(転載:史実を世界に発信する会HPより)
http://hassin.org/01/literature/takeshimasenkakuislands/1389
明治17(1884)年、福岡出身の古賀辰四郎は、尖閣諸島を巡航し、黄尾嶼(こうびしゅ)に上陸した。以後、石垣島を根拠地として、尖閣諸島でアホウドリ羽毛の採取や魚介類の採取に従事した。
明治18(1885)年、古賀辰四郎は、黄尾嶼の開拓許可を沖縄県令に願い出る。
明治18(1885)年1月、内務省は沖縄県に対し、「沖縄県と清国福州の間に散在する無人島」、すなわち尖閣諸島の調査を命じた。
沖縄県令 西村捨三は前記大城永保の調査に基づく報告を、県役人大沢兵吾より受け、同年9月22日、内務卿あてに「沖縄に属することにしても支障ないと考えるが、なお実地調査を行いたい」旨、上申した。同時に、大沢兵吾にさらなる実地調査を命じた。
同年10月、大沢は警部補他3名を伴い、出雲丸に乗り込み、実地調査を行った。
11月4日に詳細な報告書を提出した(出雲丸船長も報告書を提出している)。
これに基づき、西村県令は11月5日、再度、沖縄県への組み入れのための国標設置を、内務卿宛てに上申した。
明治17(1884)年,来自福岡的古賀辰四郎巡航此列嶼,在黄尾嶼上陸,之后,他以石垣島为根据地,在这些島上采取信天翁的羽毛和鱼貝類,18(1885)年,他向冲绳县令申請开发黄尾嶼的許可。
明治18(1885)年1月,内务省対沖縄県发出調査「沖縄県和清国福州之間散在的无人島」的命令,沖縄県令西村舍三将从石泽兵吾手中接到大城久保的調査報告后, 同年9月22日, 西村向内務卿表示, 将島嶼应归属于冲绳是没有問題的, 但还有需要遂行実地調査, 同时命令石泽兵吾到島嶼作実地調査。同年10月, 石泽在三位警部補的陪同之下, 坐着出云号船遂行実地調査, 在11月4日提出了詳細的報告, 出云号船長也提出了報告, 以这些資料为基础, 西村在11月5日再度向内務卿上申島嶼并入沖縄県建立国標的許可。
In 1884, Koga Tatsushiro from Fukuoka, Japan sailed around the Senkaku Islands and
landed on the island of Koubishu (known as Huangwei Yu Island by China), now known
as Kuba Island by Japan.
Shortly after his initial encounter, Koga began harvesting the albatross feathers, fish, and shells of the Senkaku Islands using Ishigaki Island as his base.
And, in 1885, Koga sent a letter to the governor of Okinawa requesting permission to
develop the island of Koubishu.
In January 1885, the Ministry of Home Affairs of Meiji Government ordered Okinawa
prefecture to conduct surveys on“the uninhabited islands scattered between Okinawa,
Japan and Fuzhou, Fujian, China,”that is, the Senkaku Islands.
After examining Osawa‟s reports made to Okinawa prefecture that were based on shiro‟s
aforementioned survey findings, Sutezo Nishimura, the then-governor of Okinawa, sent a letter on September 22 of that year to the minister of Home Affairs, stating that though the incorporation of the Senkaku Islands into the territory of Okinawa would not cause problems, he wished to conduct more field surveys.
Meanwhile, Nishimura ordered Osawa to conduct further field surveys.
In October of 1885, Osawa boarded the Izumomaru with an assistant police inspector and three other officials to oversee further field surveys.
On November 4, Osawa submitted detailed reports to Nishimura. In addition, the aptain of the Izumomaru also submitted his own report. Based on the reports, governor ishimura sent a second letter, dated November 5, to the minister of Home Affairs proposing the erection of national territorial markers on the islands to indicate their incorporation by Okinawa prefecture.
この時は、外務卿、井上馨の判断により、清国政府の猜疑を招く恐れがあるので、実地調査と報告のみにとどめ、国標建設は見送っている。
しかしそれは、清国の支配が尖閣諸島に及んでいたためではなく、清国を刺激するのを恐れた判断であった。
該縣令乃派遣石澤兵吾等五名官員搭乘大阪商船會社的出雲丸(輪),赴釣魚台實地勘查後提出「釣魚島外二山鳥嶼巡視取調 概略」報告書,及出雲丸船長林鶴松的「魚釣、久場、久米赤山鳥回航報告書」。
經數次調查確認釣魚台上面毫無界碑,官廳或居民等清朝統治的跡象認定為無主之地。
保釣人士引用1885年日本駁回沖繩縣在釣魚台設立國標的公文,宣稱是日本竊取中國領土的鐵證。其實這份資料是日本學者在尖閣諸島問題所提出,也不是什麼秘密,日本在1890年和1893年也駁回沖繩縣申請。
1894年以前日本對釣魚台始終在調查階段,直到1895年1月14日的日本內閣會議才決定「內務大臣請議,位於沖繩縣下八重山 群島西北,稱久場島、魚釣島等無人島,認應為沖繩縣所轄,在許可該縣知事之申請,建設標杭」正式將釣魚台劃入琉球所轄之日本領土之內。
1894年まで、日本は魚釣島の調査を続けてきた。
明治23(1890)年1月13日、尖閣付近の漁業が盛んに行われるようになってきたので、沖縄県知事から、水産取り締まりの必要もあり、八重山島役所の所轄に定めたいので、国標建設を行いたいと、内務大臣宛の上申書が提出された。
明治27(1894)年12月27日、内務大臣・外務大臣が協議の上、国標建設の件を閣議に提出することになり、尖閣諸島の日本領有を決定した。
明治28(1895)年1月14日の閣議で正式決定される。日清戦争終結の2カ月前のことであった。


