。。ぽぽしゃんの夢見るDonko列車。。

大好きをゆったりまったり楽しんで
のんびりのほほ~んと語っていきたいなぁ~

白山ロード^^ (高浜おおい町-1 / 若狭町-2)

2015年07月27日 | 白山車窓景

平成27年7月20日参拝

・伊弉諾(いざなぎ)神社  (福井県大飯郡高浜町小和田51-14)    
・伊射奈伎(いざなぎ)神社 (福井県大飯郡おおい町福谷) 
・勝手神社        (福井県三方上中郡若狭町脇袋 26-3-1)    白山社/合祀 




暑中 ^^ お見舞い申し上げます。

先日のこと、連日の猛暑にようよう耐えきれず、地元の図書館へ涼みに逃げ込んだ^^;
堀の宮の白山神社で知った『神社明細帳』を調べてみたかったこともありましたが、わざわざ福井市まで調べに行くにはちょっとが遠く、ここにあればとの願いもあってのことなのですが^^;;;

でも、さすが図書館ですね。県立図書館蔵書のものと同じではないかもしれませんが、平成13年発行の『福井県神社明細帳(嶺南編)』がありましたが、分厚いページをぺらぺらめくる感じなもので^^;;; でも、嶺北編を見てみたかったかも・・・。たまたま見つけた『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』では、ちょっとした収穫ありです。それによりますと、嶺南の方にもまだ白山神社関連の神社が鎮座していることが判明。

ちょーど、嫁いだ娘のところへ御中元を持って御挨拶に覗うかたがた高浜町まで主人と足を伸ばしてみることにしました。
開通した舞鶴若狭道を大飯郡まで走るのは初めてのこと、大飯高浜ICで下りると高浜町まで下道を走ります。このIC近くのおおい町にも伊射奈伎(いざなぎ)神社が鎮座されているのですが、高浜へ先に参拝してからこちらに戻ってくることにします。

 

◆ 伊弉諾(いざなぎ)神社  (福井県大飯郡高浜町小和田51-14)     7/20

『小和田の西部、青葉山麓に張出した枝峰の先端にある。
 祭神 伊弉諾尊・伊弉冊尊。  旧村社。  創祀はつまびらかではない。
 江戸時代までは金剣社と称したが、明治十一年(1878)に改称した(大飯郡誌)。

 現在境内社に金剣神社が祀られるが、これは文永二年(1265)の若狭国惣田数帳写にみえる「金劔宮」、享禄五年(1532)の神名帳写(小野寺文書)にみえる金剣明神に比定される。 「若州管内社寺由緒記」は金劔大明神とし、御神体は不動であると記している。 』

「近江・若狭・越前 寺院神社大事典」より

 

拝殿前の舞殿では、10月中旬の祭礼において、龍舞と田楽が毎年奉納されるようです。

 

 本殿左に境内二社、拝殿寄りより「金剱神社 (国常立命)」、「元本社奥宮・西青葉神社の建拝社(伊弉冊尊と菊理媛尊)」が並んで祀られている。

 

初めて出逢う珍しい拝殿の形である。境内を歩いていると拝殿奥からFMラジオが聞こえてきたので、誰かが作業でもしているのか思えば、どうやら防犯対策で自動的に流れるようになっているようだ。 

本殿右奥に三社、「稲荷神社」 「?神社」 「恵比寿神社」、 手前の大きな社の中に 「八所老神神社」。

 

 

 

伊射奈伎(いざなぎ)神社  (福井県大飯郡おおい町福谷)  

 

拝殿 (本殿前より振り返り望む)

 

本殿                               稲成社 (本殿東側)

 

おおい町指定天然記念物の栂(トガ)の木。 奥に見える境内社は、八幡宮 (本殿西側)である。

 

「 天章周文と写経 」

  伊射奈伎神社は、昔「福祥山隆興寺天満神社」と称し佐分郷17か所の大社であった。
この社前に「善楽寺」という真言宗の別当寺があったとされ、周文が3年ほど身を寄せていたと伝えられている。

  この善楽寺において大願を抱いて五部大乗経200巻を写経、100巻を天満神社に奉納したと伝えられ、現在41巻が遺されている。写経の末葉には「時に応永十三年(1406)丙戌五月二十二日 若州大飯郡佐分郷善楽寺に於いて大願主周文謹んでこれを書す」と奥書が記されている。

