旅順にある帝政ロシア軍のコンドラチェンコ司令官旧居です。

(旅順口区寧波街にあります)

(1903年築です)
コンドラチェンコ司令官といえば、日露戦争の旅順攻囲戦で日本帝国陸軍を苦しめた名将として知られています。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」でもおなじみの人物です。
最後までロシア軍の前線に立って、ロシア兵を鼓舞し続けたとされています。
彼の最後の地となった東鶏冠山北堡塁には、今も日本軍によって建立された記念碑が残っています。
つまり、日本側もこの人物を相当警戒し、評価していたということが窺えます。

(こんな人です)
今でもかなり立派な邸宅です。
コンドラチェンコ司令官は、ここを生活拠点に軍の指揮を取り、旅順要塞を守っていたのです。
感慨深いものがありますね。
記録によると、1935年には溥儀も一時ここに身を寄せたそうです。
今も民家として利用されているようです。
近づいてみると、ベランダから大型の番犬が吠えて威嚇してきました。庭では野菜が育てられていました。
観光地化されていないので、訪ねてくる人物はいないようです。
コンドラチェンコ司令官が日本帝国陸軍の総攻撃を受けて殉死するのは1904年12月12日です。
そこから約110年間、旧宅は旅順旧市街からほど近い小高い丘の上で、静かに時の流れを見守っています。

(裏側です)

大連市重点保護建築に指定されています。

(旅順口区寧波街にあります)

(1903年築です)
コンドラチェンコ司令官といえば、日露戦争の旅順攻囲戦で日本帝国陸軍を苦しめた名将として知られています。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」でもおなじみの人物です。
最後までロシア軍の前線に立って、ロシア兵を鼓舞し続けたとされています。
彼の最後の地となった東鶏冠山北堡塁には、今も日本軍によって建立された記念碑が残っています。
つまり、日本側もこの人物を相当警戒し、評価していたということが窺えます。

(こんな人です)
今でもかなり立派な邸宅です。
コンドラチェンコ司令官は、ここを生活拠点に軍の指揮を取り、旅順要塞を守っていたのです。
感慨深いものがありますね。
記録によると、1935年には溥儀も一時ここに身を寄せたそうです。
今も民家として利用されているようです。
近づいてみると、ベランダから大型の番犬が吠えて威嚇してきました。庭では野菜が育てられていました。
観光地化されていないので、訪ねてくる人物はいないようです。
コンドラチェンコ司令官が日本帝国陸軍の総攻撃を受けて殉死するのは1904年12月12日です。
そこから約110年間、旧宅は旅順旧市街からほど近い小高い丘の上で、静かに時の流れを見守っています。

(裏側です)

大連市重点保護建築に指定されています。
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