八月の末以降、身近で不幸が三つ続いた。
一つは家内が四十年も双子同然の付き合いをしてきた夫人で、私とも親密な交際があったのだが、大腸癌で三ヶ月の入院後に亡くなった。家族や身内の意思で本人には病名を知らせなかったので、最後まで仕事への復帰に意欲を燃やしていた生涯だった。連日病室で見守っていた家内は臨終の場にも立ち会った。
九月半ばには、三つ年上の元同僚が長い療養生活に終止符を打った。本人の遺志でその死も葬儀も他には知らされず身内だけで送ったので、我々は後から奥さんにお悔やみを言うこととなった。我が娘の結婚の仲人もしてもらった仲だった。
そして十月四日、その娘の義父が前立腺ガンで逝去、享年七十八歳。私とは二つ違いの年配でまだ幼い孫たちを共有させてもらった。最後は病院からも離れ、自宅へ戻って介護を受けていたのだが、お通夜と葬儀に列席しながら二年後のおのれの身に思いを至して、かなり落ち込んでしまっていた。
会館で行われた通夜や葬儀の合間、まだ祖父の死に実感の来ない孫たちの面倒を我ら老夫婦で引き受けて、我が家へ連れて来たりしていたが、無邪気にはしゃぐ一年生と少しは状況に察しがつく四年生だった。
ともあれ、老いの心に秋の風が吹きこんで、それから後Cafeめぐりは断絶、その間に多くの方々からお悔やみやお励ましを頂いてきた。有難い限りである。
一昨日、昨日の一泊二日、教え子達の還暦記念旅行に招待されて家内同道で参加、私の喜寿の祝いも受けてきた。何年ぶりかの旅行に出て、くたびれもしたが、気分も吹っ切れた。
ここへ書いて見る元気を与えてくれたのが四十数年前の生徒集団、いまは人生の絶頂期に達した人たちなのである。
秋風と共に、有難さもまた身に沁みる。
一つは家内が四十年も双子同然の付き合いをしてきた夫人で、私とも親密な交際があったのだが、大腸癌で三ヶ月の入院後に亡くなった。家族や身内の意思で本人には病名を知らせなかったので、最後まで仕事への復帰に意欲を燃やしていた生涯だった。連日病室で見守っていた家内は臨終の場にも立ち会った。
九月半ばには、三つ年上の元同僚が長い療養生活に終止符を打った。本人の遺志でその死も葬儀も他には知らされず身内だけで送ったので、我々は後から奥さんにお悔やみを言うこととなった。我が娘の結婚の仲人もしてもらった仲だった。
そして十月四日、その娘の義父が前立腺ガンで逝去、享年七十八歳。私とは二つ違いの年配でまだ幼い孫たちを共有させてもらった。最後は病院からも離れ、自宅へ戻って介護を受けていたのだが、お通夜と葬儀に列席しながら二年後のおのれの身に思いを至して、かなり落ち込んでしまっていた。
会館で行われた通夜や葬儀の合間、まだ祖父の死に実感の来ない孫たちの面倒を我ら老夫婦で引き受けて、我が家へ連れて来たりしていたが、無邪気にはしゃぐ一年生と少しは状況に察しがつく四年生だった。
ともあれ、老いの心に秋の風が吹きこんで、それから後Cafeめぐりは断絶、その間に多くの方々からお悔やみやお励ましを頂いてきた。有難い限りである。
一昨日、昨日の一泊二日、教え子達の還暦記念旅行に招待されて家内同道で参加、私の喜寿の祝いも受けてきた。何年ぶりかの旅行に出て、くたびれもしたが、気分も吹っ切れた。
ここへ書いて見る元気を与えてくれたのが四十数年前の生徒集団、いまは人生の絶頂期に達した人たちなのである。
秋風と共に、有難さもまた身に沁みる。