましょう。」
そういうことを話しながら3時半くらいから再チャレンジ。
みんないい線を引いてくるようになってきた。
線が描けるようになると、
今度はあれも描こうこれも描こうと描きすぎてよくなくなる人もでてくる。
それはそれでいい。そういうのもひっくるめて絵だと思う。





「YUさんのクロッキー。
不思議な人である。
いろんな人と会ってきたが彼だけが釜ヶ崎の芸術家と言えるのではないかと感じる。
私が描いても、所詮釜ヶ崎を描いた絵描き。
この差は大きいと思う。
彼の場合には何を描いても釜ヶ崎。どこかいても釜ヶ崎。
暴力的でもいいからもっとリミットをはずして描いてほしい。」




あれから30分経ってみんな挨拶して別れていく。
雨の中、とても熱気のあるクロッキー会であった。





「お菊さんのクロッキー。
ロトシックスに夢中になっている人たち。
こっけいな様子がよくわかる。
そばの絵よりも線が切れている」