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中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

旧旅順工科大学 興亜橋

2021-05-21 | 旅順を歩く
旧旅順工科大学(現海軍406病院)の東側を流れる小川(日本租借時代は「いささ川」と呼ばれていました)に、終戦を間際にした1944年に建築された石造りのアーチ橋が残っているという情報を得ましたので、見に行ってみました。

川の東側は軍事管理区になっていて立ち入りができませんので、病院(旧工大本館)側から入ってみます。



川下側の茂林橋(日本租借時代は「月見橋」)から見た興亜橋です。
手前の橋ではありません。ずっと奥の方です。



欄干に菱型の装飾が施されている赤っぽい橋がそれです。ここから100メートル近くありそうです。
川沿いには侵入できる道がありません。

病院の正面玄関の駐車場の壁に人が1人通過できるぐらいの切れ目があったので、ここから覗いてみました。



見えました。

今は橋としては使われていないようです。橋桁の中央付近に高さ8メートルほどありそうな木が生えていますので、使用をやめてからもう長いでしょうか。

足元には高い段差がありますので、橋桁まで近づくことはできません。ここが精一杯です。

橋の幅は約8メートルほど、長さは20メートルほどでしょうか。

橋の名前になった「興亜」とは旅順工科大学の校是とも言える根本思想です。

校歌にも登場しますし(本日記の末尾に示しました)、北側に隣接していた学生寮も興亜寮と呼ばれていました。租借地最高レベルの工科大学として、大東亜共栄圏を実現するための技術を育成するという役割を担っていました。

事実、ここの卒業生(1913-1941年)の32%は満鉄系列の会社に入社し、技術王国の中核として活躍しました。
内訳は、満鉄(274人)、満洲電業(53人)、昭和精鋼所(36人)、満洲炭鉱(28人)、満洲軽金属工業(16人)、満洲電信電話(14人)などでした。

駐車場の壁の上に手を伸ばして正面から撮影してみました。



右側手前の親柱に注目してください。

他のサイトによると、この親柱にはひらがなで「こうあはし」という5文字が刻まれています。目を凝らすと、辛うじて「こ」の文字だけが確認できます。

しかし、旧旅順工大は戦況が緊迫の度を強めていた1944年になってなぜこの橋を建造したのでしょうか。
当時の旅順工大は極度の財政難に陥っており、廃学も議論されたほどでした。

この橋の開通によって旅順ヤマトホテルがあった中央大街と直結したので便利だっただろうとは思いますが、1944年といえばもはや大学ではまともに授業は行われず、学生たちは勤労奉仕や学徒兵として動員されていた時代です。
小さい橋とはいえ、労力の確保や工事費の捻出も容易ではなかったと思われます。

解放後、橋としてはいつ頃まで使われていたのでしょうか。
橋としての役目を終えつつも、破壊を逃れ、人目を忍ぶように生き続けてきた租借時代の遺構です。



旅順工科大学正歌(詞:久米孝一 曲:信時潔)

1.平和の鐘は疾く鳴りぬ 意気乾坤に満つる時 降霞たなびく霊陽は 山紫に水清し 丘上高く三層の 学府に輝く 興亜の旗幟
2.東邦の光地を覆ふ 広野はるけし幾千里 見よや北斗の星冴えて 図南の夢に胸躍る ああ若き血の高鳴りに いでや歌はん 興亜の調べ
3.西天万里の夕日かげ 青史に匂ふ霊南の 工科の庭に輝けば 結ぶ日華のたまだすき いざ連立ちて向上の 野に果さなん 興亜の使命
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1 コメント

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Unknown (東東京うさぎのモヒー)
2021-05-23 11:55:50
初見です。
これはすごいです。私は完全にノーマークなスポットでした。文章にもあるとおり,土地柄完全に軍管区の敷地でその一帯は広く,なかなか近づけないと思しき場所です。よく,旧旅順工科大学の駐車場から,橋の写真を撮れる位置まで行かれましたね。あっぱれお見事です。写真拝見する感じ,老朽化が進んでいますね。私も現物を見てみたいです。老朽化の進んだ橋はとても危険ですから,日本の感覚ですと撤去してないことがとてもミラクルといいますか,中国っぽくてそこがまたタイプスリップ感があってすばらしいです。
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