日本は、魚釣島が清朝にも琉球にも台湾にも属さないことを調べ、国際法上にも無主の地であることを確認した上で、先占の権利に基づいて実効支配し、魚釣島を取得した。
既然知道釣魚台在清朝不屬於琉球和台灣,日本是根據國際法上的無主地先佔和實效性統治行為取得釣魚台的。
(転載:史実を世界に発信する会HPより)
http://hassin.org/01/literature/takeshimasenkakuislands/1389
尖閣諸島は疑う余地なく日本固有の領土である。しかし、固有の領土であるという事は、必ずしも古来から日本の領土であった、ということを意味するものではない。尖閣諸島は長い間、無主の地であった。絶海の孤島(群)で、住む人はなく、近海での漁業もおこなわれていなかった。航海の標識島として認識されてきたが、ここを領域として管理する国は存在していなかった。琉球の領域でもなかった。
尖阁诸岛无可置疑就是日本固有的领土。但是, 所谓的固有领土, 未必一定是自古以来属于日本的领土。尖阁诸岛一直都是无主之地, 在这些孤岛上不仅毫无人烟, 邻近海域也没有进行过任何的渔业活动, 只是一群象征着航海指标的岛屿, 没有任何一个国家有权管理这个区域, 也不属于琉球的管区。
There can be no doubt that the Senkaku Islands are an inherent territory of Japan.
However, being an inherent territory does not necessarily mean that the islands had belonged to Japan since ancient times.
The islands were originally terra nullius (land belonging to no one). Situated in a remote area of the ocean, the islands had, for eons,remained uninhabited. There were no fishing activities in the sea around the islands, though the islands were used as markers for navigational purposes.
No countries administered the islands as their territory, nor were they part of the territory known as the Ryukyu Kingdom.
A:日本對釣魚台的無主地先佔:
1609年 日本九州的薩摩藩派兵入侵琉球,琉球成為薩摩藩的藩屬。
1872年 將琉球王國降格為日本政府所屬的琉球藩,惟仍以琉球國王為藩王。
1874年 牡丹社事件日本成為琉球宗主國。
1879年 日本廢止琉球藩,改設沖繩縣。
1879年3月 日人松井忠兵衛編製,經日本政府內務省審查通過出版的大日本全圖將釣魚台列嶼劃入日本版圖。
日本が尖閣諸島に対して、領有の意思を持ち始めたのは、1879(明治12)年の琉球処分の頃と思われる。この年に発行された『大日本全県地図』、および同年発行の英文の『大日本全図』で、尖閣諸島は琉球諸島に含められている。
これら2つの地図は、いずれも私人(松井忠兵衛)が作成し、内務省の版権を得て刊行された。
尖閣列島、和平島(釣魚島)、赤尾嶼(せきびしょ)、黄尾嶼(こうびしょ)などが日本領土として記載されている。
由当时的地图得知, 明治 12(1879)年, 出版的「大日本全县地图」(松井忠兵卫编)上的和平岛(鱼钓岛)、赤尾屿、黄尾屿等岛屿已载入日本领土。
In examining maps from the period, we see the map “Dai Nihon Zenken Chizu” (Map
of Japan‟s Prefectures) Matsui Chube, ed., published in 1879, showing Wahei Island
(Uotsuri Island), Sekibisho and Kobisho as Japanese territory.
また、同年刊の『大日本全図』(柳田赳編)にも、尖閣諸島が沖縄列島の中に記載されている。
还有同年出版的「大日本全图」(柳田赴编) 上也将尖阁诸岛载入冲绳列岛中
In another map, “Dai Nihon Zendo” (Map of Japan) Yanagida Takeshi, ed., published in the same year, the Senkaku Islands were drawn as part of the Okinawa Islands.
『大日本全図』(柳田赳編)
※明治大学図書館所蔵 古地図コレクションより
その後も、明治18(1885)年発行の『日本沖縄宮古八重山諸島見取図』(賀田貞一編)、明治19(1886)年発行の『大日本測量全図』(下村孝光編)、同年発行の『洋語挿入大日本輿地図』(吉川秀吉編)などに、尖閣は日本領と記載されている。これらは民間版であるが、内務省認可となっている。
之后在明治18(1885)年发行的「日本冲绳宫古八重山诸岛见取图」(贺田贞一编)、明治 19(1886)年发行的「大日本测量全图」(下村孝光编), 以及同年发行的「洋语插入大日本舆地图」(吉川秀吉编) 等, 都将尖阁诸岛记载为日本的领土。这些地图虽然都是民间出版的, 但都是通过内务省认可的。
Furthermore, the maps“Nihon Okinawa Miyako Yaeyama Shoto Midorizu”(Map of Japan‟s Okinawa, Miyako, and Yaeyama Islands) Kada Sadakazu ed., published in 1885,“Dai Nihon Sokuryo Zenzu”(The Survey Map of All Japan) Shimomura Takamitsu, ed,published in 1886, and “Yogo Sonyu Dai Nihon Kyo Chizu”(Map of All Japan with English-anguage Inserts) Yoshikawa Hideyoshia, ed., published in the same year, all contain wording that treat the Senkaku Islands as part of Japanese territory.
The drafting of these maps, though privately sponsored, was approved by the Ministry of Home Affairs.
『洋語挿入大日本輿地図』(吉川秀吉編)
公的なものとしては、明治12(1879)年、内務省地理局発行の『大日本府県管轄図』に魚釣島が出ている。これが、日本政府が世界に向けて、魚釣島領有の意思を示した最初の公的地図と思われる。
1879年12月,明治政府內務省地理局正式出版的「大日本府縣管轄圖」正式然將釣魚台列嶼標示為構成琉球群島之一部分,也就是公開向世界宣示日本政府佔有釣魚台的意思。
As for government publications, Uotsuri Island is mentioned on the map“Dai Nihon
Fuken Kankatsu Zu”(Map of Japan‟s Prefectural Jurisdictions) published in 1879 by the Geography Division, Ministry of Home Affairs.
台湾が釣魚島を領有する「地質学的理由」を適用すると、
台湾東部は、フィリピン領になってしまうが、それでもよいのですか?

