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「自己アセンション実現の会」☆自己無限化・全知全能化☆~最高レベルのアセンデッドマスターへの道~

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【自己アセンション】 ヒマラヤ聖者(31) 水上歩行

2012-05-16 05:47:25 | 【自己アセンション2】 ヒマラヤ聖者

【注】購入するなら新訳でヒマラヤ聖者への道をお勧めします。翻訳文の読みやすさと字の大きさ

   がその理由です。3巻までが11名の調査隊員たちの実録体験記録です。

ヒマラヤ聖者の生活探究 第一巻 第八章 水上歩行 P88~93

・・・。翌朝、朝食に一同が集合すると、五人の見慣れぬ人達がキャンプにいることに気づいた。紹介の際、この人達が河向こうでキャンプを張っている一隊からやってきたもので、わたしたちの目的地の村から帰るところであると聞いても、わたしたちはその時は別に気にもとめなかった。

というのは当然どこかでボートを見つけて河を渡ってきたものとしか思わなかったからである。ところが、わたしたちの一行の誰かが、「この人達にボートがあるのなら、僕らにも使わせて貰って、河を渡ろうじゃないか」と言い出した。他の一同にしても、それが今の窮境から脱出する唯一の手だてだと思った筈である。

しかし意外にもこの河はボートを常備しなければならない程の河でもないので、どこにもボートの用意はないという返事だった。朝食の後で一同が河岸に寄ってみると、エミール師、ジャスト、ネプロウとわたしたち一行の四人の者が、例の五人の客人と話している。やがてジャストがこちらにやってきて、言うには、「河の水が引く気配があるかどうか明朝まで待って調べることにしたので、あの方たちと一緒に河を渡って、向こうのキャンプまで行こうと思う」。

わたしたちの好奇心がかき立てられたのは勿論であるが、同時に、ただ友情のしるしだからといって、目の前のこんな勢いで流れている河を泳ぎ渡ってまで隣人を訪問しようなどとは、いささか馬鹿げていると思わないでもなかった。こんなところで河を渡るには泳ぐよりほかに方法はないとわたしたちは思い込んでいたのである。

さて、ジャストがもとのところへ戻ると、十二名の人達が、着物を完全に着けたまま河岸に歩いて行くと、至極平然として水の中、ではなく水の上に、足を踏み出したのである。十二名が十二名とも固い地面から水流の上に足を踏み出すのを目撃した時の気持ちを、わたしは決して忘れまい。勿論、水中にそのまま没するに違いないと思いながら、ハッと息を呑んだ。

後で聞くと、他の連中も皆そうだったらしい。一同が中流を過ぎるまでは、皆固唾を呑んで見守っていた。それ程わたしたちは驚き、緊張し、一同が何の困惑する様子もなく、履いているサンダルの下に沈みもしないで、流れの上を落ち着き払って歩いているのを見ていた

彼らが向こう岸に歩き着いた時には、わたしは数トンの重荷が肩から降りた感じがし、最後の人が無事着いた時などは思わず安堵の吐息が出たものである。これを見ていた者は皆がそうだったろうと思う。誠にもそれは筆舌に尽くしがたい経験であった。さて、エミール師、ネプロウ、ジャストと四人の仲間は昼食に戻ってきた。

二度目の渡河の時の興奮は左程でもなかったので、一同が安全にこちらの岸に着いた時は、皆前回よりも楽に息ができた。その午前中は仲間の誰も河岸から離れず、また先程のことを話し合おうともせず、それぞれに物思いに耽っていた。とにもかくにも、橋のあるところまで廻り道をして河を渡ることに衆議一決したのは、その日の午後になってからであった。いよいよ遠廻りの用意を整え、翌日は早朝に起床した。

わたしたちの出発前に、一行のうち五十二名は平然として河に行き、前日の十二名のように水の上を歩いて渡って行った。わたしたちも一緒に渡れるからと言われたが、敢えて試みるだけの信念のある者は結局一人も出なかった。ジャストとネプロウだけは、私たちと行を共にすると言ってきかなかった。

わたしたち自身は、どうせ渡河組の人達に追いついて行けるのだから、この二人には水上歩行をして直行して貰えば、わざわざ大廻りの不便をかけずにすむからと言って思い止まらせようとしたが大廻りする事ぐらい絶対に何でもないと言い張って自説を曲げようとせず、結局わたしたちと行を共にすることになった。

渡河先行の組に合流するまでの四日間に、わたしたちの話題や考えの対称は、専らこの驚嘆すべき人々と共に暮らした短期間に起こった目を見張るような出来事であった。この大迂回旅行の二日目、暑い太陽に照りつけられながら或る山の峻しい中腹を喘ぎ喘ぎ上って行った。その時、この二日間殆ど一語も発しなかった隊長が、突然口をきいた。

「なあ、みんな、一体人間は何でこの地球上を這いずり廻らなけりゃならないんだい?」皆が異口同音に、「僕もそう思っていたんですよ」と和した。「世の中にはあんなことのできる人たちも少数ながらいるというのに、僕らにはそれができないとは一体どういうわけだろう。考えてみれば人間ともあろうものが這うことに満足するとは、いや、這わなけりゃならないとは、一体どういうわけなんだい。

人間が万物に対して支配権を与えられているというのなら、鳥のように飛ぶ力だって確かに与えられている筈だ。それが人間の主権なら、何故ずっと昔にそれを主張しなかったのだろう。その責めは屹度、人間の心の中にあるに違いない。人間が自分自身を死に定められたものと考えているところから来た筈だ。人間は這っている自分の姿だけしか心の中で見ないものだから、その通り外界に現れて、こうして只這うだけのものになったんだ。」。

その考え方をジャストが引きとって、「全くその通りです。それは皆人間の意識の中にあるんです。人間は自分自身で考える通りの有限でもあれば無限でもあり、束縛の身でもあれば自由の身でもあります。大廻りの不便をさけて昨日河を渡った方々は、あなた方以上の何か特別の種類の人間と思っているのですか。否です。

あの方たちはあなた方と何か違った方法で造られた人間ではないのです。あの方々は一原子分と雖もあなた方以上の力を持っているわけではないのです。只、神より与えられた力と想念の力とを正しく使用し、開発してきただけです。わたしたちと一緒にいる間にあなた方が見てきたことは、あなた方だって全く同様に十分、且つ自由自在にやりとげられるのです。それは皆明確な法則に従っているのであって、どんな人でもその気になりさえすれば、この法則が使用できるんですよ」(1)

ここまできて話は終わり、わたしたちは歩みをつづけ、ようやくにしてとか組の五十二名の人達に追いつき、村へ向かって進んで行った。

訳者註
(1) インドの或るリシ(教師)はこうも説明している。「人間は本来君らの所謂、引力を支配する力を有っている。人間は地球の磁力(現代人のいわゆる引力)以上にヴァイブレーションを上げ(言い換えれば力を出し)て、引力効果を無に帰してしまうことができるものだ。人間を地上に引きつけ、とめ置くにはこの引力なのだから、引力が無効になれば、人間の肉体はもともと物質であり、物質それ自身には本来重さはないのであるから、人間の身体は上にあがり、空中に浮かぶことができる。従って水の上でも地上と同様に歩くことができる。重量とは引力の及ぼす牽引(けんいん)の程度のことである。(以下略)(ゼイムズ・チャーチワード著「ムー大陸の子等」原著二五一頁)エジプト、南米のピラミッドその他、世界各地に散見する巨石文化の巨石は、嘗てこの「宇宙科学」を駆使した超古代文明人によって建造されたのである。」

 

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