「マイハート」・山本以文

パリ外国宣教者会のジェルマン・レジェ・テストウィード神父の足跡をたどる記録

テストウィード神父が日本に残した軌跡の一つ  神山復生病院

2009-10-03 18:10:14 | グルメ
静岡県の御殿場に建築した神山復生病院の最初の建物の写真が残されている。木造茅葺の簡易な病院だったとか。多くのハンセン病の患者の治療、社会復帰、差別との闘いに命がけで取り組んだテストウィット神父の一つの足跡でもあり、日本宣教の最終地点となった場所でもある。


山手教会

2009-10-01 17:19:55 | 日記

テストヴィド神父は異国フランスから宣教師として来日し横浜に上陸した。

当時の厳しい環境の中での宣教活動は私たちの想像を超える。横浜のカトリック山手教会を訪問した。パリ外国宣教者が明治の始めに建てた聖堂から4代目となる教会建物を目にした。

私たちに家族があるように、外国から訪れた一人ひとりにも家族があり家族とともに暮らし生きる権利がある。
滞日外国人も難民も移住者の権利が守られ、人として正しく尊重されるなら、私たちはいつでも一つになれるしカトリックでいう共通の家族になれると思う。
横浜は1859年、海外との貿易のため日本で最初に開かれた港。この港から絹織物が大量に輸出され海外からも多くの人たちが出入りした。そのため異国情緒を醸し出す建物や街並みがみられた。
昨年の住みたい町ランキングでは一位をとっていた。
1868年にフランスから贈られた中庭のマリア像。1906年に山手教会が、現在の場所に移った際にこの中庭に移された。今日も多くの人がマリア様に手を合わせて祈りを捧げていた。マリア様への信仰はどの時代にあっても愛おしいと感じた。山手教会を基点とした宣教の広がりは、「テストヴィード書簡集」にも記されていた。

「横浜ではパリ外国宣教会の宣教師とサンモール修道会が協力し居留地と隣接する地域で日本人への宣教に当たった」とあった。現在の末吉町教会はその一つ。さらに絹の道とか塩の道と呼ばれていた現在の国道16号線沿いから町田、立川、八王子、山梨、静岡へとカトリックの伝道が広がったと記されていた。

1990年代に入ると、山下町80番地付近は次第に市街地化し、住宅地というよりもビジネス中心の地域になってきたため、多数の外国人信者たちは、彼らの住宅街である山手が教会にふさわしい地理的環境を備えていると考えるに至った。
ベティエ師は信者団体の願いを聞き入れ、オズーフ司教の許可をえて、宣教会の管財人ゲナン師に、有利な条件の候補地を探してもらった。住宅とその付属施設のある土地を求めて機会をうかがっているうちに、1260坪にのぼる広い敷地が山手の中央部、山手44番にあることを発見し、これを購入した。
1906年、聖心聖堂は山手に移されることになった。