東京に帰ってきました。
毎日、電車を乗り継いで仕事に通っています。
約4年ぶりの東京勤務ですが、人間は慣れるもので、いつの間にか元の生活に戻りました。
さて、これまでご愛顧いただいてきたこの日記ですが、この先は東京での日本と大連/旅順との関わりを示すスポットをご紹介してみようと思います。
遼東半島から発信していた頃は2日に1本のペースでしたが、今後は不定期に、面白そうなスポットを見つけたときにご紹介します。
最初は、旧万世橋駅です。
万世橋駅は、1912年から1943年までの間、国鉄中央線の神田駅と御茶ノ水駅の間に存在した「幻の駅」です。
当時利用されていたレンガ造りの高架は、今も現役でJR中央線の往来を支えています。

万世橋からプラットホーム跡を臨みます。手前の川は神田川、奥のビルはJR神田万世橋ビルで、旧駅舎が建っていた場所です。

神田川の対岸から見てみます。万世橋の完成は「昭和5年」(1930年)とあります。
当時、この駅前広場には、かの旅順口閉塞作戦のエピソードで「軍神」として名を馳せた広瀬武夫の銅像が立っていました。

毎日、電車を乗り継いで仕事に通っています。
約4年ぶりの東京勤務ですが、人間は慣れるもので、いつの間にか元の生活に戻りました。
さて、これまでご愛顧いただいてきたこの日記ですが、この先は東京での日本と大連/旅順との関わりを示すスポットをご紹介してみようと思います。
遼東半島から発信していた頃は2日に1本のペースでしたが、今後は不定期に、面白そうなスポットを見つけたときにご紹介します。
最初は、旧万世橋駅です。
万世橋駅は、1912年から1943年までの間、国鉄中央線の神田駅と御茶ノ水駅の間に存在した「幻の駅」です。
当時利用されていたレンガ造りの高架は、今も現役でJR中央線の往来を支えています。

万世橋からプラットホーム跡を臨みます。手前の川は神田川、奥のビルはJR神田万世橋ビルで、旧駅舎が建っていた場所です。

神田川の対岸から見てみます。万世橋の完成は「昭和5年」(1930年)とあります。
当時、この駅前広場には、かの旅順口閉塞作戦のエピソードで「軍神」として名を馳せた広瀬武夫の銅像が立っていました。

当時の写真です。上が広瀬中佐、下は杉野兵曹です。右側の建物は初代の駅舎です。


これも当時の写真です。駅舎は関東大震災を受けて建て替えられた2代目です。
さて、「幻の駅」に残る「幻の銅像」の痕跡探しです。
何か手掛かりは残っているでしょうか?
当時、この辺りは東京でも1、2を争う交通量を誇る場所だったそうですから、この銅像は多くの市民の目に触れたはずです。
この銅像は、旧日本軍のイニシアチブによって広瀬中佐の功績を讃える目的で設置されました。
1910年のことです。
広瀬の戦死が1904年、日露戦争の終結が1905年ですから、その5年後ということになります。
国民の戦意高揚の狙いがあったのでしょう。
それにしても、広瀬中佐はこんな場所に大きな銅像が建てられたり、旅順口閉塞作戦での戦死エピソードが文部省の唱歌にもなったほどですから、当時の日本では相当に名高い人物であったことがわかります。
市民に親しまれた銅像は戦後の1947年に撤去されました。
この地に37年間、建っていたということになります。
現在、万世橋駅跡地にはJR神田万世橋ビル(2012年竣工)が建っています。
銅像があった場所はどうなっているでしょうか?

さて、「幻の駅」に残る「幻の銅像」の痕跡探しです。
何か手掛かりは残っているでしょうか?
当時、この辺りは東京でも1、2を争う交通量を誇る場所だったそうですから、この銅像は多くの市民の目に触れたはずです。
この銅像は、旧日本軍のイニシアチブによって広瀬中佐の功績を讃える目的で設置されました。
1910年のことです。
広瀬の戦死が1904年、日露戦争の終結が1905年ですから、その5年後ということになります。
国民の戦意高揚の狙いがあったのでしょう。
それにしても、広瀬中佐はこんな場所に大きな銅像が建てられたり、旅順口閉塞作戦での戦死エピソードが文部省の唱歌にもなったほどですから、当時の日本では相当に名高い人物であったことがわかります。
市民に親しまれた銅像は戦後の1947年に撤去されました。
この地に37年間、建っていたということになります。
現在、万世橋駅跡地にはJR神田万世橋ビル(2012年竣工)が建っています。
銅像があった場所はどうなっているでしょうか?

