iceroseのProom

リビングルーム「☆サファイアヴィラで抱きしめて☆」より独立したプライベートルームです

随分と時間が過ぎちゃいました

2024-04-17 01:53:06 | 日記
今年のは開花が当初の予報よりも遅れましたが
関東では入学式や新年度始まりにはぴったりのタイミングでした
で出かけるとあちらこちらで見事なを見かけましたが
そのもそろそろ終わりを迎えてますね。
また来年の春に会う事を楽しみに季節の移ろいを感じてます。

前回の投稿から4ヶ月近く開いてしまいました。
に推し活納めをして新年を迎えるはずだったのですが
元日にあの能登地震が起こり、ただただ驚きました。
日が進むに従い想像を超える、いえ想像も出来ない程に壊された人々の生活を知る度に
どこにもぶつけようのない想いでいっぱいでした。

そんな状態でこちらで新年のご挨拶も出来ないまま日が過ぎてしまい
1月も半ばにさしかかった13日の23時過ぎにice家にとって青天の霹靂とも言える事が起こりました。
あれから3ヶ月経ったので記憶が曖昧になってしまう前に簡単な日記代わりに残しておこうと思います。

高校のクラス会に出かけたimasが帰宅したのが23時。
お酒をほとんど飲めない彼がリビングのドアから入って来た途端に「酒臭っ
普段はせいぜいをコップに1~2杯のはずが
旧友達と久しぶりに会って良い調子で飲んだのだろうな位に思ってました。
その時iceは録画しておいた「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を見ていたので
5分ほど会話をしてから早く自室へ行って眠る様にと勧めて
再びテレビの方へ向いてしまいました。

「寒いから少しここにいる」と言って無言になったので振り返ってみると
椅子の背もたれにもたれかかって寝てしまった様子でした。
おそらく会話が途切れてから1分と経ってなかったと思います。
眼鏡がずり落ちそうなので起こして部屋へ行くように促すと顔色が先ほどの赤からやや紫っぽく見えたので
顔を叩いたり体を揺すったりしたのですがどうしても起きないのです。
iceはimasが急性アルコール中毒の状態なのではないかと思い
取りあえず手首で脈を取ろうとしたのですが確認が出来ず
鼻先で息をしているのか見てもはっきりせず
ティッシュを鼻先に持って行って揺れるかどうかで呼吸を確認していた韓国ドラマを思い出し
そのようにしたところティッシュは全く動かず
この時に初めて「心肺停止状態」なんじゃなかろうかと思いました。

それからすぐに119へ救急要請し
スマホをスピーカーに切り替えて玄関の鍵を開けに階下へ行き
リビングに戻ってからはimasを床に寝かせて
スピーカーから聞こえてくる『音』に合わせて胸を5cmほど沈む位に押し続ける様に指示され
何分経ったのか分からない状態のところで救急隊が到着となり隊員と交代しました。

AED(自動体外式除細動器)を2回使って漸く搬送先の話になり
iceが身支度をして玄関に降りた時にはimasはストレッチャーに寝かされてました。
ここで初めて「急性アルコール中毒」ではない、大変な事が起きているのだと感じました。
の中から娘セビョルに事の様子を話し搬送先のSUBARU太田記念病院に来る様にと伝え
に着いたのが23時43分くらいだった様に思います。

その後45分にセビョルが到着。
の中からの連絡は23時24分だったそうです。
23時に帰宅しておよそ5分会話をし
おそらく1分程度過ぎた時には心肺停止状態。
脈を取ったり息をしているか確認したりで概ね1分くらいはあったでしょうか?
23時07~08分には119コール
救急隊到着まで何分あったかは分かりませんが
23時22分にはの中にいたと思います。

病院到着後は検査・・・Dr.から結果を聞かされたのは午前2時を回っていたかもしれません。
今は心臓は動いているけれども気がつくかは分からないとの事。
取りあえず脳へのダメージを最小限に抑えるために体温35度に下げて2日間眠らせると。
その後体温を上げて状態を見ながら詳しく検査をする事を告げられ
そのままICUへ移されました。
iceとセビョルはICUの前にある待合室で担当看護師さんが来るのを待つことに。
長~い時間に感じられましたが午前4時過ぎに漸く看護師さんが来てくれました。
そして偶然にもその看護師さんはセビョルの高校の後輩でした。
娘の知り合いというだけで心強く感じられ
その後の説明も、提出物の署名もセビョルに任せられたので助かりました。

その後自宅よりは病院までが近いセビョル宅へ帰りましたがすでに午前5時半でした。
前橋に住んでいる息子ジェホには桐生の自宅で待機させていたので
14日15時~17時までの面会時間に病院で会うことにして仮眠。

