「マイハート」・山本以文

パリ外国宣教者会のジェルマン・レジェ・テストウィード神父の足跡をたどる記録

伊豆半島の旅は過酷な宣教活動になったが種は播かれた

2010-07-15 17:01:26 | 日記

テストウィート神父、神奈川から静岡にかけての旅は、中でも伊豆半島は厳しい宣教活動だと記されている。伊豆半島を歩行で巡る旅は、山あり崖ありの難所、道なき道を進む旅となり、相当疲労が蓄積したような文章があった。各所では少数の聴衆者もいたが、以前より活動していたロシア正教司祭やプロテスタント牧師の宣教が壁になり、後発のカトリックは相当な努力や配慮が必要だった。それでも当時貧しい漁師や小さな漁村の人々にカトリックの信仰の種を播き、伊豆の人々にカトリックを伝えたことは驚嘆に値する旅だと考える。明治中期において、1860年以降のパリ外国宣教者会の熱烈な海外宣教の神髄を垣間見る気がした。

中島昭子さんの著書では、朝鮮出身のキリスト教徒内藤ジュリアのことが記されていた。家康の寵愛を受けたが、棄教しないため伊豆大島への流刑となり、乗船した場所が網代の港とある。

熱海から約20㎞の距離、海沿いに張り付くように散在した小さな漁村だった。今でこそ海水浴場があり、熱海マリーナがあり、観光ホテルがあり、網代港を要として漁業が盛んで、人の動きもあるが、当時は港といえるようなものはなく小さな寒村だと予想できる。その村で起きた内藤ジュリアの移送、乗船という出来事は、網代にとっては大きな社会事件だったのではないか。戦後になり、伊東、熱海にカトリックの教会が建ち、司祭が常駐するようになった。下田には巡回教会がある。

 

パウロ女子会の資料によると

ジュリア内藤[1566ごろ-1627.3.28]

 ベアタス会創立者。内藤如安の妹。源左衛門の子として生まれる。
 丹波の身分の高い家に嫁ぐが、22歳のころ夫と死別し、京都で比丘尼となる。
 イエズス会修道士からキリストの教えを聞き、20年近い比丘尼の生活を捨て、1596年にオルガンティノ神父から受洗。熱心に福音を伝えた。阿弥陀像を焼いたことを、徳川家康に訴えられ、長崎に逃れる。
 1603年、京都に戻り、日本で最初の修道会ベアタス会を創立。1614年の大追放で、他の修道女たちと共にマニラに追放され、マニラのサン・ミゲル村で修道生活を送り、同地で亡くなった。

       写真:カトリック熱海教会