随想録 ー而今ー

 而今は、「にこん」と読みます。
 今の瞬間を精一杯生きるということを意味する言葉です。
 

第617号 鞍上人無く

2017年03月20日 | 最近感じること
 暑さ寒さも彼岸まで、と言われますが、彼岸に入り、春の訪れを感じ始める頃となりました。

 さて、「鞍上人なく、鞍下馬無し」という言葉を教わりました。
人馬一体となった、巧みな騎乗ぶりのたとえだそうです。
オリンピックでの馬術競技を見ていると、人馬一体となっている様子を見ることができます。

 合気道では、剣や杖を使って稽古しますが、
剣を持てば、剣を体の一部と思え、
杖を持てば、杖を体の一部と思え、
体術での稽古では、相手も自分の体の一部と思え、
と教わりました。
 すべてが自分と一つであるという感覚は難しいものだと思います。
どうしても、自分は自分、相手は相手と考えてしまうから、
相手を投げつけるということことになるかもしれません。
自分ひとりの力だけで、できることはしれているのに、
自分の力だけで、相手をなんとかしようとするからかもしれません。
相手をなんとかするという考えより、
相手と自分とで、一つの技が生まれるというような感覚を探してみれば、
人馬一体のような感覚を感じられるかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第616号 残してくれたもの

2017年03月02日 | 最近感じること
 梅の花から桜の花へと移ろいゆく頃になりました。
弥生は、卒業式のシーズンでもあります。
 現役時代には、子供達の旅立ちを見送る立場である校長を務めていた学生時代の同期生が、
現世を旅立ったという知らせが入りました。

 ふと、学生時代に流行っていた「ああ我が友よ」という歌を思い出しました。
当時、かまやつひろしが歌っていた曲でした。作詞、作曲は、吉田拓郎でした。(不思議なことに、かまやつひろし氏も、昨日、亡くなったそうです。)
「下駄を鳴らして奴が来る。腰に手ぬぐいぶら下げて・・・・」
という出だしで始まる歌は、自分達より以前の古きバンカラ時代を思い出すような曲ですが、
自分達の学生時代も、まだまだ粗末な時代であったのを思い出します。
 亡くなった同期生は、言葉は少なかったですが、存在感を感じさせるものを持っている男でした。
当時は、高倉健の任侠映画が流行っている時代でもありましたが、角刈りが似合う男でもありました。

 さて、同期生の訃報に接し、学生時代に問答した「人はどこから来て、この世で何を残して、そしてどこへ行くのか。」
ということを思い出しました。
 人はこの世を旅立つにあたって、何を持って行くことができるのか。
仮に死にゆく自分が望んだとしても、金も、名誉も、持っていくことはできません。
ましてや愛する家族や友人でも一緒に行くことはできません。
自分自身の体でさえ、この世に残していくのです。
そう考えると、自分の思い通りになるものは何もない。
 死にゆくにあたって思い通りにならないものは、
現世においても自分の思い通りにはならないと思いました。
 自分以外の人、物を自分の思い通りにしようとするところが
こだわりであり、執着であり、ストレスになるのだと思います。
 禅の言葉に、放下着という言葉があるそうです。
執着を捨てるということだと理解しています。
 「残りの人生を執着を捨てて生きよ。」
それが、旅立った同期生が残してくれたメッセージであると感じています。

 (合掌)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする