末吉町教会は、日本最初のカトリック教会として日本人の信徒のために横浜の地に誕生した。
1874年。横浜市の若葉町に献堂。戦後末吉町に転居した。末吉町教会から保土ヶ谷、磯子、戸部、港南教会などが生まれた。
遡ること1861年。パリ外国宣教者会のジラル神父が山下町に天主堂を献堂。禁教令の影響、撤廃後の影響もあり、日本での
宣教活動は芳しくなかった時期とも重なった。
1880年、テストヴィド神父が若葉町での宣教活動を始めた。この当時は末吉町教会はなく若葉町教会との名称だった。
現在横浜市中区は今では横浜の中心街だが、当時は山林に覆われた寂しい土地で夜間は一人で歩くには物騒なところだった。
一人神様を思い、時を過ごし、無心になれる居心地の良い聖堂が明石町にあった。無心の時間を少し過ごすことで一日の心のありようを整えてくれた。日常の中でこの時間が取れないときは苛立ち時に心底にストレスとして抱えることがあった。聖堂にただただ座り静かに祈る。そのひと時が自分に立ち返らせてくれた。
テストヴイード神父が横浜から東京西部かけて宣教の旅を続けているとき、パリ外国宣教者会の別のグループは東京に向かい築地、神田を拠点に宣教の輪を広げていた。築地教会はパリ外国宣教者会の開拓伝道の拠点になった。
都内一等地にある閑静な住宅街とビジネス街。目前の小学校を囲む街路樹と対照的に園庭に木々が植えられたシンメトリーな外観の築地教会が一際聖地のような雰囲気を醸し出していた。創立者パリ
ミッションの個性が光るベージュの壁と古代の神殿風の建物の四方から入る自然光が開放的な空間をもたらしていた。明治の産業革新とともにキリスト教の宣教活動は日本各地に広がったという。
1874年創立の築地教会は今も築地の地にあって礼拝に使われていた。由緒ある教会の変遷を辿りながら長い時を刻んできた聖堂の「ストーリー」を改めて伝えたいと思った。
聖堂入り口の右側の小部屋に資料館が併設していた。江戸時代の殉教の歴史資料から蟻の町のマリアなど写真や遺物が展示されていた。築地教会は東京で最初に建てられた教会で、1874年、和暦明治7年にパリ外国宣教者会が築地(正確には中央区明石町)の地に仮聖堂を献堂した。
1877年には司教座と定められた。1923年の関東大震災で焼失。1927年ギリシア神殿風の現聖堂を竣工した。
メイラン神父はフランスに生まれ、パリ外国宣教会の宣教師として1890年(明治23年)、来日している。カトリック川越教会の洗礼名簿によれば、1892年、最初の洗礼式があったと記載されている。その後、1912年、メイラン神父の手によって新しく聖堂が建設されている。当時は、平屋の家屋を建て、聖堂として使用していた。
1933年、本格的な聖堂が建設、当時は周囲は田んぼや畑が多く、白い教会は目を引いたのではないか。来日以降、メイラン神父はこのように埼玉県西部の宣教活動に取り組んでおり、テストウィード神父は、御殿場でハンセン病の患者のための医療施設、神山復生病院を建てている。二人の神父は、行き違いがあり、人生の途上で会うことはなかったなかった。