「マイハート」・山本以文

パリ外国宣教者会のジェルマン・レジェ・テストウィード神父の足跡をたどる記録

復生資料館はハンセン病への正しい理解を深めてくれる

2010-01-30 18:48:10 | 日記
テストウィト神父の建てた神山復生病院の敷地内に「復生記念館」がある。テストウィト神父の功績と神山復生病院の歴史が分かるように写真、資料、器物などと一緒に展示してある。
平日だと午前10時から午後5時まで開館している。入場料は500円。私が訪ねたときは、受付にいた女性の学芸員が最初から最後まで、館内をまわりながら丁寧に説明をしてくれた。
1989年、ハンセン病の療養施設として開業して130余年、「キリストの愛に基づいて、一人ひとりのの命を大切に」を掲げ、ハンセン病と地域医療に貢献してきています。現在は、ホスピス科も併設した入院病棟が整備されています。資料館内には、医学書や写真資料、検査機器、使われていた機器の説明や治療の方法があり、過去の治療がその後に生かされていることがわかります。
館内は、テーマごとに5つのコーナーに分けて展示しています。
 ハンセン病の正しい理解を深めるための礎となる資料や療養の歴史が丁寧に残されています。何より、ここで生涯を終えられた方たちの生活の歴史を見ることができました。多くの誤解や偏見を作り出したハンセン病ですが、是非とも当資料館を訪ねることをお勧めします。そして、テストウィト神父の建てた神山復生病院のことを心に止めましょう。
   神山復生病院に併設している聖堂(昭和に献堂)

神山復生病院の資料館に井深八重のコーナー

2010-01-20 09:47:51 | 日記
テストビット神父の建てた神山復生病院の資料館に井深八重のコーナーがあった。
井深八重は、会津藩家老西郷頼母の家系。22歳の時、体に赤い斑点が出たため受診、ハンセン病と診断され、御殿場市の「神山復生病院」に入院した。3年後の検査で誤診と判明し、退院の予定だったが、ハンセン病の患者に献身的に尽くすレビー神父の姿に強い影響を受け看護師として働く。晩年まで病院で看護師として過ごした。ローマ教皇から勲章を、1975年に米タイム誌に「日本のマザー・テレサ」と紹介される。

遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」が原作とした音楽座のミュージカル、「泣かないで」として上演されている。グローバル舞台賞、読売演劇大賞など日本の演劇賞を受賞、遠藤周作も観劇し、本人が涙を流したと語っている。
物語の舞台は、戦後の東京で、大学生の吉岡努は、文通欄で出会ったクリーニング工場の工員、森田ミツとデートをする。大学生との初デートに心躍るミツだが、吉岡は、日々のはけ口を求めるだけ。ミツと一夜を共にした、その後姿をかくしてしまう。
ミツは、吉岡と会える日を楽しみに、仕事に励む。
 給料を握りしめて店に出かけるミツだったが、
酒と賭け事に生活費を注ぎ込む同僚の工員が、女房と喧嘩する場面を目にして、ミツは、給料をその女房に提供してしまう。
 吉岡は、大学を卒業後、会社に就職、社長の姪のマリ子を好きになる。
ミツは、手首のアザを検査し、医師からハンセン病という告知を受ける。富士山の麓、御殿場にある復活病院は、ハンセン病患者たちが入院する病院だった。
  「さいなら、吉岡さん。」と思いを断ち切り、ミツは復活病院の門に入る。


1996年に廃止されたカトリック五日市教会は、テストウィード神父ゆかりの教会だった

2010-01-10 18:12:00 | 日記
敷地内には、カンドウ神父の遺産を基金として建築された貫道館があって、1955年から夏場の神学生の練成館「秋川荘」として使用されていた。
五日市教会は、1996年、東京大司教区白柳から、廃止の通知があり、同じく廃止となった福生教会とともにあきる野市の五日市霊園内に新教会「あきる野教会」を建築している。


テストウィード神父、町田から八王子へ、宣教の道を歩む

2010-01-05 18:12:00 | 日記
1877年、元八王子に教会を建てた。現在のカトリック泉町教会である。現在八王子駅からバスで15分、泉町の住宅地のなかにある。八王子での宣教が一段落したテストウィード神父は、その後、埼玉、静岡、神奈川とキリスト教の布教のために旅を続けている。
八王子市はその後人口が増加し、多摩地域の拠点都市として発展し、現在の人口は40万人である。20の大学、短大があり、文教都市の趣がある。そのため若い人たちが多く感じられる。さて、泉町教会はそのままにして、交通の便の良い八王子の中心街、本町に改めてカトリック八王子教会を建設し、現在に至っている。八王子教会の信者数は1400人、同敷地内には幼稚園が併設されている。