東京の明治通りに「泪橋」という交差点があります。
南千住駅の南側、台東区と荒川区の区界付近です。ここから南側の一帯は通称「山谷」と呼ばれる古くからのドヤ街です。
訪ねてみました。


この泪橋は、漫画家・ちばてつやの代表作「あしたのジョー」の舞台です。
あしたのジョーは1968年に連載がスタートしたので、今年でちょうど50年となります。
今でも根強い人気を誇っており、この春、東京スカイツリーで回顧展も開催されるようです。

僕も子どもの頃に夢中になって何度も読みました。
三島由紀夫も愛読者だったことが知られています。夜中にタクシーで講談社編集部を訪ね、今日発売された最新号を売ってほしいとねだったという逸話が残っています。
ドヤ街に流れ着いた孤児院育ちの風来坊・矢吹丈は、チンピラと乱闘した際、元ボクサーの丹下段平に素質を見いだされ、ボクシングへの道に進んでいきます。
泪橋の下には、段平が手作りで設立したボクシングジム「丹下拳闘クラブ」がありました。
漫画では、泪橋は小さい川に架けられた木造橋として描かれています。川は、かつてここに存在した思川と思われます。
現在、思川は暗渠化されており、泪橋の遺構は残っていません。残っているのは地名のみです。

段平は、少年院から出所してきたジョーに対し、泪橋の上でこう語ります。
この橋はな、人呼んで泪橋という。いわく...人生に破れ、生活に疲れ果てて、このドヤ街に流れてきた人間達が、涙で渡る悲しい橋だからよ。三年ほど前のわしもそうだった。おめえもその一人だったはずだ...
だが、今度はわしとおまえとで、この泪橋を逆に渡り、あしたの栄光をめざして第一歩を踏み出したいと思う。わかるか、わしの言うてる意味が...
なあジョーよ...ふたりで苦しみふたりで歯を食いしばって、この泪橋を逆にわたっていこう

いかがでしょう?
作品序盤の名シーンのひとつです。
僕が作品を読んだのは小学生の頃でしたが、描かれているドヤ街の何とも場末感のある退廃的な雰囲気や、アクの強い廃れた登場人物に驚いたものです。
僕が育った九州の田舎は、のどかな農村地帯ではありながら、ドヤ街のような場所もこんなに荒んだ人たちも存在しなかったからです。
この平等な世の中に、本当にこんなに荒んだ恐ろしい場所が存在するのだろうか、と子どもながらに思ったものでした。
歴史を紐解き、実際に街を歩いてみると、ここには本当にドヤが存在したことが分かります。
今は漫画ほど極端な廃れっぷりではありませんが、今も安宿が建ち並び、かつての漫画の世界に近い雰囲気があったことは十分に伝わってきます。

玉姫公園も実在します。ジョーと段平が初めて出会った場所です。
ジョーのロードワークの定番コースでもあります。
力石戦の後、ジョーが1人で突っ伏して泣いたのもここです。

ジョーがトレーニングを積んだ公園では、少年たちが野球の練習をしていました。
山谷のドヤ街の中心は、「いろは会商店街」と呼ばれるアーケード街付近です。

ドヤ街の住人たちがジョーに話しかけるシーンがあります。
おらたちはな、おめえが一日一日立派になっていくのを見守っているんだ。
おめえはおらたちドヤ街の住民のともしびなんだぜ
ジョーはドヤの住民の人気者でした。
今はどうでしょうか。
いろは会商店街は、かつてはドヤ街なりに日雇い労働者たちでそれなりに賑わったと思われますが、今や8割以上の店のシャッターが閉じられ、人通りもまばらでした。



キノコやサチ、トン吉がひょっこり顔を出してきそうです。
アーケードは老朽化が進み、撤去工事が行われていました。
放置自転車が並び、シャッターの下りた店先でホームレスが寒さを凌いでいる姿もみかけました。
商店街がその役割を終えつつあることを感じさせます。

高度経済成長期が終わり、労働行政が徐々に改善され、ドヤを必要とする日雇い労働者の数が減ってきたのでしょう。
これが50年という時間なのでしょうか。
アーケードは1976年に建設されたものだそうですので、あしたのジョーの連載が終わった3年後ということになります。
ところで、ちばてつやは、旧満州の奉天で1歳から6歳までの幼少期を過ごした引き揚げ者です。
満州での生活体験や引き揚げまでの飢えや逃避行、帰国後に味わう疎外感などの苦労は、どのように作品に反映されているのか、非常に関心のあるところです。
ちばてつやの作品に登場する人物は、ジョーや力石徹をはじめとして、一匹狼のアウトローっぽい人物が多いように思います。
取っつきにくくて、いつもどこか居心地の悪さを感じていて、貧しくて、やんちゃで無礼で乱暴で、でも義理人情に厚くて.....。
僕なりに推測すると、この辺りが旧満州での生活や、引き揚げ経験などの生い立ちと関係しているのだと思います。
ジョーが孤児であるという設定も、多くの戦争孤児を目にしてきた作者の体験に基づいているものと思います。
ジョーがバンタム級東洋タイトルをかけて戦った韓国人の金竜飛も、戦争体験から描かれたキャラクターだと思います。
こうした作風は、同じ引き揚げ者である山田洋次監督の映画作品に通じるものがあります。
山田監督が描く映画作品の主人公も、寅さんをはじめとしてアウトローが多いのが特徴です。
ジョーと寅さんは、それ以外にもキャラ的な類似点がたくさんあります。
山田監督がこうした人物を描く背景には、自身が旧満州や大連で暮らしと引き揚げ後の祖国での暮らしが影響していると語っています(2016年4月2日の日記)。
作品中では、ジョーの宿命のライバルである力石が減量に苦しむ姿がリアルに描かれているのも印象的です。
力石は、ジョーとの壮絶な戦いの末、無理な減量がたたって命を落とします。
この辺りも作者の引き揚げ時の経験が関係していると思われます。
両氏は、発表してきた映画や漫画の描写を通じて、静かに我々戦後世代に戦争体験を伝えてくれているのだと思います。
史実によると、泪橋の由来は、近くに江戸時代に徳川幕府が設置した処刑場である小塚原刑場があったため、刑場に赴く囚人たちがこの世の別れに涙を流しながら渡ったからとも、囚人の知人が囚人との今生の別れを惜しんで袖を濡らしたから、とも伝えられています。

小塚原処刑場は、泪橋の北側、南千住回向院の近くでした。


回向院には当時(1741年)に建立された首切り地蔵が今も残っています。

南千住駅の南側、台東区と荒川区の区界付近です。ここから南側の一帯は通称「山谷」と呼ばれる古くからのドヤ街です。
訪ねてみました。


この泪橋は、漫画家・ちばてつやの代表作「あしたのジョー」の舞台です。
あしたのジョーは1968年に連載がスタートしたので、今年でちょうど50年となります。
今でも根強い人気を誇っており、この春、東京スカイツリーで回顧展も開催されるようです。

僕も子どもの頃に夢中になって何度も読みました。
三島由紀夫も愛読者だったことが知られています。夜中にタクシーで講談社編集部を訪ね、今日発売された最新号を売ってほしいとねだったという逸話が残っています。
ドヤ街に流れ着いた孤児院育ちの風来坊・矢吹丈は、チンピラと乱闘した際、元ボクサーの丹下段平に素質を見いだされ、ボクシングへの道に進んでいきます。
泪橋の下には、段平が手作りで設立したボクシングジム「丹下拳闘クラブ」がありました。
漫画では、泪橋は小さい川に架けられた木造橋として描かれています。川は、かつてここに存在した思川と思われます。
現在、思川は暗渠化されており、泪橋の遺構は残っていません。残っているのは地名のみです。

段平は、少年院から出所してきたジョーに対し、泪橋の上でこう語ります。
この橋はな、人呼んで泪橋という。いわく...人生に破れ、生活に疲れ果てて、このドヤ街に流れてきた人間達が、涙で渡る悲しい橋だからよ。三年ほど前のわしもそうだった。おめえもその一人だったはずだ...
だが、今度はわしとおまえとで、この泪橋を逆に渡り、あしたの栄光をめざして第一歩を踏み出したいと思う。わかるか、わしの言うてる意味が...
なあジョーよ...ふたりで苦しみふたりで歯を食いしばって、この泪橋を逆にわたっていこう