 周文は室町時代中期の画僧で、字は天章、号は越渓と称した。画を室町水墨画の先駆者である如拙から習得したと思われ、後に如拙の後を継ぎ足利幕府の御用画師となった。周文の画風は雪舟や小栗宗湛など多くの水墨画家に継承され、東山文化の開花につながった。

 

  周文写経 5巻  (福谷区1巻 大飯町4巻 管理) 昭和63年8月1日 大飯町指定文化財  
 おおい町教育委員会  /  おおい町文化財保護委員会


 

勝手神社 (福井県三方上中郡若狭町脇袋 26-3-1)   

 

白山社 明治44年3月21日 合祀  
      御神体「十一面観音(聖徳太子御作申伝)」 (若州管内社寺由緒記)

法順寺観音堂   

「木造十一面観世音菩薩像」    御開帳(17年毎)・・・2009年 → 2021年

昭和三年国宝の指定を受け現在重要文化財となっている。

当所は古来堂谷と称し若狭開発の祖とされる膳臣ゆかりの膳部山を背に七っ塚古墳を眼下に霊峰青葉山が眺望される景勝の地である。

当寺観音堂に秘仏として安置される十一面観音の功徳は現世利益十種と来世果報四種とされ衆生の救い求める声を聞けば自在にこれを救済されるという霊験あらたかな尊像である。

当寺縁起によれば作者は聖徳太子とも定朝ともいわれ一刀三礼の作とされていて、今は廃寺である真言宗系霊松山正法寺の旧仏といわれ仏高約一米余 桧の寄木造りで円満な相好や彫法は藤原末期の菩薩像の典型ともいわれ、若狭に遺る平安彫刻の中でも完成された美しさを持ち、屈指の都ぶりの仏像と高く評価されている。 (法順寺 十一面観世音菩薩像由緒書より)

この観音堂の後方に勝手神社が鎮座している。

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白山ロード^^(福井市-7)

2015年07月26日 | 白山車窓景

平成27年6月28日参拝

堀の宮 白山神社 (福井県福井市堀の宮町7-27)




堀の宮 白山神社 (福井県福井市堀の宮町7-27)  

 

 

堀の宮白山神社の由来は定かではない。
今から約五百年前は当地区を含めた藤島庄は平泉寺(白山寺)の支配下にあった。

 応仁の乱(1467~1477)後の戦国時代になると群雄覇を競って戦にあけ 村人たちは自衛のため団結し 所謂郷村制が成立した。恐らくその頃、堀の宮村としてのまとまりができ領守の神として現在地に白山神社が勧請されたものと推定。

 それを物語るものは樹齢五百年と言われる境内の大欅であり、拝殿横の観音堂の天正九年(1581年)の銘である。明治十一年の越前国神社明細帳に記録がある。

 

 

 旧神殿は建立年月は不明であるが、昭和18年原因不明の火災 ご神体は焼けこげ社殿は全焼した。また神社の境内は樹齢数百年の杉が鬱蒼たる森をなしていたが、太平洋戦争末期に造船材として伐採供出された。この結果社殿も樹木もない寂寛とした神社になった。

 昭和20年終戦になり村人は神社の再建を計画したが同23年6月福井大地震により村は全壊し計画は挫折。翌24年再建の議が持ち上がり資金を五年越しで同26年社殿が完成。こうして戦後の再建以来約40年、昭和62年新築が決議され由来四カ年の日子と約壱億円の巨費を投じ完成。   
平成二年十月

「 堀の宮白山神社御造営竣工記念碑 」より

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夢見る人

2015年07月17日 | 道先案内所

朝の連ドラを見るぐらいしか^^ あまりテレビドラマに執着しない私ですが、久しぶりに毎週見逃がさず、テレビにかじりつくように連続ドラマの醍醐味を楽しんだ番組があります。TBSテレビ日曜夜9時からの「天皇の料理番」である。

しかしながら、そんなお楽しみも淋しいことに12日(日)の放送分をもって最終回を迎えて終わってしまった。もっともっと、主人公秋山徳蔵の歩む人生に、テレビの前の視聴者としてでしかないのですが関わっていたかったし、徳蔵の成長をあったかい涙とともにもう暫くのあいだ見守らせて欲しかったのでした^^。

