前回に続き、旅順太陽溝の学生寮だった老建築をご紹介します。
今回の写真も友人のGから提供してもらいました。
文明街と民泰街が交差する高台の坂道です。
こちらも1904年以前のロシア時代に建設された洋館ですが、日本租借時代後期は「北冥寮」と呼ばれる旅順工科大学の独身寮として利用されました。
ここも廃墟です。
数年前に火事があったようで、生々しい焼け跡が残っています。
旅順工科大学は全寮制でした。
大学予科(今でいう大学教養課程)の3年間は興亜寮という学内の寮に全員を収容し、その後学生はこれらロシア時代の建物を改造した太陽溝の寮に分散しました。
この北冥寮は、収容人数10名程度の比較的小型の寮だったようです。
寮の運営は、寮生の完全な自治で行われていたそうです。
旅順工科大学は当時の三工大に数えられた一流大学ですから、ここで暮らした大学生たちは相当優秀だったと思われます。
学生たちは、卒業後、満鉄をはじめとした満洲企業で技術者として巣立っていきました。
空き家で、途中まで取り壊した跡がありますので、容易に屋内に入ることもできます。
当時の暮らしがリアルに伝わってきます。
ただし、風化が激しいので立ち入る際は十分な注意が必要です。
今回の写真も友人のGから提供してもらいました。
文明街と民泰街が交差する高台の坂道です。
こちらも1904年以前のロシア時代に建設された洋館ですが、日本租借時代後期は「北冥寮」と呼ばれる旅順工科大学の独身寮として利用されました。
ここも廃墟です。
数年前に火事があったようで、生々しい焼け跡が残っています。
旅順工科大学は全寮制でした。
大学予科(今でいう大学教養課程)の3年間は興亜寮という学内の寮に全員を収容し、その後学生はこれらロシア時代の建物を改造した太陽溝の寮に分散しました。
この北冥寮は、収容人数10名程度の比較的小型の寮だったようです。
寮の運営は、寮生の完全な自治で行われていたそうです。
旅順工科大学は当時の三工大に数えられた一流大学ですから、ここで暮らした大学生たちは相当優秀だったと思われます。
学生たちは、卒業後、満鉄をはじめとした満洲企業で技術者として巣立っていきました。
空き家で、途中まで取り壊した跡がありますので、容易に屋内に入ることもできます。
当時の暮らしがリアルに伝わってきます。
ただし、風化が激しいので立ち入る際は十分な注意が必要です。