北京市郊外の盧溝橋の東側に、かつて日本軍から一文字山と呼ばれた小さな丘陵があります。
ここが盧溝橋事件の発端となった場所とされています。
山といっても高さは十数メートル程度しかありませんので、山とは言えません。
ひょっとしたら、永定河の蛇行による土砂の堆積が生み出した丘陵地なのかもしれません。

これは1939年に日本で発行された写真集に掲載された一文字山の姿です。
現在の名前ははっきりしませんが、沙崗、あるいは蚊子山と呼ばれているようです。
盧溝橋事件が起きた1937年、一文字山は国民革命軍第29軍の拠点だった宛平城にほど近い重要な場所でした。
事件発生当日、7月7日の直前、日本軍はまずこの場所を押さえて、宛平城に駐屯していた国民革命軍の北京市内に至る道を断ち切ります。
その後軍事衝突が起こり、日本軍は一時的に北京を占拠します。
その後、日本軍関係者はここの頂上に「一文字山 支那事変発端之地」と刻まれた木製の記念碑を立てました。

1年後の1938年7月7日には帝国在郷軍人会北京分会によって石造りの記念碑に建て替えられました。
裏面には「支那事変勃発1周年記念の日に方リ北平在留邦人之を建つ」と彫られていたそうです。

碑文は牟田口廉也陸軍少尉の筆跡だそうです。牟田口は盧溝橋事変当時、支那駐屯歩兵第1連隊長でした。
その後、毎年7月7日には軍関係者や在留邦人で追悼と祝賀の行事を行っていたそうです。
現在、山の中腹に、墓石に交じるようにこんなトーチカが残っています。

中央の黒い柵に囲まれた構造物に注目してください。


周囲を柵で囲まれ、保護されています。
隣にはこんな石碑が立っています。

文字山トーチカ、北京市豊台区普査登記項目、2013年12月と書かれています。比較的最近です。
このトーチカは、いつ頃、誰によって造られたのでしょうか。
調べてみましたが、正確なことが分かりませんでした。行政が保護指定したにも関わらず不明というのはなぜでしょうか。
これは、最近までこの旧一文字山はほとんど注目されてこなかったためのようです。盧溝橋事件と言えば盧溝橋と宛平城のみが注目され、この丘陵は忘れ去られていたようです。
それが最近になって地元の誰かによってフォーカスされ、とりあえず戦争遺構として保存しようという動きに繋がったのではないでしょうか。
日本軍がここを攻める前に清国軍や国民革命軍が建てたか、あるいは1937年以降に日本軍が建てたかのいずれかですが、盧溝橋から北京市内に通じるこの地の地理的な重要性を考えれば、盧溝橋事件の前から存在していたと考えるのが自然でしょう。
見たところ銃眼らしき場所は2箇所しかありませんが、これでちゃんとトーチカとして機能したのでしょうか。
今はほとんどの人が存在に気付いていないと思いますが、今の日中関係にも繋がっていく重要な軍事遺構です。

それにしても、日本関係者が毎年事件当日にこの現場で式典をやっていたとは...なかなか考えさせられます。
ここが盧溝橋事件の発端となった場所とされています。
山といっても高さは十数メートル程度しかありませんので、山とは言えません。
ひょっとしたら、永定河の蛇行による土砂の堆積が生み出した丘陵地なのかもしれません。

これは1939年に日本で発行された写真集に掲載された一文字山の姿です。
現在の名前ははっきりしませんが、沙崗、あるいは蚊子山と呼ばれているようです。
盧溝橋事件が起きた1937年、一文字山は国民革命軍第29軍の拠点だった宛平城にほど近い重要な場所でした。
事件発生当日、7月7日の直前、日本軍はまずこの場所を押さえて、宛平城に駐屯していた国民革命軍の北京市内に至る道を断ち切ります。
その後軍事衝突が起こり、日本軍は一時的に北京を占拠します。
その後、日本軍関係者はここの頂上に「一文字山 支那事変発端之地」と刻まれた木製の記念碑を立てました。

1年後の1938年7月7日には帝国在郷軍人会北京分会によって石造りの記念碑に建て替えられました。
裏面には「支那事変勃発1周年記念の日に方リ北平在留邦人之を建つ」と彫られていたそうです。

碑文は牟田口廉也陸軍少尉の筆跡だそうです。牟田口は盧溝橋事変当時、支那駐屯歩兵第1連隊長でした。
その後、毎年7月7日には軍関係者や在留邦人で追悼と祝賀の行事を行っていたそうです。
現在、山の中腹に、墓石に交じるようにこんなトーチカが残っています。

中央の黒い柵に囲まれた構造物に注目してください。


周囲を柵で囲まれ、保護されています。
隣にはこんな石碑が立っています。

文字山トーチカ、北京市豊台区普査登記項目、2013年12月と書かれています。比較的最近です。
このトーチカは、いつ頃、誰によって造られたのでしょうか。
調べてみましたが、正確なことが分かりませんでした。行政が保護指定したにも関わらず不明というのはなぜでしょうか。
これは、最近までこの旧一文字山はほとんど注目されてこなかったためのようです。盧溝橋事件と言えば盧溝橋と宛平城のみが注目され、この丘陵は忘れ去られていたようです。
それが最近になって地元の誰かによってフォーカスされ、とりあえず戦争遺構として保存しようという動きに繋がったのではないでしょうか。
日本軍がここを攻める前に清国軍や国民革命軍が建てたか、あるいは1937年以降に日本軍が建てたかのいずれかですが、盧溝橋から北京市内に通じるこの地の地理的な重要性を考えれば、盧溝橋事件の前から存在していたと考えるのが自然でしょう。
見たところ銃眼らしき場所は2箇所しかありませんが、これでちゃんとトーチカとして機能したのでしょうか。
今はほとんどの人が存在に気付いていないと思いますが、今の日中関係にも繋がっていく重要な軍事遺構です。

それにしても、日本関係者が毎年事件当日にこの現場で式典をやっていたとは...なかなか考えさせられます。
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