雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

あり得ないことを自分がしてしまうこと

2021年01月25日 | エッセイ
 
 65歳になった。
 身体のさまざまな機能が衰えてきている。65年間。休みなく働き続けて来ているのだから当然のことである。
 例えば、車も長く乗っていると、当然あちこち不都合が生じてくる。
 ほとんどの車が24時間動き続けることはない一方で、人の多くの臓器が母親の胎内にいる時から動き続けているのだ。
 それを考え出すと、我が胸に手を当て「ありがとう。すまんすまん」と、一時も休まず鼓動を続ける心臓に感謝の思いを強くするのである。これからはせいぜい自分の身体のメンテナンスに努め、点検をし、油を差し、大切に使い続けていきたい。
 身体の不都合を数え出したら、気持ちが沈んでしまうので、この歳でまだ大きな持病もなく、基本的に健康であることを両親に感謝し喜ぶとしよう。
 とは言え、身体のさまざまな機能、とりわけ頭脳の衰えには、我ながら情け無いと同時にあきれてしまうことも多い。
 ほんの十数年前、まだ現役で働いていた頃は、銀行や郵便局、買い物などの複雑な複数の用事をメモなくこなせていたものだが、今はただ一つの用事でさえ、階段を上り下りしただけで忘れてしまうことが少なくない。
 最近、経験して恐ろしくなって気が滅入ってしまうことがあった。
 それは通い慣れた近所の道をうっかり間違ってしまったことだ。
 もちろん道がわからなくなる程の重症ではなく、どの道を通って目的地へ向かうかのルートの選択の間違いだ。この時間ならこちらの経路が空いているとか、一方通行などの時間規制があるとかが頭に入って自然に最良の選択を行っていた。それらのことを運転しながら瞬時に判断していたのだが、「なんでこっちにきてしまった」と自分で悪態を吐きたくなるミスが数度あった。
 高齢の運転手によるブレーキとアクセルを踏み間違いや逆走などのニュースを見て、数年前なら自分には有り得ないことと思っていたが、程度の差はあるものの、運転中の判断ミスという点では、今はもう私にも有り得ないことではないなと思うのである。だからと言って今すぐに運転免許証を返上することは、不可能なので、運転中は運転に集中(今までも当然のことだが)することをさらに意識して運転をしたいと思う。鉄道の列車の運転手が「信号良し!」とか口に出して指差し確認することを、実行したりしている。
 これも「衰え」の現れなのかわからないが、元々口下手の私なのだが、言い間違いや単語がスムーズに口から出て来ないことが多くなった。
 先日は就寝しようと二階の寝室に上がる前に、家人に「おやすみ」というつもりが「いってきます」と言ってしまった。
 すぐに言い間違いに気がついて笑い転げた。
 家人は平然と、いや、なぜか嬉しげに「いってらっしゃい」と即座に返事した。
 私の歳になると、就寝してそのまま命の終焉を迎えても不思議はない。
 家を出かける時の「行ってきます」ではなく就寝前の「行ってきます」は、あの世に旅立つ「逝ってきます」ともとれるではないか。
 家人の反応はもちろん冗談で夜中に夫婦でお腹を抱えて笑いあった話だったが、少しブラックジョーク!?

(2021.1.25)

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