徳蔵が、その最終回の特番で、天皇の命を救うべく、そして自らの責任をも問い正すべく、こんなことを言ってたんですよね~^^

「 ここまでやってこれたのは、支えてくれた方がたくさんおったからです。
わしは、みんなに夢を叶えさせてもらったようなものです。夢を叶えさせてもらった者には夢を叶え続ける責任があると思います。力のかぎり励み続ける責任があると思います。」

「 その人らに恥ずかしくないよう努めたいと思いませんか。
やれることはやったと、精一杯の真心を尽くしたと、言いたくはありませんか。」

とても心を打つ重い言葉に、胸が熱くなりました。しかしこれは、夢を叶えさせてもらった一方だけに言える事ではなくて、夢を叶えてもらった方にも、同じように心に受け止めたい言葉なのではないかと思いました。

天皇の料理番の主題歌「夢見る人」を歌う さだまさしさんは、歌詞に 「夢」 と引き換えに失ってはいけない、人としての誇りを込めながら作詞されたそうです。そして、番組に寄せたコメントでこう述べています。

『 僕らは常に自分の現実と自分の夢との狭間で悩み、迷います。しかし大好きな誰かを支えようとするとき、その迷いは消えます。つまり 「その人の夢を支えたい」 という一点に心が定まるからです。 「夢見る人」 という歌はそんな風に 「人を支え続ける」 人への応援歌です。
  愛すればこそ、その人の夢を叶えたいというのは、本当に深く純粋な 「愛」 だと思います。
 誰かのために頑張る人へ、そしてその人に応えるために懸命に夢を走る人へ捧げたいと思います。』

 

話変わって、その最終回を見た翌日たまたま、友人とランチを楽しむ機会に恵まれた。

お互いにあの頃と気持ちは何も変わっていないのだと思うものの、まわりを取り巻く環境は刻一刻と日を追うごとに変わらざるを得ない。でも、そんな忙しさの中にあっても、忘れてはいないだろうモノをお互いに探りつつ語らう~^^(笑)。

そやね^^; たまに会って今もこんなに熱く語れるモノって、そう簡単に見つかるものでもないし探せるものでもないでっしょ^^??? いいんじゃないんでしょっかぁ・・ 今のこのままで変わらなくてもさ~☆ 私は、無理せずぼちぼちやねぇぇ~~~♪

いっといでねぇ~ (@^^)/~~~   (^ー^)・(^O^)・(^0^ )   ^(笑)^v




 PS. ほやほや^^、 洋食屋「バンザイ軒」なぞの料理人、小柳役の俳優 片山 享さん。
    いつも後ろ姿ばかりで何者なのかと思ってた方も多いのではないかと思いますが、
    なんと、なんと、我が福井県出身の俳優さんです。それも鯖江生まれですって@@
   

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初恋の味

2015年07月07日 | 食 堂 車

本日は7月7日^^七夕さまです。

しかし、どんよりと重たい雲が空を覆い隠すものだから、涙の雫にくれる大地は水玉もようの水浸しの在り様です。こんなんじゃ、今宵も彦星と織姫の年に一度の逢瀬を見届けることは、どうも出来そうにもありませんね~^^;;; 恥ずかしいん^^?にゃろか(笑)。

さて、今日の新聞ちらし凄いですね^^、七夕の日にあやかって超目玉!77円の数字が商品よりも抜きん出ています^^; 98円の口車に乗せられてスーパーに駆け込んだりしますが、今日はマジお得かもしれません。天気なんてそっちのけ^^?七夕フィーバーに乗っかり、私も後で買物に行ってくることにします。

そんなちらしの片隅、カルピス商品に被せてあった「7月7日はカルピスの誕生日」というプチコメントを発見^^ しかし、そこにあった商品の値段を見て笑ってしまった。こんだけ77円で埋め尽くされている中にあって、88円とか178円、298円なんだもの(笑)。まぁ^^メーカーさんの御意向もおありでしょうから~☆ 

 