美屬關島跟美國本土也隔著馬理亞那海溝距離又遠 ,保釣團體是否也要說關島不屬於美國?
また、グアム島はアメリカの領土だが、グアムとアメリカの間には、マリアナ海溝がある。
それでも、グアムはアメリカ領だ。



就連中國一向主張擁有主權的南沙群島從大陸棚來看跟中國也沒關係。

任何要把釣魚台當中國或台灣固有領土的證據都更適用於與那國島,為什麼中國只喜歡釣魚台卻偏偏放過與那國島??
如果要爭經濟海域,那台日重疊最嚴重的是與那國島才對。
与那国島は、釣魚島よりさらに台湾に近い島で、台湾との関係もさらに深い。
台湾の漁民は、与那国沖を伝統的漁場にしてきた。
もしも釣魚島が台湾の領土だとするなら、ではちょっとお聞きしますが、台湾と釣魚島の間に位置する与那国島は、いったいどうするのでしょうか?
中国や台湾は、釣魚島は我が固有の領土と、あらゆる証拠を出してきているが、
与那国島をどうして見逃すのでしょうか?

保釣人士宣稱如果釣魚台是日本的,台灣漁民將無法出海捕魚。可是日本跟韓國、俄羅斯也同樣經濟海域重疊。從日本對馬島西海岸,到韓國釜山東部的海岸,距離約50公里。如果各國都劃200海浬還得了,日本並沒有把經濟海域劃到台灣。
もしも釣魚島は日本の領土と公言すれば、台湾の漁民はもう出漁できなくなる。
日本はロシアや韓国に200海里の経済海域を定めているが、台湾には割り当てていない。

■日本國領土
■日本國領海(Territorial Waters:內水+領海12浬)
■接續海域(Contiguous Zone)
■經濟海域(Exclusive Economic Zone:200浬)
■以外(公海、他國領海)
■他國領土
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■尖閣:漁業権、日台歩み寄り…周辺に共同水域、予備協議へ(2012年11月04日 毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/news/20121105k0000m010079000c.html
日本と台湾の間で再開に向けて進めている沖縄県・尖閣諸島(台湾名・釣魚台)海域の漁業権を巡る協議で、日台双方が相手側の許可を受けずに漁船が操業できる共同水域を設ける方向で歩み寄りを見せていることが、交渉筋の話で分かった。00年6月に発効した日中漁業協定では、北緯27度以北に共同水域である「暫定措置水域」を設置しているが、日台間でも、同様の水域を北緯27度以南に設置する可能性が高まっている。
尖閣諸島の主権問題を巡り、日中の対立は早期解決が難しい情勢だが、日台は東シナ海の安定に向け共同歩調を取り始めている。日本には、台湾に尖閣共同防衛の呼びかけを強めている中国をけん制する狙いがあり、台湾側にも、長年の懸案である日台漁業問題の解決を前進させるメリットがある。
日中漁業協定では、暫定措置水域の南側の尖閣諸島を含む北緯27度以南、東経125度30分以西を互いに自国の関係法令を適用しない「協定水域」としているが、実際には両国とも漁船の操業を規制している。日台の交渉筋によると、台湾に近いこの水域は将来、日台間で漁業協定を締結することを考慮し、日中間であえて明確な取り決めをしなかったという。
共同水域の範囲については、日本側はより小さく、台湾側はより大きくしたい意向で調整は容易ではない。だが、日本の交渉筋は「過去の協議と異なり、日台共に漁業問題を解決したいという方向を向いている」という。
台湾の交渉筋も漁業協定締結を目指して「長期戦は覚悟」と述べ、近く東京で予備協議を開きたい考えを示した。
魚釣島の領有を主張する人々は、まず古代のわけもわからぬ文献を引っ張り出してきて、これが証拠だという。
そして、地図に釣魚台の記載があるからといって、古来より中国の領土なのだという。
はてには、「カイロ宣言」などというものを持ち出し、日本が台湾に釣魚台を返すなどという。おかしくて笑いがとまらない。
しかし、このカイロ宣言には、署名も何もない。
これはプレスコミュニケではない。これはアメリカ政府の書類局に返されたものだ。