いかがでしょう?
作品序盤の名シーンのひとつです。
僕が作品を読んだのは小学生の頃でしたが、描かれているドヤ街の何とも場末感のある退廃的な雰囲気や、アクの強い廃れた登場人物に驚いたものです。
僕が育った九州の田舎は、のどかな農村地帯ではありながら、ドヤ街のような場所もこんなに荒んだ人たちも存在しなかったからです。
この平等な世の中に、本当にこんなに荒んだ恐ろしい場所が存在するのだろうか、と子どもながらに思ったものでした。
歴史を紐解き、実際に街を歩いてみると、ここには本当にドヤが存在したことが分かります。
今は漫画ほど極端な廃れっぷりではありませんが、今も安宿が建ち並び、かつての漫画の世界に近い雰囲気があったことは十分に伝わってきます。

玉姫公園も実在します。ジョーと段平が初めて出会った場所です。
ジョーのロードワークの定番コースでもあります。
力石戦の後、ジョーが1人で突っ伏して泣いたのもここです。

ジョーがトレーニングを積んだ公園では、少年たちが野球の練習をしていました。
山谷のドヤ街の中心は、「いろは会商店街」と呼ばれるアーケード街付近です。

ドヤ街の住人たちがジョーに話しかけるシーンがあります。
おらたちはな、おめえが一日一日立派になっていくのを見守っているんだ。
おめえはおらたちドヤ街の住民のともしびなんだぜ
ジョーはドヤの住民の人気者でした。
今はどうでしょうか。
いろは会商店街は、かつてはドヤ街なりに日雇い労働者たちでそれなりに賑わったと思われますが、今や8割以上の店のシャッターが閉じられ、人通りもまばらでした。



キノコやサチ、トン吉がひょっこり顔を出してきそうです。
アーケードは老朽化が進み、撤去工事が行われていました。
放置自転車が並び、シャッターの下りた店先でホームレスが寒さを凌いでいる姿もみかけました。
商店街がその役割を終えつつあることを感じさせます。

高度経済成長期が終わり、労働行政が徐々に改善され、ドヤを必要とする日雇い労働者の数が減ってきたのでしょう。
これが50年という時間なのでしょうか。
アーケードは1976年に建設されたものだそうですので、あしたのジョーの連載が終わった3年後ということになります。
ところで、ちばてつやは、旧満州の奉天で1歳から6歳までの幼少期を過ごした引き揚げ者です。
満州での生活体験や引き揚げまでの飢えや逃避行、帰国後に味わう疎外感などの苦労は、どのように作品に反映されているのか、非常に関心のあるところです。
ちばてつやの作品に登場する人物は、ジョーや力石徹をはじめとして、一匹狼のアウトローっぽい人物が多いように思います。
取っつきにくくて、いつもどこか居心地の悪さを感じていて、貧しくて、やんちゃで無礼で乱暴で、でも義理人情に厚くて.....。
僕なりに推測すると、この辺りが旧満州での生活や、引き揚げ経験などの生い立ちと関係しているのだと思います。
ジョーが孤児であるという設定も、多くの戦争孤児を目にしてきた作者の体験に基づいているものと思います。
ジョーがバンタム級東洋タイトルをかけて戦った韓国人の金竜飛も、戦争体験から描かれたキャラクターだと思います。
こうした作風は、同じ引き揚げ者である山田洋次監督の映画作品に通じるものがあります。
山田監督が描く映画作品の主人公も、寅さんをはじめとしてアウトローが多いのが特徴です。
ジョーと寅さんは、それ以外にもキャラ的な類似点がたくさんあります。
山田監督がこうした人物を描く背景には、自身が旧満州や大連で暮らしと引き揚げ後の祖国での暮らしが影響していると語っています(2016年4月2日の日記)。
作品中では、ジョーの宿命のライバルである力石が減量に苦しむ姿がリアルに描かれているのも印象的です。
力石は、ジョーとの壮絶な戦いの末、無理な減量がたたって命を落とします。
この辺りも作者の引き揚げ時の経験が関係していると思われます。
両氏は、発表してきた映画や漫画の描写を通じて、静かに我々戦後世代に戦争体験を伝えてくれているのだと思います。
史実によると、泪橋の由来は、近くに江戸時代に徳川幕府が設置した処刑場である小塚原刑場があったため、刑場に赴く囚人たちがこの世の別れに涙を流しながら渡ったからとも、囚人の知人が囚人との今生の別れを惜しんで袖を濡らしたから、とも伝えられています。

小塚原処刑場は、泪橋の北側、南千住回向院の近くでした。


回向院には当時(1741年)に建立された首切り地蔵が今も残っています。