で、気になる「カルピスの誕生日」とは~♪ 

カルピス株式会社の社史によりますと、「カルピス」は、1919年7月7日に誕生した日本初の乳酸菌飲料です。 生乳と乳酸菌から生まれる甘酸っぱい味わいは、幅広い世代のお客様に愛されて今年で発売91年目を迎えるのだそうです。 (わお^^OSK日本歌劇団の歴史とほぼ同じだわ~親近感!(笑)。)

その味わいと並んでなじみ深いのが、もう今となっては、カルピスそのものよりも存在感を示して誰もが知っている水玉模様のパッケージデザインです。 この水玉模様は、発売日の7月7日が七夕であることにちなんで、天の川『銀河の群星』をイメージしたデザインとして1922年に誕生したんですって~、なるへそ^^それで、七夕が「カルピスの誕生日」なのねっ^^v

1902年(明治35年)当時25歳であった創業者となる三島海雲が、内モンゴルで出会った酸乳の健康への効果に感銘を受け、日本で乳酸菌を用いた食品を作り、人々の健康に貢献したいと考えて研究を重ねました。その結果、酸乳を発酵させて砂糖を加えたクリームである「醍醐味」の開発に成功し、1916(大正5)年、生産・販売を開始しました。

でもですね、体にいいからといって、馴染みのない味をそう簡単に受け入れてもらえるはずもなく、売れない日々が長年続いたそうですね。そして、ある日、1本の試験管の中で実に美味しい味が偶然にもできあがっていたのでした。しかし、海雲はこのままでは商品的価値に乏しく、さらに人々の健康に役立つものにするためには、もう一工夫必要だと考え、当時、日本人の食事に不足していたカルシウムを添加し栄養的価値をさらに高め、1919(大正8)年7月7日に日本初の乳酸菌飲料「カルピス」の誕生となるのです。

さてさて、この「カルピス」という語源ですが、“カル”は、牛乳に含まれているカルシウムから、“ピス”は、サンスクリット語に由来。仏教では乳、酪、生酥、熟酥、醍醐を五味といい、五味の最高位を “サルピルマンダ”(醍醐)、次位を“サルピス”(熟酥=じゅくそ)というため、本来は最高のものとして“カルピル”と言うべきですが、創業者の三島海雲は、音声学の権威である音楽家・山田耕筰氏やサンスクリット語の権威・渡辺海旭氏に相談した結果、言いやすい「カルピス」と命名したようですね。更に山田耕筰からは『母音の組み合わせが、開放的かつ堅実性があり発展性が感じられる。きっと繁盛する。』とお墨付きを頂いたそうですよ。

そうそう^^、「カルピス」のキャッチフレーズ『初恋の味』を決めるにあたっての面白い裏話があります。

1920(大正9)年、三島海雲の文学寮時代の後輩である驪城(こまき)卓爾が『甘くて酸っぱい「カルピス」は「初恋の味」だ。これで売り出しなさい』と提案したことがそもそもの切欠だったようですが、大正9年当時は、“初恋”という言葉さえはばかるような時代だったため、海雲は、一度は『とんでもない』と断ったようです。

しかし、海雲をまた訪ねてきた驪城は、『「カルピス」はやはり初恋の味だ。この微妙・優雅で純粋な味は初恋にぴったりだ』 と引かなかったようですね(笑)。海雲は、『わかった。だが「カルピス」は子どもも飲む。もし子どもに初恋の味ってなんだと聞かれたらどうする』 と言うと、驪城は『「カルピス」の味だと答えればいい。初恋とは、清純で美しいものだ。それに、初恋ということばには、人々の夢と希望とあこがれがある』 という言葉を受けて、ようやく海雲も納得し、1922(大正11)年4月の新聞広告にキャッチフレーズとして使用したのでした。

当初としては、世論を二分するほど話題になりましたが、好景気で世の中は明るく、このモダンなキャッチフレーズは世情にマッチし、「カルピス」は、おいしく体に良い飲み物として、瞬く間に人々の間に広まり、時代を経て、やがて“国民飲料”として愛される商品へと成長していったのでした^^

めでたし、めでたし。。。

 

どうでしょう^^、今宵七夕は、誰かさんの笑顔を思い浮かべながら、初恋の味を久しぶりに味わってみてはいかがでしょうか^^;;;

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