「マイハート」・山本以文

パリ外国宣教者会のジェルマン・レジェ・テストウィード神父の足跡をたどる記録

テストウィードが初めて献堂した、カトリック横須賀三笠教会を訪ねて

2009-11-30 18:26:14 | 日記
横須賀は、周囲に浦賀や金沢八景などの歴史遺産に囲まれた街としても有名である。
京急横須賀中央駅前は、ビルが建ち並び、洒落たお店やユニクロやイオンなどの大型店などもあり、日中だったが、買い物客や観光客らしい人たちが歩いていた。
アメリカ兵やその家族と思われる外国人も目に止まる。アメリカ風な感じの異国情緒を感じるお店も見られた。駅から10分ほど歩くと三笠公園。横須賀中央駅から徒歩15分にある公園で、日本の都市公園100選や日本の歴史公園100選に選ばれている。中央広場には、公園のシンボルでもある戦艦三笠記念艦がある。
ネット予約が出来る軍港めぐりは連日大人気とか。
JR湘南横須賀線の「横須賀駅」は、どちらかというと横須賀港に面し、駅前の海岸沿いから目と鼻の先に自衛隊横須賀基地所属の護衛艦や輸送船が見える。戦前から、軍港として発展してきた町のイメージが重なる。
この横須賀三笠教会は、テストウィード神父が、日本上陸後、製鉄所や造船所で働く滞日フランス人のために献堂したチャペル(聖ルイ聖堂)のその後移転、改称した教会である。


◇ 住所:神奈川県横須賀市稲岡町82



パリ外国宣教者会の日本布教の始まり

2009-11-20 18:51:01 | 日記
当初、司祭のみの宣教活動も、その後神学生も受け入れている。キリスト教は、布教活動の中で、世界の各国で激しい弾圧などを受けており、殉教者の数は凡そ合わせると4000万人といわれている。イエズス会やフランシスコ会と並んで、パリ外国宣教会も多くの殉教者を出している。
キリスタン禁制の高札撤去後は、来日する宣教師の数も増え、信徒の数も急増した。それに伴い、1876年に日本の教会は、南日本と北日本に二分された。
このように日本の近代のカトリック信仰は、江戸幕末から明治時代にかけて来日した「パリ外国宣教会」の司祭たちの影響も受けていた。
今も残る古い教会の多数の中に、パリ外国宣教会から派遣された司祭たちが建築した教会が残っている。例えば、函館のカトリック元町教会は、1859年にカション神父が建てたものである。
また、長崎の大浦天主堂や山形の鶴岡教会などもあげられる。パリ外国宣教会は、地方の片田舎や小都市に布教活動の主軸を置いていたことがうかがえる。
      函館・元町教会
http://ord.yahoo.co.jp/o/image/RV=1/RE参照

テストウィード神父の宣教活動は苦難の道だったのでは

2009-11-10 18:07:30 | 日記
横浜に到着してから横浜の西部、そして東京多摩にから山梨、静岡県から愛知、岐阜へと続く宣教の旅は、凡そ2000キロに及ぶ。300年に及ぶ鎖国政策の中にあった江戸幕府から明治維新による大きな時代の変革があり、新政府による統治を迎えても、まだまだキリスト教禁令の地であったために、海外から入ってきた異国人にとって宣教の旅は相当に厳しいものだったと想像できる。
日本の宣教を始めたフランスのパリ外国宣教会の宣教師が、日本へ入国し始めたのは1844年、天主堂が建てられたのは1862年、この間の宣教活動は決して順調ではなく、明治政府の 
年キリスト教に対する対応は、キリスト教禁令を敷いた江戸幕府の厳しい対応と変わらなかったようだ。実際に1868年、明治政府は、「キリシタン邪宗門」禁止の高札を掲げている。
天皇制を軸とした近代国家として成長していく明治政府にとって、キリスト教は矛盾する思想としてあったのであろう。
パリ外国宣教者会もキリスト教禁止令のなか、全国に網羅する交通手段もなく、厳しい財政と
貧富の差の激しい日本社会のなかで宣教活動にも自ずと限界があったのではないか。
テストヴィド神父は、パリから遠く離れた日本の地で宣教のためこの時代を生きました。横浜から東京西部、山梨から静岡、愛知から岐阜へと日本伝道の旅をし、数多くの教会と教育機関、病院を建設しカトリック教会の礎を築いている。
明治の初めの日本はまだ侍が跋扈し、農民も貧しい生活を強いられて、近代の夜明けとはほど遠い時代だったと想像できる。当時の農村風景をネットから拝借してみた。

横須賀聖ルイ教会の司牧からはじまる

2009-11-06 18:09:44 | 日記
1873年、パリ外国宣教者会の司祭に叙階され、同年7月に日本へ向けて出発、同年12月に横浜に到着した。横須賀海軍工廠に雇われていたフランス人技師たちの「聖ルイ教会」を司牧した。
カトリック横須賀三笠教会の「教会のあゆみ」から抜粋
私たちカトリック横須賀三笠教会は、幕末に徳川幕府が建設した横須賀製鉄所(後の造船所)内で働くフランス人達のために建てられた聖ルイ聖堂に始まります。まだキリシタン禁止教令が生きていた時代のことでした。

カトリック横須賀三笠教会のあゆみから
カトリック横須賀三笠教会の沿革
1866年(慶応 2年)
横須賀製鉄所内 聖ルイ聖堂献堂
1880年(明治13年)
横須賀造船所フランス人技師全員引き上げのため、
 聖ルイ聖堂閉鎖
1883年(明治16年)
聖ルイ教会横須賀市字稲荷谷(現在の中里町)へ移転
1902年(明治35年)
中里町教会改築
1912年(明治45年)
信者数80名
1948年(昭和23年)
稲岡町 旧三笠会館へ移転
 三笠教会として新たに発足
1974年(昭和49年)
聖堂・信徒館を新築

カトリック横須賀三笠教会のあゆみから写真選択


テストウィード神父の日本上陸

2009-11-03 18:22:01 | 日記
1549年、イエズス会の創設者の一人フランシスコ・ザビエルが、鹿児島に上陸し、初めて日本にキリスト教をもたらしたことは有名である。
布教はその後、豊臣秀吉、徳川幕府の激しい弾圧と禁教令、迫害が続き、島原の乱以降、日本のキリスト教の活動は歴史の表面から消えることになる。
  それから凡そ250年、ペルー総督の率いる米国の黒船が浦賀港に入り、幕府との交渉により、鎖国令を撤廃し、それ以降、明治期代へと至る過程で、キリスト教の日本での布教が再度始まる。
イエズス会に代わりその当時、アジアの布教活動に最も熱心だったパリ外国宣教会 (略称MEP、1653年にフランソワ・パリュにより設立)は、教皇により、アジアの宣教のための勅命を受け、4500人の司祭をアジアに派遣、その宣教の歴史は350年に及ぶ
テストウィード神父の出身村は、フランスの地方の片田舎。日本に派遣された宣教師たちの一人
として、日本ののどかな自然環境、豊かな自然と質素、素朴な生活の原風景は、故国フランスの村や集落とかさなるものがあったのではないか。上陸後、横須賀の海岸に近い三笠に建てた小さな教会は、彼らは故郷の教会と重なり、こよなく愛したの


ではないだろうか。