それから連日面会には行きましたが本人は16日午前3時までは眠らせられているので寝顔をみるだけ。
それでもその日の担当看護師さんが「耳は聞こえていると思うので話しかけてあげて下さい」と言ってくれたので
耳元でshukarinの声を聞かせて「孫が待ってるから必ず戻って来ること」と言い聞かせました。
16日の面会時には薄目を開けていましたがまだ発熱もあり意識朦朧状態でした。

17日には人工呼吸器も外されて酸素マスクだけの状態に。
こちらの問いかけに何か答えましたが聞き取れませんでした。

18日午前中に看護師さんより連絡があり本日は一般病棟へ移るとのこと。
来院するときには携帯電話と充電器を忘れずに持って来て欲しいと言われ
「いったい誰が使うのだ?」と思いながらも持参しました。
病室への出入りは毎回家族だと申告してから解錠して貰うので
一般病棟といってもまだナースセンター真横の回復室みたいな場所へ案内されました。
そのときには酸素マスクもなく車椅子へ移乗させて貰っているところでしたが
iceに気づいた時に「家内が来ました」と付き添ってくれていた看護師さんに言ってるのを聞きました。
でもその後何度聞いても自分で言った言葉なのに覚えてないのです。
一緒に面会に行った息子の事も覚えておらず・・・

翌19日には4人部屋へ移され看護師さん同行でトイレまでの歩行などリハビリが始まりました。
スマホもかけて来ますしラインも送って来るので一見問題が無いように見えましたが
13日からの記憶が全くなく、前日に話した内容を覚えておらず
また同じ事を聞いて来るという状態でした。
「頭、やられちゃったかな」と本気で思ってました。

22日にカテーテル検査。

23日に検査結果を伺いに面会時間以外に病院へ。
結果は3本ある冠動脈が全部状態が悪いとのこと。
取りあえず2本にステントを入れる手術をして、1本は退院後に様子を見ながら決めましょうということになりました。
ここで初めて「狭心症」と病名を告げられ
「心室細動が起きて心肺停止状態になり、AEDを使って心臓が動き始めたので搬送に至った」ことが理解出来ました。
心室細動・・・ネット検索したら「数秒で心肺停止になる怖い病気」とありました。

29日にカテーテル手術。
術後のDr.の説明では「手術は順調で2日後の31日に退院の予定です。」だそうでびっくりしました。
不安だった頭部へのダメージについて伺うと
「問題ないと私たちは判断してますが、そこはご家族の方が良く分かるのでは?」と返されてしまいました。
まだ記憶力に問題があるのではないかと考えていた家族には不安のあるままの退院通告でした。
退院後の注意点を伺うと、塩分摂取に気をつける事と仕事復帰は問題ないけど運転は3ヶ月間とか
仕事は復帰しても良いって言われてもで40分もかかるのにどうやって出勤するのよ

31日予定通りに退院。
記憶に不安はあるものの日常会話には支障はない。
このまま少しずつでも戻って欲しいと念じながら仕事復帰を考えていたようでした。
それにしても毎日会社まで送迎するのは絶対に無理

2月4日shukarin3歳の誕生日会
「何度も耳元でshukarinの声を聞かせたけど、今日ここにいられて良かったね~」と娘に言われてました。

その後心臓は問題なく動いてくれて本人はいたって元気でしたが
2月7日辺りから血尿が気になりだしたそうで
9日の未明から腹痛と血尿で眠れずに苦しんでました。
9日午前中に心臓外来に連絡して診て貰うことに。
循環器外来では血液サラサラの薬を止める事は出来ないとのことで
泌尿器科で診て貰うことになりました。
検査の結果、2011年に受けた重粒子線治療の副作用だそうです。
病名は「放射線性膀胱炎」
出血が止まらず痛みもあるのでそのまま入院することになりました。
Dr.「点滴打つくらいしか出来ないけど、痛みが酷くては帰れないでしょう」
この言葉に夫婦同時に「お願いします」と頭を下げました。
15日が循環器外来を受診する日でしたのでその日まで入院させて貰う事となり
即、入院手続きをしました。
やっと病院通いが終わったとホッとしたのに9日後にまた始まるとは・・・
毎日で30分、通勤の様でしたわ。

