HBD in Liaodong Peninsula

中国と日本のぶらぶら街歩き日記です。2024年5月からは東京から発信します

旅順師範学校学生寮「平洲塾」旧址

2019-03-05 | 旅順を歩く
旅順の太陽溝に残るロシア時代の老建築です。

 



なかなか風格のある2階建ての洋館ですが、今は誰も住んでおらず、廃墟になっています。このため、かなり風化が進んでいます。

この建物は、日本租借時代後期、「平洲塾」と呼ばれる旅順師範学校の学生寮として利用されました。

1936年に設立された旅順師範学校は、その翌年以降、これら太陽溝の北側の高台に散在していた頑丈なロシア時代の建物数軒を改装し、学生寮として利用しました。

本土や租借地から集まった学生たちは、この場所で集団生活し、教育者として育てられ、満洲各地に赴任していきました。

ここは太陽溝の北側の高台を東西に伸びる五四街の真ん中あたりですが、旅順師範学校の学生寮や教員住宅が集まる200メートルぐらいのエリアは、通称「師範村」と呼ばれていたそうです。

ちなみに、この平洲塾は1年生専用の寮だったそうです。

各地から集まった新入生が、ここで期待に胸を膨らませて新生活をスタートさせたのでしょう。

ここから師範学校までは、600メートルぐらいの距離です。

通学時間は、アカシアの茂る広く緩やかな坂道を下って10分程度でしょうか。

寮のことを「塾」と呼んでいたのは、師範学校ならではといったところでしょうか。

当時、師範学校の寮は、この平洲塾のほか、松陰塾、西山塾、素行塾、藤樹塾、南洲塾、益軒塾などと呼ばれた寮がありました。

これらのネーミングはすべて日本の教育界の先哲の雅号から取ったそうです。

偉人の教育精神に応え、日夜の研鑽を積んでほしいという思いが込められたのでしょう。

そうすると、平洲塾の名は誰から取ったのでしょうか。

これは、18世紀の学者・教育者だった細井平洲(1728-1801)だと思われます。



細井平洲は、現在の愛知県東海市出身で、当時の身分制度を越えて農民や町民にもわかりやすく学問を広げた人物として知られます。

調べてみたところ、平洲は今も東海市出身の偉人として扱われており、「へいしゅうくん」というキャラクターもあるようです。

師範学校の学生は入寮後、まずは塾名由来の偉人について、その生涯と業績について学んだそうです。

また、寮の自習室には塾名の偉人の立派な肖像と文献が掲げられ、日夜の自主発奮を促していたそうです。





つまり、この建物の中には細井平洲の肖像があったというわけです。

こんな古写真が残っています。

 

1942年に撮影された写真のようです。
手前が平洲塾、奥が東湖塾です。

寮生や教員たちは、毎朝、鐘の音で眼覚め、大正公園(後に関東神宮となる場所)に集まり、乾布摩擦ならぬタワシ摩擦で英気を養ったといいます。

この寒冷地にして、恐るべき健康法です。時代を偲ばせるエピソードです。

こんな写真も見つけました。


 
旅順師範学校のどこかの寮であることは間違いないのですが、平洲塾ではないかもしれません。

今回の写真は、友人のGが提供してくれました。

Gはこの日記にも何度か登場しますが、駐在中の街歩きに協力してくれた旅順をよく知る人物です。

このエリアは僕も数回歩いたのですが、この建物は撮影していませんでした。Gに感謝します。

太陽溝の老建築は、ひとつひとつが重点保護建築や文物保護単位の指定を受けているわけではないものの、行政がその価値を認め、200軒以上の歴史的建造物が保護されています。

100年の時を越えて当時の雰囲気をそのままに、さながら天井のない博物館のようです。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東京 九段会館 - 姿を消... | トップ | 旅順工科大学学生寮「北冥寮... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