松戸駅の南側の台地の上にある松戸中央公園は、かつて松戸競馬場(1907 - 1919)と陸軍工兵学校(1919 – 1945)があった場所です。
陸軍の学校といえば、陸軍士官学校を筆頭に国内各地に様々な学校があったわけですが、工兵というのは聞き慣れません。
どんな兵隊でしょうか。
調べてみると、工兵とは戦闘支援兵科の一種で、土木の専門家集団だったそうです。
つまり、堡塁やトーチカなどの防衛拠点を構築したり、軍事用の鉄道や橋、地雷、鉄条網を敷設したりと、そういう特殊な技術を扱う兵隊を指します。
工兵、歩兵、砲兵、騎兵を四大兵科と呼んでいたそうです。
軍事用の鉄道といえば、かつて松戸駅から陸軍鉄道連隊演習線が通っていたことが知られています。
今の新京成線です。
新京成線は陸軍の重要な拠点だった習志野も通過しますので、松戸に工兵学校を設置したのは、こうした地理的な理由もあったのかもしれません。
松戸中央公園には、当時の正門の門柱と哨戒舎がそのまま残されているそうです。
見に行ってみました。
松戸中央公園は、松戸駅近くの高台にあります。高さは20メートルほどでしょうか。
イトーヨーカドーの5階と繋がっています。
これが正門です。

近づいてみます。


このレンガ造りの正門の完成は1920年だそうですから、来年で100年になります。

標札を掛けていたと思われるフックも残っています。

これは哨戒舎と呼ばれる警備要員の詰所です。
昭和初期に作ったようです。
1人しか入ることができません。


両サイドと後方にのぞき穴が穿たれています。
この穴から哨戒兵が目を光らせていたのでしょうか。
学校内にはたくさんの軍事用具や軍事情報が保管されていたはずですから、警備は厳重だったのでしょう。
公園内を歩いてみます。
工兵学校の遺構らしきものがあるでしょうか。
陸軍工兵学校の跡地を示す、こんな記念碑が立っていました。



揮毫したのは宮原國雄とあります。
どんな人でしょうか。
調べたところ、宮原國雄(1874 - 1971)は陸軍の工兵の専門家で、佐世保要塞司令官や陸軍砲工学校校長を務めた人物です。
晩年は29歳のときには旅順攻囲戦にも参加しています。
この記念碑は1967年に建てたとありますので、宮原が93歳のときだったことになります。

これはいかにも古そうな構造物です。工兵学校の倉庫だったようです。

老朽化した重厚な扉が時代を感じさせます。
中には何が入っているのでしょうか。所有者は不明ですが、案外最近まで使われていたのかもしれません。
扉はしっかりと閉じられています。
陸軍の軍用地の境界を示す石柱もところどころに残っています。


この緩やかなカーブは競馬場のコーナーのようにも見えます。

これは松戸競馬場時代の名残でしょうか。
それにしても、平らな場所はいくらでもあったはずなのに、なぜこんな狭い高台に競馬場を作ったのでしょうか。
厩舎やスタンド、パドックなど関連施設はどこにあったのでしょうか。
かなり条件の悪い競馬場だったことは想像に難くありません。
まあ、それだから今の中山競馬場に移転したのかもしれませんが。

松戸中央公園の南側には、相模台公園と呼ばれる人気のない公園もありました。
こちらは周囲を繁みに囲まれた高台にあるためか、やや薄暗く、ひっそりとしています。

こちらでも陸軍境界線を示す石柱が残っていました。

100年のときを越え、このようにごくわずかに残ってきた遺構は、工兵の街として栄えた土地の歴史を静かに伝えています。
陸軍の学校といえば、陸軍士官学校を筆頭に国内各地に様々な学校があったわけですが、工兵というのは聞き慣れません。
どんな兵隊でしょうか。
調べてみると、工兵とは戦闘支援兵科の一種で、土木の専門家集団だったそうです。
つまり、堡塁やトーチカなどの防衛拠点を構築したり、軍事用の鉄道や橋、地雷、鉄条網を敷設したりと、そういう特殊な技術を扱う兵隊を指します。
工兵、歩兵、砲兵、騎兵を四大兵科と呼んでいたそうです。
軍事用の鉄道といえば、かつて松戸駅から陸軍鉄道連隊演習線が通っていたことが知られています。
今の新京成線です。
新京成線は陸軍の重要な拠点だった習志野も通過しますので、松戸に工兵学校を設置したのは、こうした地理的な理由もあったのかもしれません。
松戸中央公園には、当時の正門の門柱と哨戒舎がそのまま残されているそうです。
見に行ってみました。
松戸中央公園は、松戸駅近くの高台にあります。高さは20メートルほどでしょうか。
イトーヨーカドーの5階と繋がっています。
これが正門です。

近づいてみます。


このレンガ造りの正門の完成は1920年だそうですから、来年で100年になります。

標札を掛けていたと思われるフックも残っています。

これは哨戒舎と呼ばれる警備要員の詰所です。
昭和初期に作ったようです。
1人しか入ることができません。


両サイドと後方にのぞき穴が穿たれています。
この穴から哨戒兵が目を光らせていたのでしょうか。
学校内にはたくさんの軍事用具や軍事情報が保管されていたはずですから、警備は厳重だったのでしょう。
公園内を歩いてみます。
工兵学校の遺構らしきものがあるでしょうか。
陸軍工兵学校の跡地を示す、こんな記念碑が立っていました。



揮毫したのは宮原國雄とあります。
どんな人でしょうか。
調べたところ、宮原國雄(1874 - 1971)は陸軍の工兵の専門家で、佐世保要塞司令官や陸軍砲工学校校長を務めた人物です。
晩年は29歳のときには旅順攻囲戦にも参加しています。
この記念碑は1967年に建てたとありますので、宮原が93歳のときだったことになります。

これはいかにも古そうな構造物です。工兵学校の倉庫だったようです。

老朽化した重厚な扉が時代を感じさせます。
中には何が入っているのでしょうか。所有者は不明ですが、案外最近まで使われていたのかもしれません。
扉はしっかりと閉じられています。
陸軍の軍用地の境界を示す石柱もところどころに残っています。


この緩やかなカーブは競馬場のコーナーのようにも見えます。

これは松戸競馬場時代の名残でしょうか。
それにしても、平らな場所はいくらでもあったはずなのに、なぜこんな狭い高台に競馬場を作ったのでしょうか。
厩舎やスタンド、パドックなど関連施設はどこにあったのでしょうか。
かなり条件の悪い競馬場だったことは想像に難くありません。
まあ、それだから今の中山競馬場に移転したのかもしれませんが。

松戸中央公園の南側には、相模台公園と呼ばれる人気のない公園もありました。
こちらは周囲を繁みに囲まれた高台にあるためか、やや薄暗く、ひっそりとしています。

こちらでも陸軍境界線を示す石柱が残っていました。

100年のときを越え、このようにごくわずかに残ってきた遺構は、工兵の街として栄えた土地の歴史を静かに伝えています。
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