この「放射線性膀胱炎」の治療方法としては
膀胱内を焼いてしまう方法があるらしいのですが
1月に心臓が止まって蘇生した体では全身麻酔をかけられないので不可だそうです。
では他にと言うと「高濃度酸素カプセル」治療だそうです。
「高濃度酸素カプセル」あるいは「高圧酸素カプセル」とも言うみたいですが
iceは以前に突発性難聴になった事があってカプセルの中に入った事がありましたので
どんなものかは想像出来ました。
そしてその治療は重粒子線治療を行った群馬大学付属病院でやった方が良いとの事で
紹介状を頂いて群大付属病院へ行くことになりました。

2月19日群馬大学附属病院重粒子外来受診
「放射線性膀胱炎」は重粒子線治療の後遺症としては「無くは無い」そうですが
13年経過してからの発病は珍しいとの事でした。
きっと前々からあったのでしょうが、狭心症が引き金となってしまったのでしょう。
「高濃度酸素カプセル」には毎日入って、回数は20~40回と言われました
思わず「毎日ですか?」と聞き返してしまいました。
Dr.は「協力できますか?」とおっしゃいましたが
「桐生からは車で1時間かかりますし、娘の出産を3月初旬に控えているので無理です。
桐生厚生総合病院にそのカプセルがあるのでそちらで受けることは出来ないでしょうか?」とゴリ押しのice
Dr.「桐生厚生にあるのか~?」と言いながら検索してまして
Dr.「あああるんだな。じゃぁ手紙書くからそちらで受けて」と承諾して下さいました

2月20日桐生厚生総合病院麻酔科外来受診
この日から合計30回のカプセル治療が始まりました。
月曜日~金曜日まで連日通院。
で10分。最初は送迎もしてましたが天気の良い日は帰りは歩いて帰宅することもありました。
徒歩で40分。リハビリを兼ねて普段で通り過ぎてしまう様な路地を探索するのが楽しかったそうな。

4月4日
全30回の高濃度酸素カプセル療法はついに最終日となりました。
2月20日から一月半。長かったですよ~
3月10日にセビョルが第二子を出産したのでiceはセビョル宅へ行かなければならなかったので
11日以降は時々帰って来た時しか送迎してやれなくてimasには不便をかけました。
でも以前はウォーキングなどは全くやらなかった人でしたが
職場復帰に備えて体力強化だと思って頑張っていたのではないでしょうか。

4月15日群馬大学付属病院重粒子外来受診
桐生厚生総合病院麻酔科Dr.のお手紙を持って受診
一応こちらでも血液検査があったそうですが問題なく卒業となりました。

そして今日4月16日(日付が変わったから昨日かな)
無事に職場復帰となりました。
本人も訳が分からないまま1月14日未明から辛い治療を受けて
4月15日まで気づけば季節は真冬からも散り始めた春になってました。
iceにとっても怒濤の3ヶ月でした。
お腹の大きな娘と二人で聞いた「心臓は戻ってもこのまま気がつかない、所謂植物状態のままと言うこともあり得ます」と言うDr.の言葉。
眠っている父親の耳元で「shukarinの妹を見ないで死ねないでしょ」と言っていたセビョル。
本当に色んなことが詰まった3ヶ月でした。

あの時にいち早く駆けつけてくれた救急隊員の皆さん。
適切な判断で再び心臓を動かしてくれた救急救命士さん。
真夜中に頑張って下さった救急外来のDr.&スタッフの皆さん。
そして担当して下さった循環器科のDr.&スタッフの皆さん。
↑の方々のお陰でimasは2番目の孫を抱く事が出来ました。
本当にお世話になりました。

その後は毎日通うと云う面倒な治療になりましたが
群大重粒子線外来および桐生厚生のDr.&スタッフの皆さん。
お世話になりました。

imasの治療に関わって下さった皆様のお陰で3月10日に生まれた孫のお宮参りにも同席できました。
4月14日、本堂前の枝垂れ桜が綺麗な太田大光院(呑龍様)で娘の第二子の健やかな成長をお祈りして来ました。

この3ヶ月間植木鉢を覗く時間も気力も無かったのですが
昨日久しぶりに水やりをしながら鉢植えを見ていたらの蕾や
クレマチスの蕾が沢山付いていました
スミレはもう終わりに近く、はすっかり終わってました。
ハイビスカスの鉢替えも出来ないままでしたので根が詰まってました。
遅くなったけど近いうちにやりたいと思っています。

画像も無い文章だけの記録文を最後まで読んで頂きましてありがとうございます
詳しいことはimasが自分のブログにアップしていると思うので
治療方法など詳しく知りたい方はそちらでどうぞ


 










この記事についてブログを書く
« チャン君のクリスマスイベント | トップ | 薔薇の季節1(2024) »
最新の画像もっと見る

日記」カテゴリの最新記事