この一角が駅前広場だった場所です。
古写真を頼りに駅舎や銅像が建っていたと思われる場所を推定します。

古写真を頼りに駅舎や銅像が建っていたと思われる場所を推定します。

銅像があった場所には、こんな白いポールが立っていました。
レールのようです。


近づいてみます。
このレールは何を示しているのでしょうか? 旗を掲揚するためのものではないようです。周囲には説明書きなどは見当たりません。
ひょっとしたらこのレールは、銅像のあった位置を暗に次世代の我々に指し示しているのかもしれません。
戦意高揚の狙いがあったにせよ、広瀬の銅像は万世橋駅のシンボルであったことも事実です。
今も地権者であるJRがこの痕跡を後世に残そうと考えても不思議はありません。
とはいえ、撤去に至った経緯や国際情勢から考えると、JRとしても、
「ここにはかつて広瀬中佐の銅像が建っていました。我々はそれを記念してオブジェを建てました」
という具合に、堂々とは説明しにくいでしょう。
この仮説が合っているとすると、JRは実に粋な仕事をしています。
ちなみに、オブジェのすぐ近くには、万世橋駅の古い写真が掲示されています。

胸ぐらいまでの高さがある大型のものです。
説明書きはありませんが、この地のこれまでの歴史を示しています。
真ん中に注目してください。

広瀬中佐の銅像です。

このレールは何を示しているのでしょうか? 旗を掲揚するためのものではないようです。周囲には説明書きなどは見当たりません。
ひょっとしたらこのレールは、銅像のあった位置を暗に次世代の我々に指し示しているのかもしれません。
戦意高揚の狙いがあったにせよ、広瀬の銅像は万世橋駅のシンボルであったことも事実です。
今も地権者であるJRがこの痕跡を後世に残そうと考えても不思議はありません。
とはいえ、撤去に至った経緯や国際情勢から考えると、JRとしても、
「ここにはかつて広瀬中佐の銅像が建っていました。我々はそれを記念してオブジェを建てました」
という具合に、堂々とは説明しにくいでしょう。
この仮説が合っているとすると、JRは実に粋な仕事をしています。
ちなみに、オブジェのすぐ近くには、万世橋駅の古い写真が掲示されています。

胸ぐらいまでの高さがある大型のものです。
説明書きはありませんが、この地のこれまでの歴史を示しています。
真ん中に注目してください。

広瀬中佐の銅像です。

棒の脚元付近にはこんな表示があります。
旧万世橋駅の高架とホームは今も残っていて、「mAAch ecute(マーチエキュート) 神田万世橋」と呼ばれるおしゃれな商業施設として再利用されています。
静かに旅順と日本との関わりを示す遺構です。

旧万世橋駅の高架とホームは今も残っていて、「mAAch ecute(マーチエキュート) 神田万世橋」と呼ばれるおしゃれな商業施設として再利用されています。
静かに旅順と日本との関わりを示す遺構です。

ホームは当時のまま残っており、今はレトロ感のある商業施設として利用されています。


マーチエキュート万世橋の入口です。


開業当時の階段が残っています。




この白タイルも開業当時のものです。


長い時の流れを感じさせます。


こちらは1935年の階段です。


このあたりの神田川の景色は、歌川広重をはじめ江戸時代の浮世絵にもよく描かれた場所です。
開発区近海産の養殖になります(以前は山東省石島辺りの物もあったそうです)私は近年大連の仕事も無くなり随分ご無沙汰しておりますが中国産ワカメうを使って味噌汁を造り食べるといつも星海公園老虎湾の磯の香を感じております。
現在はフィリッピンにて永住してまして はや15年に成ります 日本の古い事は懐かしいです
広瀬大佐ロシア留学に際し、土産に切手をお願いした少年関重弘、そしてその約束を守った事、守ることは大切と修身の教科書に載っていた、を検索してたら貴誌が出てきました。
銅像の写真見る事が出来嬉しいです。いつの日か銅像復活、、、ないですよね、、、。
鬼畜米が憎い!!露死亜も!!
NHKのアーカイブスにある日本映画社・日本映画新社が製作した「日本ニュース」に、撤去の経緯と説明がありました。
「戦争をあおった銅像を追放しようと東京で審査委員会が開かれています。《審査委員会》「広瀬武夫および杉野孫七銅像を問題にいたします。読んでください。この銅像は、国民の戦意高揚を強調し、敵がい心をそそるものと考えられるから撤去する」広瀬中佐と杉野兵曹長は戦犯銅像と決定。近く姿を消すことになりました。上野の西郷さんは美術的価値ありとして合格しました。軍閥の代表、山県元帥や大山元帥は芸術的だというので目下慎重に審議中とのことです。」
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009181817_00000
GHQというよりソ連が日露戦争で活躍した戦艦三笠を撤去するように要請した際に、GHQのアメリカ側は拒否しているので、日露戦争以前は問題ないとしたのでしょう。日露戦争自体、イギリスやアメリカの代理戦争の意味合いや物資や戦費、仲裁もしていますから。
NHKのアーカイブスにある日本映画社・日本映画新社が製作した「日本ニュース」に、撤去の経緯と説明がありました。
「戦争をあおった銅像を追放しようと東京で審査委員会が開かれています。《審査委員会》「広瀬武夫および杉野孫七銅像を問題にいたします。読んでください。この銅像は、国民の戦意高揚を強調し、敵がい心をそそるものと考えられるから撤去する」広瀬中佐と杉野兵曹長は戦犯銅像と決定。近く姿を消すことになりました。上野の西郷さんは美術的価値ありとして合格しました。軍閥の代表、山県元帥や大山元帥は芸術的だというので目下慎重に審議中とのことです。」
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009181817_00000
GHQというよりソ連が日露戦争で活躍した戦艦三笠を撤去するように要請した際に、GHQのアメリカ側は拒否しているので、日露戦争以前は問題ないとしたのでしょう。日露戦争自体、イギリスやアメリカの代理戦争の意味合いや物資や戦費の援助や購入、仲裁もしていますから。
>広瀬中佐の銅像撤去は東京都の判断です。
アメリカやGHQは一切関与していませんよ。