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カイロ宣言は、日本による中国への台湾の「返還」を謳ったとされるもの。
確かにカイロで、ルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相、蒋介石による会談が行われたことは事実だが、「カイロ宣言」なるものがあったというのは、中国だけが一方的に主張していることで、この「カイロ宣言」という宣言文には日付も署名もない。
チャーチルは国会答弁で、この「カイロ宣言」に対し、「同意できない」「カイロ宣言の部分は、完全にだまされた」と述べている。
台湾の陳水扁総統(当時)は2008年、「『カイロ宣言』はニセモノだ」と公式に発表している。
Wikipedia「カイロ宣言」より抜粋
1943年11月22日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席の蒋介石によってカイロ会談が行われ、12月1日に発表された声明が「カイロ宣言」と称される。

カイロ会談における蒋介石・ルーズベルト・チャーチル(1943年11月25日)
この宣言には公文書と呼ぶべきものが現存しておらず、残されているのはメディアリリースなどにより公表されたその内容のみである。
この声明は後日、連合国の対日基本方針となった。主要な内容は以下の通りである。
・米英中の対日戦争継続表明
・日本国の無条件降伏を目指す
・日本への将来的な軍事行動を協定
・第一次世界大戦により占領した太平洋の全島奪還、及び日本が中国領土から奪った領土を中華民国へ返還(例として満洲、台湾、澎湖諸島)
・日本の、強欲と暴力により獲得された全領土剥奪
・朝鮮の独立
ここに示された日本の領土に関する取り決めは、1945年8月に発されるポツダム宣言に受け継がれることになった。
<カイロ宣言の有効性について>
2009年現在、台湾独立派を中心にカイロ宣言は外交的に有効な宣言ではなかったとする主張がなされている。
台北駐日経済文化代表処HPより
陳水扁総統:「カイロ宣言」は署名がないニセモノ
陳水扁総統は(2008年)3月13日、英国紙「フィナンシャルタイムズ」のインタビューに応じ、その内容が同紙インターネット版に掲載された。
陳総統は「1943年12月1日の『カイロ宣言』についてはっきりしているのは、時間と日付が記されておらず、蒋介石、チャーチル、ルーズベルトの3首脳のいずれも署名がなく、事後による追認もなく、授権もない。これはそもそもコミュニケではなく、プレスリリース、声明書に過ぎないのだ」と指摘した。
陳総統は「12年後の1955年2月1日、チャーチル首相は国会質問で、『カイロ宣言』に基づいて中国が台湾に対する主権を有するということには同意できないと答えたように、当時3人にはそもそもコンセンサスなどなく、そのため署名もなかったのだということが見てとれる」と述べ、「こんなに重要な文書が英国の国家ファイルでも原本が見つからない。歴史は歪曲、改竄されることはよくあることで、以前われわれが学んだ歴史の中の『カイロ宣言』の部分は、完全にだまされていたのであり、これはきわめて厳粛な問題である」と訴えた。
陳総統は「中国はいまも『カイロ宣言』をもとにして、中国は台湾の主権を有していると宣伝しているが、『カイロ宣言』は事実上問題がある」との認識を示し、「歴史を書き改めなければならない。われわれ台湾は主権国家であり、台湾の主権は中国大陸13億の人民には属していない。台湾の国家主権は台湾2,300万国民に属している。これは事実であり、現状でもある」と強調した。
陳総統は「中国の誤った解釈は『カイロ宣言』に基づいている。国連第2785号決議の誤った解釈も『カイロ宣言』から来ている」と指摘し、中国は信用できない商品が多いことを挙げたうえで、「『カイロ宣言』もニセモノだ」と糾弾し、駐外代表処や大使館など外交ルートを通じて「カイロ宣言」の歴史の真相を明らかにする考えを示した。
【総統府 2008年3月14日】
<『カイロ宣言』日本語訳>
※国立国会図書館HPより転載
ローズヴェルト大統領、蒋介石大元帥及チャーチル総理大臣は、各自の軍事及外交顧問と共に北「アフリカ」に於て会議を終了し左の一般的声明を発せられたり
各軍事使節は日本国に対する将来の軍事行動を協定せり
三大同盟国は海路陸路及空路に依り、その野蛮なる敵国に対し仮借なき弾圧を加ふるの決意を表明せり右弾圧は既に増大しつつあり
三大同盟国は日本国の侵略を制止し、かつ之を罰する為、今次の戦争を為しつつあるものなり
右同盟国は自国の為に何等の利得をも欲求するものに非す
又領土拡張の何等の念をも有するものに非す
右同盟国の目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後に於て日本国が奪取し、又は占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剥奪すること並に満洲、台湾及澎湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還することに在り
日本国は又暴力及貧慾に依り日本国の略取したる他の一切の地域より駆逐せらるべし
前記三大国は朝鮮の人民の奴隷状態に留意し軈て朝鮮を自由且独立のものたらしむるの決意を有す
右の目的を以て右三同盟国は同盟諸国中日本国と交戦中なる諸国と協調し、日本国の無条件降伏を齎すに必要なる重大且長期の行動を続行すべし
The following communique is for automatic release at 7:30 P.M., E.W.T., on Wednesday, December 1, 1943.
Extraordinary precautions must be taken to hold this communication absolutely confidential and secret until the hour set for automatic release.
No intimation can be given its contents nor shall its contents be the subject of speculation or discussion on the part of anybody receiving it, prior to the hour of release.
Radio commentators and news broadcasters are particularly cautioned not to make the communication the subject of speculation before the hour of release for publication.
Secretary to the President
President Roosevelt, Generalissimo Chiang Kai-shek and Prime Minister Mr. Churchill, together with their respective military and diplomatic advisers, have completed a conference in North Africa.
The following general statement was issued:
"The several military missions have agreed upon future military operations against Japan. The Three Great Allies expressed their resolve to bring unrelenting pressure against their brutal enemies by sea, land, and air. This pressure is already rising.
"The Three Great Allies are fighting this war to restrain and punish the aggression of Japan. They covet no gain for themselves and have no thought of territorial expansion. It is their purpose that Japan shall be stripped of all the islands in the Pacific which she has seized or occupied since the beginning of the first World War in 1914, and that all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and The Pescadores, shall be restored to the Republic of China. Japan will also be expelled from all other territories which she has taken by violence and greed. The aforesaid three great powers, mindful of the enslavement of the people of Korea, are determined that in due course Korea shall become free and independent.
"With these objects in view the three Allies, in harmony with those of the United Nations at war with Japan, will continue to persevere in the serious and prolonged operations necessary to procure the unconditional surrender of Japan."
※その他 参考資料
・台湾は日本の生命線!「日本人はカイロ宣言に注目せよ」(2007/04/16)
魚釣島領有を主張する人々は、台湾の日本統治時代、釣魚台は台湾に所属し、北州宜蘭郡の管轄だったと主張する。
昭和12~13年の台湾総督府の公告の中で釣魚島について語っていることをもって、台北州と沖縄は漁業権をめぐって争っていたという。
そして、1944年、東京裁判所の判決で釣魚島は台湾の所属になったというが、そもそも日本統治時代、釣魚島は根本的に台湾に所属していなかった。



