平成27年7月20日参拝
・伊弉諾(いざなぎ)神社 (福井県大飯郡高浜町小和田51-14)
・伊射奈伎(いざなぎ)神社 (福井県大飯郡おおい町福谷)
・勝手神社 (福井県三方上中郡若狭町脇袋 26-3-1) 白山社/合祀
暑中 ^^ お見舞い申し上げます。
先日のこと、連日の猛暑にようよう耐えきれず、地元の図書館へ涼みに逃げ込んだ^^;
堀の宮の白山神社で知った『神社明細帳』を調べてみたかったこともありましたが、わざわざ福井市まで調べに行くにはちょっとが遠く、ここにあればとの願いもあってのことなのですが^^;;;
でも、さすが図書館ですね。県立図書館蔵書のものと同じではないかもしれませんが、平成13年発行の『福井県神社明細帳(嶺南編)』がありましたが、分厚いページをぺらぺらめくる感じなもので^^;;; でも、嶺北編を見てみたかったかも・・・。たまたま見つけた『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』では、ちょっとした収穫ありです。それによりますと、嶺南の方にもまだ白山神社関連の神社が鎮座していることが判明。
ちょーど、嫁いだ娘のところへ御中元を持って御挨拶に覗うかたがた高浜町まで主人と足を伸ばしてみることにしました。
開通した舞鶴若狭道を大飯郡まで走るのは初めてのこと、大飯高浜ICで下りると高浜町まで下道を走ります。このIC近くのおおい町にも伊射奈伎(いざなぎ)神社が鎮座されているのですが、高浜へ先に参拝してからこちらに戻ってくることにします。
◆ 伊弉諾(いざなぎ)神社 (福井県大飯郡高浜町小和田51-14) 7/20
『小和田の西部、青葉山麓に張出した枝峰の先端にある。
祭神 伊弉諾尊・伊弉冊尊。 旧村社。 創祀はつまびらかではない。
江戸時代までは金剣社と称したが、明治十一年(1878)に改称した(大飯郡誌)。
現在境内社に金剣神社が祀られるが、これは文永二年(1265)の若狭国惣田数帳写にみえる「金劔宮」、享禄五年(1532)の神名帳写(小野寺文書)にみえる金剣明神に比定される。 「若州管内社寺由緒記」は金劔大明神とし、御神体は不動であると記している。 』
「近江・若狭・越前 寺院神社大事典」より
拝殿前の舞殿では、10月中旬の祭礼において、龍舞と田楽が毎年奉納されるようです。
本殿左に境内二社、拝殿寄りより「金剱神社 (国常立命)」、「元本社奥宮・西青葉神社の建拝社(伊弉冊尊と菊理媛尊)」が並んで祀られている。
初めて出逢う珍しい拝殿の形である。境内を歩いていると拝殿奥からFMラジオが聞こえてきたので、誰かが作業でもしているのか思えば、どうやら防犯対策で自動的に流れるようになっているようだ。
本殿右奥に三社、「稲荷神社」 「?神社」 「恵比寿神社」、 手前の大きな社の中に 「八所老神神社」。
◆ 伊射奈伎(いざなぎ)神社 (福井県大飯郡おおい町福谷)
拝殿 (本殿前より振り返り望む)
本殿 稲成社 (本殿東側)
おおい町指定天然記念物の栂(トガ)の木。 奥に見える境内社は、八幡宮 (本殿西側)である。
「 天章周文と写経 」
伊射奈伎神社は、昔「福祥山隆興寺天満神社」と称し佐分郷17か所の大社であった。
この社前に「善楽寺」という真言宗の別当寺があったとされ、周文が3年ほど身を寄せていたと伝えられている。
この善楽寺において大願を抱いて五部大乗経200巻を写経、100巻を天満神社に奉納したと伝えられ、現在41巻が遺されている。写経の末葉には「時に応永十三年(1406)丙戌五月二十二日 若州大飯郡佐分郷善楽寺に於いて大願主周文謹んでこれを書す」と奥書が記されている。
周文は室町時代中期の画僧で、字は天章、号は越渓と称した。画を室町水墨画の先駆者である如拙から習得したと思われ、後に如拙の後を継ぎ足利幕府の御用画師となった。周文の画風は雪舟や小栗宗湛など多くの水墨画家に継承され、東山文化の開花につながった。
周文写経 5巻 (福谷区1巻 大飯町4巻 管理) 昭和63年8月1日 大飯町指定文化財
おおい町教育委員会 / おおい町文化財保護委員会
◆ 勝手神社 (福井県三方上中郡若狭町脇袋 26-3-1)
白山社 明治44年3月21日 合祀
御神体「十一面観音(聖徳太子御作申伝)」 (若州管内社寺由緒記)
法順寺観音堂
「木造十一面観世音菩薩像」 御開帳(17年毎)・・・2009年 → 2021年
昭和三年国宝の指定を受け現在重要文化財となっている。
当所は古来堂谷と称し若狭開発の祖とされる膳臣ゆかりの膳部山を背に七っ塚古墳を眼下に霊峰青葉山が眺望される景勝の地である。
当寺観音堂に秘仏として安置される十一面観音の功徳は現世利益十種と来世果報四種とされ衆生の救い求める声を聞けば自在にこれを救済されるという霊験あらたかな尊像である。
当寺縁起によれば作者は聖徳太子とも定朝ともいわれ一刀三礼の作とされていて、今は廃寺である真言宗系霊松山正法寺の旧仏といわれ仏高約一米余 桧の寄木造りで円満な相好や彫法は藤原末期の菩薩像の典型ともいわれ、若狭に遺る平安彫刻の中でも完成された美しさを持ち、屈指の都ぶりの仏像と高く評価されている。 (法順寺 十一面観世音菩薩像由緒書より)
この観音堂の後方に勝手神社が鎮座している。