研究仲間である東東京うさぎのモヒーさんが、また旅順の興味深い老建築を見つけてきてくれました。
9月の連休中に訪問したそうです。
旅順旧市街に残るレンガ造りの教会建築です。
僕も初見です。
場所は、黄河路と博愛街交差点の北西角の住宅街の中だそうです。
調べたところ、これは、旅順ルーテル教会礼拝堂だった建物です。
1934年に建てられたようです。
ファサードなどの装飾はない質素な作りですが、胴長ですから教会建築であることはすぐにわかります。
19世紀末から中国の華北や東北地域で宣教を進めていたデンマーク国教会が建設を主導したようです。
正面から少し奥まった場所に配置された左右の切妻が階段状になっていますが、この辺りは北欧やドイツ、オランダ建築の香りを感じさせます。
日本租借時代に建てられた大連のルーテル教会礼拝堂といえば、今も現役で活躍している北京街礼拝堂(1914年)が知られていますが、こちらはほぼ無名です。
モヒーさんによると、今は利用されておらず、廃墟になっているそうです。
モヒーさんからこの写真を貰ったあと、旅順旧市街出身の友人(1980年代後半生まれ)にこの教会のことを聞いてみました。
すると、友人は、この教会のことをよく知っていました。
中学時代の通学路にあったそうです。
友人が中学生だった約20年前、教会は現役で、信者による礼拝が行われていたそうです。友人の母校は大連市第55中学です。地図を確認すると、この教会のすぐ西側に当たります。
友人にこの教会に入ったことがあるか聞いてみましたが、一度もないといいます。
その理由を聞いたところ、「ちょっと怖かったから」といいます。
外も中も薄暗く、たまに赤い光が浮かんだり、普段聞いたことのない歌声が聞こえてきたりしたので、なかなか立ち入ることができなかったそうです。
友人は中学を卒業した後は近づいていないようなので、いつ頃教会としての役目を終えたのか不明ですが、少なくとも2000年前後までは使われていたことになります。
記録によると、この教会の建設の中心人物になったのは、賈恩高(1895-1983)という中国人牧師だったそうです。大連地区で最初の牧師とされています。
賈牧師は遼陽市で生まれ、丹東の中学を出て湖北省の神学校でプロテスタントを学び、卒業した1924年から旅順の教会で働いたそうです。
そして1930年代に入ると、当時の大連で最も収容力のあるこのルーテル教会の建築を指揮しました。
当時の写真が残っていました。
賈牧師は戦後もこの教会で牧師として働く傍ら、旅順口区の人大代表なども務めたようですが、文革で迫害に遭い、その後は青島に住まいを移したそうです。
その後88歳で亡くなるまで旅順に戻ることはなかったそうですが、1993年に遺灰が旅順に戻され、旅順四街道近くの教会墓地に埋葬されたそうです。
没後10年もの時間を経て遺灰が旅順に戻されたということは、どのような経緯があったのでしょうか。
いずれにしても、賈牧師が旅順に故郷として親しんでいたことは確かだと思います。
ルーテル教会礼拝堂旧址は、旅順口区の文物保護単位に指定されているようですから、解体されずに残っているものと思われます。
ごく普通の現代風の住宅街の中に忽然とこんな老建築が見えたら、驚くでしょうね。
文革の間も破壊を免れたのは、表通りではなく、住宅街の中に隠れるように潜んでいたからでしょうか。
教会の屋内は2階建てになっており、木製の屋根裏部屋があるそうです。
近代の中国とプロテスタントの歴史的な関わりを示す重要な遺構です。
願わくば、一度内部を見学してみたいものです。
モヒーさん、報告をありがとうございました。
9月の連休中に訪問したそうです。
旅順旧市街に残るレンガ造りの教会建築です。
僕も初見です。
場所は、黄河路と博愛街交差点の北西角の住宅街の中だそうです。
調べたところ、これは、旅順ルーテル教会礼拝堂だった建物です。
1934年に建てられたようです。
ファサードなどの装飾はない質素な作りですが、胴長ですから教会建築であることはすぐにわかります。
19世紀末から中国の華北や東北地域で宣教を進めていたデンマーク国教会が建設を主導したようです。
正面から少し奥まった場所に配置された左右の切妻が階段状になっていますが、この辺りは北欧やドイツ、オランダ建築の香りを感じさせます。
日本租借時代に建てられた大連のルーテル教会礼拝堂といえば、今も現役で活躍している北京街礼拝堂(1914年)が知られていますが、こちらはほぼ無名です。
モヒーさんによると、今は利用されておらず、廃墟になっているそうです。
モヒーさんからこの写真を貰ったあと、旅順旧市街出身の友人(1980年代後半生まれ)にこの教会のことを聞いてみました。
すると、友人は、この教会のことをよく知っていました。
中学時代の通学路にあったそうです。
友人が中学生だった約20年前、教会は現役で、信者による礼拝が行われていたそうです。友人の母校は大連市第55中学です。地図を確認すると、この教会のすぐ西側に当たります。
友人にこの教会に入ったことがあるか聞いてみましたが、一度もないといいます。
その理由を聞いたところ、「ちょっと怖かったから」といいます。
外も中も薄暗く、たまに赤い光が浮かんだり、普段聞いたことのない歌声が聞こえてきたりしたので、なかなか立ち入ることができなかったそうです。
友人は中学を卒業した後は近づいていないようなので、いつ頃教会としての役目を終えたのか不明ですが、少なくとも2000年前後までは使われていたことになります。
記録によると、この教会の建設の中心人物になったのは、賈恩高(1895-1983)という中国人牧師だったそうです。大連地区で最初の牧師とされています。
賈牧師は遼陽市で生まれ、丹東の中学を出て湖北省の神学校でプロテスタントを学び、卒業した1924年から旅順の教会で働いたそうです。
そして1930年代に入ると、当時の大連で最も収容力のあるこのルーテル教会の建築を指揮しました。
当時の写真が残っていました。
賈牧師は戦後もこの教会で牧師として働く傍ら、旅順口区の人大代表なども務めたようですが、文革で迫害に遭い、その後は青島に住まいを移したそうです。
その後88歳で亡くなるまで旅順に戻ることはなかったそうですが、1993年に遺灰が旅順に戻され、旅順四街道近くの教会墓地に埋葬されたそうです。
没後10年もの時間を経て遺灰が旅順に戻されたということは、どのような経緯があったのでしょうか。
いずれにしても、賈牧師が旅順に故郷として親しんでいたことは確かだと思います。
ルーテル教会礼拝堂旧址は、旅順口区の文物保護単位に指定されているようですから、解体されずに残っているものと思われます。
ごく普通の現代風の住宅街の中に忽然とこんな老建築が見えたら、驚くでしょうね。
文革の間も破壊を免れたのは、表通りではなく、住宅街の中に隠れるように潜んでいたからでしょうか。
教会の屋内は2階建てになっており、木製の屋根裏部屋があるそうです。
近代の中国とプロテスタントの歴史的な関わりを示す重要な遺構です。
願わくば、一度内部を見学してみたいものです。
モヒーさん、報告をありがとうございました。
こちらの施設は閉鎖され中には入れなかったものの老建築の良き雰囲気はしっかりと感じ取りました。
それにしてもここまで歴史が明らかになるとは思ってもいませんでした。
気になっていたので,小生としても感謝申し上げます。