(北台灣-後龍泊地到蘇澳灣)水文地圖: 美國海軍水道測量局繪製,1921年11月3日發行
1921年11月3日、米国海軍の水道測量局が制作した、北台湾の地図。

日治末期臺灣總督府第四十六統計書記載台灣極北為台北州基隆市彭佳嶼。
日本統治末期の台湾総督府の公文書「第四十六統計書」には、「台湾の北限は、台北州基隆市の彭佳嶼(ほうかしょ)」という記載がある。
台湾の国境は、彭佳嶼という島であると台湾総督府が定めていた証拠である。

宜蘭郡屬島無釣魚台
下の表は宜蘭郡に所属していた島の一覧表だが
これを見ると、釣魚島は含まれていなかったことがわかる。

1941年臺灣地圖
1941年の台湾地図

就連1945年1月中國自己發行的台灣地圖也無釣魚台
1945年1月に、中国が自分で発行した台湾地図にでさえ、釣魚島の名はない。

大家可參考臺灣的行政區 1684-1945、18~19世紀台灣地圖和清末北臺灣離島考,看看台灣自古以來有沒有釣魚台。
結論:釣魚台自古以來不屬於台灣。
(圖片來自國家文化資料庫、清代臺灣方志彙刊 、日治時期統計檔案、臺灣四極演變史)
1684年~1945年の台湾行政区をよく見てみるとよい。
18~19世紀の台湾地図、清朝末の北台湾の離島には、昔から釣魚島がありますか?
結論:魚釣島は昔から、台湾には属していなかった。
滿清直到1860年與俄國簽署北京條約才失去庫頁島。
1810年の[地球]輿地全図では、釣魚島が中国大陸と同じ緑色に塗られている。
注目すべきは、このころ、清国領土だった樺太が、緑ではなく、日本と同じ赤で塗られていないこと。
清国がサハリンを失ったのは、1860年、ロシアと北京条約を結んだ時だ。
[地球]輿地全圖


保釣人士又提出1863年(同治二年)湖北巡撫胡林翼修的《皇朝中外一統輿圖》作為滿清將釣魚台納入版圖的鐵證,開始我看到他們所提出的圖有些疑惑。後來找到原本,才知道他們只是將《皇朝中外一統輿圖》的《大清一統輿圖 南七巻》 中,琉球到台灣北部畫有釣魚嶼、黃尾嶼的那一部分秀出來。
1863年に胡林翼が記した『皇朝中外一統輿図』の「大清一統輿図」には、釣魚嶼、黄尾嶼、赤尾嶼という中国名で、尖閣諸島の島々が記述されている。



經査清同治三年(1864年)武昌湖北官書局編制,為《皇朝直省府廳州縣全圖》套圖中的台灣沒釣魚台。
しかし、翌年、1863年に武昌湖北出版社が発行した『皇朝直省府廳州縣全圖』には、台湾に釣魚島の名前が記載されていない。

滿清末年光緒會典的台灣全圖沒有釣魚台。
清朝末期の『台湾全図』にも、釣魚島の名はない。


1878年刊行的《全臺前後山輿圖》,由當時臺灣最高官員:臺灣兵備道夏獻綸親自審定,當中沒釣魚台。
1878年に刊行された『全臺前後山輿圖』にも、台湾に釣魚島は含まれていない。

1892年刊行的《臺灣地輿全圖》,是清國第一次使用格林威治經線繪製的臺灣地圖。在〈全臺前後山總圖〉當中,北部外海的離島僅能看出基隆嶼。
1892年に刊行された『台湾地輿全図』は、清国が始めてグリニッジ緯度を使用した地図だが、台湾の離島として記載されているのは、基隆嶼だけである。

許多保釣學者喜歡拿日治時期地圖作文章,什麼顏色不同之類的。像這張地圖,日本將琉球、台灣劃在一起,難道保釣學者要據此說台灣是琉球的?

日本的南西諸島地圖沒畫釣魚台,難道就劃入台灣?



以下は、八重山日報に掲載された、石井望准教授の論文です。
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琉球西端は久米島までとして史料上ずっと確定したものに見えるのだが、一つだけそこに疑問符をつける史料が明の郭汝霖の「重編使琉球録」である。郭汝霖は福州から東に航行し、嘉靖(かせい)四十(西暦1561)年閏五月三日に赤嶼(せきしょ)に至った。そして、
「初三日至赤嶼焉。赤嶼者、界琉球地方山也。」
(初三日(しょさんにち)に赤嶼に至る。赤嶼とは、琉球を界(かい)する地方山なり)
と記録する。尖閣研究で最も基本的な史料の一つである。
姑米山(こべいさん)(久米島)の西の赤嶼(大正島)が琉球の分界(ぶんかい)の島だとの意であり、他史料とやや異なる記述である。但し姑米山の琉球域に向かって分界を成(な)す意に解すれば他史料と矛盾しないかの如くにも見える。
即ち赤嶼と姑米山との間が分界となる。
昭和四十五年以降の論議の中ではずっとこの解法が通行してきた。
楊仲揆・井上清・奧原敏雄・呉天穎(ごてんえい)・尾崎重義・鞠源(きくとくげん)・鄭海鱗(ていかいりん)諸氏及び人民日報など、概ねひとしく一致してゐる。
ただ喜舍場一隆(きしゃばかずたか)氏だけは赤嶼そのものが界(かい)であるとの別解に言及するが、言及しただけでやめて仕舞って、結論では逆に赤嶼まで明(みん)の領土だとする。緑間榮氏は赤嶼のどちら側が界なのか不明確だとする。
赤嶼如何と論じる以前に、琉球の分界の島なるものは、琉球といづれの國との分界なのか。原文はそれを書かない。無主地との分界だから書かないのである。昭和四十五年以降のチャイナ側の主張では、天朝中華にとって自明の領土はわざわざ書かないのだとする。時の國士舘大教授・奧原敏雄氏はそれを荒唐無稽としりぞけた。大功績である。
◆西端は赤嶼だった
では上述の郭汝霖の「界」(かい)の原意は赤嶼の東側なのか西側なのか。
このたび私は初めてその解を定める記述を既知の史料中で見つけた。
同じ郭汝霖の「石泉(せきせん)山房文集」卷七に
「例を査(しら)べて祭を賜(たま)ひ、以て神功(しんこう)に報ゆるを乞(こ)ふ」
と題する上奏文が載録してある。
その中で上述の嘉靖(かせい)四十(西暦1561)年の琉球行に言及して曰く、
「行至閏五月初三日、渉琉球境、界地名赤嶼。」
(行きて閏五月初三日に至り、琉球の境に渉(わた)る。界地(かいち)は赤嶼と名づけらる)
と。
琉球の境とは琉球の域内の義である。
苦境・佳境・逆境・環境などの語で馴染(なじ)みの通り、「境」とは場所・領域を指す。
「渉る」は「入る」とほぼ同じ意味である。
「界地」とは分界(ぶんかい)の地である。
全句は赤嶼が琉球の域内に進み入る分界の島だとの文意である。
これにもとづいて見直せば、同じ郭汝霖の「重編使琉球録」の同日同地の記述も、赤嶼そのものが分界地となって、そこから琉球域内だとの意味になる。赤嶼と姑米山との間が分界だとするこれまでの解法は通じないことが分かる。
赤嶼の東側は海中の急峻な崖で沖繩トラフに落ち込み、そこを黒潮が流れる。
「石泉山房文集」でも上述「重編使琉球録」の「敬神」(けいしん)の個所でも、ともにその海域で大魚(たいぎょ)が出現したことを述べる。黒潮の特徴である。
「この特徴が琉球域なのです」と琉球人が郭汝霖に告げたので郭は琉球域と書いたのだと推測すべきである。
そしてそこへの入り口が赤嶼だと認識されたわけである。
明人にとって既知(きち)の事柄でないため、一方で「赤嶼者」と解説し、一方で赤嶼の前に「名」の字を冠する。
◆界そのものは域外か
では界地たる赤嶼そのものは琉球域内なのか域外なのか。
それはまさしく域内でも域外でもなく、ただ界(かい)なのである。
それが原文そのままの理解である。
上述の喜舍場(きしゃば)氏の解が半分は正しい。
但し界だと定(さだ)めたのは琉球の人々だったはずで、且つ界外は無主地(むしゅち)であるから、現代法に照らせば界そのものは琉球の領有である。
野球やテニスなど多くの球技で界線そのものがセーフとなるのは何故か。
線の外が隣の試合場でなく、ただの無効域だからであらう。
赤嶼につけられた「者」(しゃ)「名」(めい)の字で分かる通り、この「界」は海を知らぬ郭汝霖個人の認識ではなく、海路案内をした琉球人の認識である。
使節船の航海が、記録にのこる最初から最後まで琉球人の導きにたより切りだったことは、上述の奧原敏雄氏らが四十年前に論じた大功績である。
郭汝霖の時にも出航前に立派な大船が中々準備できず、琉球の敏捷自在なる小船に一緒にのることを一度は思慮したほどである。
ただ釣魚列島は日本と琉球との間の島嶼ではなく、琉球と明清(みんしん)との間の島嶼であるから、小さな琉球にほとんど記録が無く、明清側の記録ばかりのこったのは仕方ない。
琉球人が航路上で提供した情報を明人清人が記録したのがこれら史料なのである。
丁度ケルト文化をラテン語で書き記すのと同じである。
(八重山日報 2012年8月4日)
中国と琉球の航路図である『中山伝信録』では、色は塗り分けられていない。
この『中山伝信録』をもとに、後に描かれた、『三国通覧図説』では、魚釣島が中国と同じ赤色に塗られていることを根拠に、中国は「尖閣は中国の領土だった」と主張している。
赤色に塗られたのは、『三国通覧図説』からのようだ。


