越谷市とさいたま市岩槻区が入り組む場所に、かつて大日本帝国陸軍が作った飛行場が存在していました。
僕は越谷に親戚が住んでいるのですが、聞いてみたところ、50年近く住んでいながら、知らないと言います。
無理もありません。
往時を偲ばせる痕跡はありません。
こんな都心からほど近い場所に軍用の飛行場があったことも、俄に信じられません。
飛行場は第二次世界大戦末期の1944年7月に建設が始まり、終戦間近の1945年に完成したそうです。
首都決戦が避けられなくなり、土壇場になって迎撃用に急造されたようです。
今年に暑い夏の週末を利用して痕跡を探してみました。
越谷市側(エリアの東側)は今のしらこばと水上公園やしらこばと運動公園や南荻島地区、さいたま市側(西側)は高曽根地区や末田地区です。
南北に約2km続く直線道路がありますが、これが滑走路だった場所です。
今はアスファルトで埋められ、両側に住宅や工場が建っていますが、当時、滑走路はもっと広かったはずです。
2kmの直線道路は、長いとは思いますが、決して珍しいとは思えません。そういう道もあるでしょう。
直線道路が先にあったのか、滑走路があったから直線道路になっているのかはわかりません。
ここは誘導路だった道です。緩やかなカーブが名残を伝えています。
滑走路の東側には、飛行場の遺構と思しき構造物が残っています。
さらに東側に行ってみます。
このコンクリート塊も飛行場施設の一部だったと思われますが、いったい何に利用されたのでしょうか?
階段があったので上ってみると、穴と溝がありました。この穴に柱を突き立てて、上に建屋が乗っかっていたのでしょうか。
ここから滑走路まで、約300メートルぐらいです。
コンクリートを支えるアンカーも覗いていました。
旧飛行場の境界だった用水路の脇には、年代を思わせるコンクリート片が転がっていました。
これも飛行場の一部だったのでしょう。
奥に写っている古いそうな橋も、飛行場建設に伴って建設されたものと思われます。
排水用の暗渠の跡もありました。
滑走路に水が溜まるのを防ぐ目的だったのでしょうか。
この飛行場は、記録によると何度か飛行機の離発着が行われたようですが、結局当初陸軍が思い描いたような役目を果たすことなく終戦を迎えます。
多くの資材や労力を投入しておきながら、結果的にはまったくの無駄に終わったわけです。
今さらこんなものを作っても無駄だ、もうこれ以上の抵抗は傷口を広げるだけだ、と主張する人はいなかったのでしょうか。皆が皆、神風が吹くことを期待していたのでしょうか。
いや、思っていても言えなかったのでしょうか。
田んぼの中に立ち、目を閉じて当時の様子を連想します。
国と国民が、かの戦争で失ったものの大きさを改めて感じた一日でした。
僕は越谷に親戚が住んでいるのですが、聞いてみたところ、50年近く住んでいながら、知らないと言います。
無理もありません。
往時を偲ばせる痕跡はありません。
こんな都心からほど近い場所に軍用の飛行場があったことも、俄に信じられません。
飛行場は第二次世界大戦末期の1944年7月に建設が始まり、終戦間近の1945年に完成したそうです。
首都決戦が避けられなくなり、土壇場になって迎撃用に急造されたようです。
今年に暑い夏の週末を利用して痕跡を探してみました。
越谷市側(エリアの東側)は今のしらこばと水上公園やしらこばと運動公園や南荻島地区、さいたま市側(西側)は高曽根地区や末田地区です。
南北に約2km続く直線道路がありますが、これが滑走路だった場所です。
今はアスファルトで埋められ、両側に住宅や工場が建っていますが、当時、滑走路はもっと広かったはずです。
2kmの直線道路は、長いとは思いますが、決して珍しいとは思えません。そういう道もあるでしょう。
直線道路が先にあったのか、滑走路があったから直線道路になっているのかはわかりません。
ここは誘導路だった道です。緩やかなカーブが名残を伝えています。
滑走路の東側には、飛行場の遺構と思しき構造物が残っています。
さらに東側に行ってみます。
このコンクリート塊も飛行場施設の一部だったと思われますが、いったい何に利用されたのでしょうか?
階段があったので上ってみると、穴と溝がありました。この穴に柱を突き立てて、上に建屋が乗っかっていたのでしょうか。
ここから滑走路まで、約300メートルぐらいです。
コンクリートを支えるアンカーも覗いていました。
旧飛行場の境界だった用水路の脇には、年代を思わせるコンクリート片が転がっていました。
これも飛行場の一部だったのでしょう。
奥に写っている古いそうな橋も、飛行場建設に伴って建設されたものと思われます。
排水用の暗渠の跡もありました。
滑走路に水が溜まるのを防ぐ目的だったのでしょうか。
この飛行場は、記録によると何度か飛行機の離発着が行われたようですが、結局当初陸軍が思い描いたような役目を果たすことなく終戦を迎えます。
多くの資材や労力を投入しておきながら、結果的にはまったくの無駄に終わったわけです。
今さらこんなものを作っても無駄だ、もうこれ以上の抵抗は傷口を広げるだけだ、と主張する人はいなかったのでしょうか。皆が皆、神風が吹くことを期待していたのでしょうか。
いや、思っていても言えなかったのでしょうか。
田んぼの中に立ち、目を閉じて当時の様子を連想します。
国と国民が、かの戦争で失ったものの大きさを改めて感じた一日でした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます