電岩砲台は、日露戦争で帝政ロシア軍が旅順湾の防衛の要とした最前線の陣地です。
日露戦争序盤のハイライト、旅順口閉塞作戦となった舞台です。
閉塞戦で日本軍が最も打撃を受けたのは、この砲台からの攻撃でした。
場所は黄金台で、旅順湾の狭い湾口のすぐ東側に当たります。
当時は、黄金台低砲台と呼ばれていました。
造営は清代末期に始められ、ロシア軍が大幅に拡張しました。
幅約200メートルで、今も6つの砲台跡が残っています。
ここに砲台が据え付けられていました。
湾口を照らすサーチライトが配備されていた台座の跡です。
ちなみに、電岩砲台とはサーチライトが配備されたために名付けられたそうです。
100メートル近い高さのある砲台からは、黄海を遠くまで見渡すことができるほか、旅順湾口が丸見えです。
旅順湾口。幅273メートルとされています。
これはロシア軍も守りやすかったと思います。
ここに来ると、旅順口が「天然の要塞」とか「難攻不落」と評された理由がよくわかります。
当時、この砲台は百発百中ならぬ「百発不中」の要塞と呼ばれたそうですが、それも頷けます。
砲台からは視界抜群ですから、下に向かって弾を撃ち込むのは容易だったでしょう。
一方、不安定な船の上から高さのあるここに着弾させるのは極めて難しかったと思います。
旅順口閉塞作戦が失敗するのも納得できます。これでは歯が立つはずがありません。
東郷軍も、湾口がこんな強固な守りになっているということが最初から判っていたら、閉塞作戦は決行しなかったと思います。
指揮所の中に入ってみました。狭い窓からも黄海が一望できます。
砲台の内部は、坑道で繋がっています。この通路から弾薬を補給したのだと思います。
攻撃らしい攻撃を受けていないらしく、弾痕や破壊の跡が見当たりません。今も良好な状態で保存されています。
北側方面。こちらは湾口の内側を守備した黄金台高砲台です。
21隻の閉塞船が沈んだ位置は、ほぼこの写真の範囲内に収まっていると思います。
文部省唱歌にもなった広瀬中佐の、
「杉野は何処、杉野はいずや」
のセリフは、この海の上で発せられたものです。
今は静かで穏やかなこの海で、そのような激しい戦闘があったとは思えません。
遼寧省文物保護単位に指定されています。
海岸に下りてみました。今は静かな海が広がっています。
日露戦争序盤のハイライト、旅順口閉塞作戦となった舞台です。
閉塞戦で日本軍が最も打撃を受けたのは、この砲台からの攻撃でした。
場所は黄金台で、旅順湾の狭い湾口のすぐ東側に当たります。
当時は、黄金台低砲台と呼ばれていました。
造営は清代末期に始められ、ロシア軍が大幅に拡張しました。
幅約200メートルで、今も6つの砲台跡が残っています。
ここに砲台が据え付けられていました。
湾口を照らすサーチライトが配備されていた台座の跡です。
ちなみに、電岩砲台とはサーチライトが配備されたために名付けられたそうです。
100メートル近い高さのある砲台からは、黄海を遠くまで見渡すことができるほか、旅順湾口が丸見えです。
旅順湾口。幅273メートルとされています。
これはロシア軍も守りやすかったと思います。
ここに来ると、旅順口が「天然の要塞」とか「難攻不落」と評された理由がよくわかります。
当時、この砲台は百発百中ならぬ「百発不中」の要塞と呼ばれたそうですが、それも頷けます。
砲台からは視界抜群ですから、下に向かって弾を撃ち込むのは容易だったでしょう。
一方、不安定な船の上から高さのあるここに着弾させるのは極めて難しかったと思います。
旅順口閉塞作戦が失敗するのも納得できます。これでは歯が立つはずがありません。
東郷軍も、湾口がこんな強固な守りになっているということが最初から判っていたら、閉塞作戦は決行しなかったと思います。
指揮所の中に入ってみました。狭い窓からも黄海が一望できます。
砲台の内部は、坑道で繋がっています。この通路から弾薬を補給したのだと思います。
攻撃らしい攻撃を受けていないらしく、弾痕や破壊の跡が見当たりません。今も良好な状態で保存されています。
北側方面。こちらは湾口の内側を守備した黄金台高砲台です。
21隻の閉塞船が沈んだ位置は、ほぼこの写真の範囲内に収まっていると思います。
文部省唱歌にもなった広瀬中佐の、
「杉野は何処、杉野はいずや」
のセリフは、この海の上で発せられたものです。
今は静かで穏やかなこの海で、そのような激しい戦闘があったとは思えません。
遼寧省文物保護単位に指定されています。
海岸に下りてみました。今は静かな海が広がっています。
以前(2010年ごろ)は、外国人が個人で行くことはできなかったのですが・・・。(中国人ツアーと一緒ならよかったはず。)