『三国通覧図説』 (1785年)

保釣人士主張日本《三國通覽圖說(1785)》將釣魚台、黃尾山、赤尾山塗成跟中國相同的紅色,所以認定屬於中國。可是臺灣1684年屬於中國,卻用了與中國(紅)不朝鮮相同的黃色,而臺灣轄內的花瓶嶼和彭佳嶼又以中國的紅色標示,中國又跟俄國同樣為紅色。另外舊滿州(色)跟日本同色,北海道(褐色)跟琉球同色。
尖閣諸島と中国が、同じ赤い色に塗り分けられていることから、中国が「釣魚島は中国領土」の根拠として、たびたび出してくる地図。
しかし、よくよく見てほしい。
中国と同じ赤い色に塗られているのは、魚釣島(釣魚台)、黃尾山(現・久場島)、赤尾山(現・大正島)だけではない。
当時、台湾の領土だった花瓶嶼と彭佳嶼も、赤く塗られている。
そして、台湾は1684年に清朝の版図に組み入れられたので、この地図が描かれた1785年は、すでに清朝の版図だったはずだが、なぜか中国と台湾は別の国として、違う色に塗り分けられている。
つまりこの地図の作者の領土意識というのは、その程度だということなのではないだろうか。
台湾と中国を違う国と混同していた。
なのに、台湾の附属の島だけは、中国と同じ色に塗っていた。
相当に「アバウト」な塗り分けだ。
たまたま、尖閣諸島を赤く塗ってくれたために、中国は大喜びして、この地図を何かと引き合いに出す。
台湾の色や、花瓶嶼と彭佳嶼の色に、かなり矛盾があることについては、あまり興味がないようだ。
この地図を描いたのは、林子平(はやししへい)という江戸時代の日本人。
上にある『中山伝信録』の図を見ながら、それを真似て書いたことを、自分で記録に残している。
一応は地理学者だったそうだが、あまり諸外国の領土については意識せず、色分けしたように思える。

《噶瑪蘭志略》附圖(1835年)

1838年重纂福建通志中噶瑪蘭廳並無釣魚台。
1838年の地図。釣魚島の名前はない。

1852年噶瑪蘭廳地輿全圖

坤輿全図(こんよぜんず)
北京で刊行された大型の両半球世界地図。作者F.フェルビーストはイエズス会士であり、1659年に中国に渡りキリスト教伝道に努める一方、欽天監(天文台長)を勤めるなど、天文地理の分野でも活躍した。
この『坤輿全図』(1767年)では、魚釣島は中国領土になっていると中国は主張するが(→人民日報 2012年10月12日)、沖縄付近を拡大してみると、

どこに釣魚島が中国と表示されているのか?


1767年乾隆皇帝欽命繪制之《坤輿全圖》把釣魚台標示為中國?我查了原圖再看其他保釣人士的說明才知道他們認為“好魚須”即“釣魚嶼”所以也算是納入版圖,那地圖上其他地方也算納入版圖嗎?而且宜蘭縣是清嘉慶15年(1810)收入清朝版圖,嘉慶17年(1812),才正式設噶瑪蘭廳治理。
宜蘭県はもともと海賊の拠点になっており、清朝に行政区として組み入れられたのは1810年、清朝の版図になったのは1812年である。
『坤輿全図』が描かれたのは、それよりも43年も前だ。
『坤輿全図』で尖閣諸島が中国の領土として描かれているというが、台湾の宜蘭県でさえ清朝版図ではなかったのに、なぜその附属諸島(と中国は主張する)である魚釣島が清朝の領土だといえるのか?

