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HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信しています

相生由太郎旧居 - 自分の名前を大連の街名にした人物

2016-02-16 | 大連を歩く
相生由太郎とは、日本租借時代に大連で活躍した実業家です。

福岡出身です。
文献によると、港湾の荷役業務を担った人物だったようです。

日露戦争後、日本は大連の租借権を獲得しますが、当時、大連港埠頭(2013年7月7日の日記)の荷役業務は混乱を極めており、建て直しが急務だったそうです。そこで相生に白羽の矢が立ちます。

1909年、相生は満鉄に入社し、大連満鉄埠頭事務所長(2015年5月12日の日記)として持ち前の人事管理能力を発揮し、それまで多くの業者の割拠状態であった大連埠頭の荷役業務を満鉄直営の一本化に成功しました。

その相生の住居が大連市内に残っています。
延安路と七七街の交差点付近です。


(立派な邸宅です)


(「たうんまっぷ大連」には、この建物は「相生御殿」と紹介されています)

相生が満鉄に入社して間もないころ、大連を訪問した夏目漱石は大連埠頭に相生を訪ねています。
当時、相生は碧山荘の建設の準備をしていました。

相生は、満鉄を辞めた後、福昌華工という会社を立ち上げて土木建築請負、レンガ製造販売、石材採掘販売、倉庫、貸家、貿易保険など幅広いビジネスを営みました。

この会社(福昌株式会社)は今も大阪で続いているそうです。
歴史のある会社ですね。


(裏側に回ってみました)


(こちらも裏側から。軒用とたて用の雨どいが残っています。日本人の建築である証拠です)


(これも同じく裏側から)

大連商業会議所会頭や大連市会官選議員などの要職も歴任したそうです。
在留邦人の氏神だった大連神社に対する高額奉納者でもあったようです。

相生が、当時の大連経済界の名士であったことがうかがえます。

相生にはもうひとつエピソードがあります。

日本租借時代、大連港埠頭沿いの野積地の一角に、「相生町」と呼ばれた町がありました。

当時の大連には、大山通りや児玉町、東郷町、乃木町、山縣通り、博文町など日露戦争の主役級の軍人や提督たちの名前から名付けられた町名はありましたが、一般人の名前が冠された町名は極めて珍しかったと思われます。

どれほどの実力者だったかが伝わってくるようです。
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3 コメント

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訪問記 (東東京うさぎのモヒー)
2019-11-24 21:48:18
2年程前に訪問してみました。こちらの写真の通り現存していまいた。廃墟ではなく,引越し?のようなことをしていました。住人と思しき人物と少し会話をしました。何を話したか忘れてしまいましたが・・・
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Unknown (ニコニコ)
2021-07-21 18:02:07
相生由太郎は私のひいひいおじいちゃんです。私のおじいちゃんもここに小さい頃までは住んでいました。私は今中国語を大学で勉強しています。早く大連の地へ行きたいです。このご時世のため大連へは行けませんがあなた様がこうして写真を撮ってくださったことで現在も祖先が大切にしてきた家を見ることができとても嬉しく思います。
返信する
Unknown (ぱおぱお)
2022-04-30 15:46:05
相生由太郎も私のひいひいおじいちゃんです。
いつかニコニコさんと会いたいですね!
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