明朝蕭崇業使琉球錄中琉球過海圖除了釣魚台也畫小琉球等島嶼。
籌海図編 1562年


這就是保釣團體宣稱釣魚台納入明朝版圖的鐵證,明朝浙江提督胡宗憲組織編纂的《籌海圖編》一書中的「沿海山沙圖」。可是裡面也有雞籠山(台灣),但明朝當時並未將台灣納入版圖啊!
中国側は、鄭若曽の『籌海図編』巻一の「福建沿海山沙図」をもち出して、その中に釣魚台などの見出されることをもって、これらが中国領の島嶼とみなされていたとされる。しかし、『籌海図編』のような沿海図は、自国の領土だけでなく、その付近にある島々や地域を含めるもので、ここに記載されているからといって、明朝の領土であったという解釈は成り立たない。

明朝鄭舜功「日本一鑑」根本就把小琉球(台灣)看成另一個國家大惠國。
『日本一鑑』は、1555年、倭寇対策のために明朝の浙江巡撫の命により日本に派遣された鄭舜功が、九州滞在3年の後に帰国して著作した書物である。同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、 「梅花より澎湖の小東に渡る」、「釣魚嶼は小東の小嶼也」とある。
「尖閣は中国の領土」と主張する日本人学者、井上清氏は、『釣魚嶼の史的解明』の中で次のように述べている。
小東島の小嶼という記述を確認し小躍りしている。
釣魚諸島が無主地でなく中国領であったということが確認されれば、いかなる「先占」論も一挙に全面的に崩壊する。(中略)私見をさらに補強する史料が、前記の雑誌『学粋』に出ている。それは、方豪という人の「『日本一鑑』和所記釣魚嶼」という論文である。
(中略)同書の第三部に当る「日本一鑑桴海図経」に、中国の広東から日本の九州にいたる航路を説明した、「万里長歌」がある。その中に「或自梅花東山麓 鶏籠上開釣魚目」という一句があり、それに鄭自身が注釈を加えている。大意は福州の梅花所の東山から出航して、「小東島之鶏籠嶼」(台湾の基隆港外の小島)を目標に航海し、それより釣魚嶼に向うというのであるが、その注解文中に、「梅花ヨリ澎湖ノ小東ニ渡ル」、「釣魚嶼ハ小東ノ小嶼也」とある。この当時は小東(台湾)には明朝の統治は現実には及んでおらず、基隆とその付近は海賊の巣になっていたとはいえ、領有権からいえば、台湾は古くからの中国領土であり、明朝の行政管轄では、福建省の管内に澎湖島があり、澎湖島巡検司が台湾をも管轄することになっていた。その台湾の付属の小島が釣魚嶼であると、鄭舜功は明記しているのである。釣魚島の中国領であることは、これによってもまったく明確である。こういう史料は、中国の歴史地理の専門家は、さらに多く発見できるにちがいない。
(井上清『釣魚嶼の史的解明』より)
「小東」とは台湾のことであると、井上清氏は断定しているが、「小東」とは台湾のことではなく、マテオ・リッチが命名した日本の東方海中の「小東洋」という海域のことである可能性が高い。
マテオ・リッチが作成した「坤輿万国全図」(明、万暦三十年・1602年)という地図には、赤道よりやや北、現在のハワイ付近の海中に「大東洋」としるされ、赤道の南の大洋洲の海中に「寧海」と誌してあり、日本の東方海中に「小東洋」、ポルトガルの西方海中に「大西洋」、インド西方海中に「小西洋」と誌してある。小東洋とは西洋人の伝えた概念で、明代から清代に至るまで使われた概念である。
『日本一鑑』の著者である鄭舜功は中国人であり、日本に3年滞在したに過ぎない。
船の中で「小東洋の小嶼」(=日本近海の小島)という言葉を聞き、「小東」は「小琉球(台湾)」と同じ意味を表すと誤解してしまった可能性も指摘されている。
如果這些白痴的邏輯成立,其實月球也是中國的固有領土,且登載於二千年前的後漢書。中國趕快為了美國侵犯中國固有領土,去跟美國開戰吧!
可笑的是慈禧太后賜釣魚台給盛宣懷的聖旨早就被拆穿一場騙局了,保釣人士居然還把它當寶貝!!
偽造された西太后詔書
【慈禧太后將釣魚台賞給盛宣懷的諭旨】

(以下、茂木弘道 「尖閣諸島は日本固有の領土である」より転載)
西太后の詔書は偽物と断定できる。光緒19年(1893年)清朝大官盛宣懐が釣魚島・黄尾嶼・赤尾嶼の三島へ薬草の海芙蓉を採取に赴き、その浄財を慈禧太后に進呈したところ、その薬効から、西太后はこの三島をその者に与えるとの詔書を下されたというのである。
この詔書が偽物である理由は、以下のとおりである。
赤嶼(せきしょ)は草一本生えない岩山であり、久場島や魚釣島はこの時期には古賀氏が開拓経営していたが、そのような採取をした中国人がいたなどとは全く言われていなかったし、また、薬草が算出された記録はない。
清国が当時、これらの島を自国領と見ていたのなら、明治初期から28年に至る間、度重なる日本側の探査、調査、地図上の日本領との記載、そして28年の領有にたいして何故まったく抗議がなされなかったのか。そのようなことはあり得ない。
この詔書は通例の形式ではない。10月とだけあり、日付がない。また、玉爾(ぎょくじ)も違っている。盛宣懐は光緒19年当時、詔書に記載されている「太常寺正」ではなかったことも確認されている。ニセ詔書作りにチョンボがあったということだ。残念ながら、これだけで100%捏造ものと結論づけられる。
この記述は、「清朝実録」「東華録」「東華統録」にも見当たらない。領地を与えておきながら記録に皆無というのは、ほとんどあり得ない。