雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

お正月

2011年12月30日 | ポエム



 お正月
 他県で働いている娘が大晦日の夕方早い時間に帰って来て、久しぶりに家族そろっての夕食。
 シャンパン(正確にはスパークリングワインでシャンパンではない)で1年の無事を祝い、白ワイン、赤ワインと飲んだ。
 家族全員が寝不足で、お酒を飲んで紅白歌合戦を見るうちに居眠り。大晦日も時は流れ、紅白もおしまい。一瞬の居眠りで、出場者の中で一番楽しみにしていた平原綾香を聞き逃してしまった。ゆく年来る年が始まる。我が家は、小さな時から年越しの間に蕎麦を食べる。そして、家族で新年を祝い、初詣に。思ったほど寒くなかった。
 今年はどんな年になるだろう。世の中も、自分自身も様々な困難があるに違いない。
 50歳を越した頃から、まず老眼が始まった。強度の近視なので、メガネ2本を持ち歩く。さらに昨年の健診で緑内障の疑いがあり、予防治療と経過観察中である。幼いころより虫歯一つ無かった歯も、歯槽膿漏と言われ、それも末期症状である。その上、我が人生、何をそんなに食いしばることがあったのか、歯の1本が真ん中で裂けてしまい、部分入れ歯となった。
 容姿の上で、もっとも老化が目立つのが頭髪。
 「結婚したときには髪が薄かった」と母が言う、若ハゲの父親を持ち乍ら、よくぞこの年まで保ったものだと感謝している。自身はもう諦めているが、家人がはげますではなかった、気にして買って来た育毛剤や育毛シャンプーを言われるままに使っている。髪が薄くなって行くのは避けようがないが、進み方は遅くなったようだ。
 以前は、朝起きてから、また寝る前に、女性は身支度が大変なあと思っていたが、今や自分も、朝夕育毛剤をふりかけマッサージをし、部分入れ歯をつけたり、外したり、目薬の投与も欠かせず、身支度が大変忙しい。 
 一番の老化は記憶力。本屋で一度買って読んだ本をまた買って来たことも数度ある。唖然。我ながら情けない。記憶の退化はひどい。日々の行動にも、記憶力の低下の影響は裂けられない。一度にたくさんの用事を作ると、必ず一つくらい忘れてしまう。メモが必需品となった。忘れるはずがないと思っていたことも、最近はメモをする。用事も愚鈍なようだが、一つ一つ片付けるようにしている。
 そんな状態で、これが年をとることかと暗澹な気持ちになったこともあったが、最近は、そしてこれからも、あれも悪い、これも悪いと数え上げるのではなく、出来ることの方を喜ぶ様にしている。
 来月の末には、ブログ開設1周年を迎える。
 今年の目標は、ブログの投稿を続けることと、添付する写真にも説明を加えたりしたいと考えている。そして昨年久しぶりに2編の新作の詩を作ることが出来たが、今年もそれ以上に多くの詩を作れたらと願っている。
 若い頃のように、再び毎日、必ず空を見上げ、雲を見る様になった。
 その度に流れる雲の早さに、雲の色に、何かしら心動かされている自分に気付く。
 身体はあちこちいたんで来たが、56年も使い続けて来たのだから当然のことだ。むしろ心の若さを喜びたい。
(2012.1.6)
 






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年の瀬に

2011年12月30日 | ポエム


 年の瀬に

 もちろん、語り尽くせない思いが多過ぎて、2011年を語ることが出来ないでいる。
 最近は、1年があまりにあっという間に過ぎて、子ども時代の4分の1程度に感じていた。
 そんな感想を近くのお年寄りに話をすると、「60歳、70歳、80歳ともっともっと速くなるよ」と言われた。これ以上速くなるなんて、いったいどうなるんだろう。
 でも昨夜、お風呂で湯船に浸かり乍ら考えてみると、今年は1年がここ数年の感じからすると、少しだけ長かったような気がする。それだけ、いろんなことをいっぱい考えたせいかもしれない。理由の一つに個人のこのブログを開設したこともあると思う。
 ここ、数年の目標だったブログの開設を果たした。本当は、仕事先のブログを開設することが本来の目的であるが、忙しいという思いに流されて、なかなか手がつけられないでいた。そこで、今年の2月。まず個人のブログを作ることにした。個人の分なら自分の責任で作ればよいから気が楽である。ブログの内容も若い頃に作った、ほとんど未発表の詩を載せることにした。2月の末のある日、gooブログの解説を見て、とにかく指示どおりに初めてのブログを作った。
 長い間、ボール箱にしまった手作りの10数冊の詩集がある。煙に代わって何が出て来るかわからないが、玉手箱の様だと思った。
 僕は少年の頃に、空にあこがれ、白い雲に自分の理想の人間像をみていた。それで、ブログの名前を「雲のたまてばこ」とした。
 「のぞいてくれる人なんかないよね」と思っていたら、自分でも驚くほどの方が見てくれて、大げさではなく震える様な喜びを感じた。年内で訪問者が7000人近く、閲覧数は9000人を越している。この数字がブログとしてはどうなのか、分からないが、自分自身は驚きかつ喜びを感じている。
 とにかく、最初週に一度くらいは、投稿したいと思った。まずは投稿すること、そのものが目的となった。
 次に、玉手箱の詩だけではなく、伝えたいと思うエッセイを付け加えた。
 それから、自分で撮影した写真も毎回載せるようになった。
 このブログをどのように位置づけ、どのような物を発表して行くか、まだ整理がつかないし、方向性も見えない。何が生まれるのかも分からない。とにかく今の形で、投稿を続けて行きたいと思っている。ただし、玉手箱の中の詩には限りがあることだけは確かだ。
 ブログを開設して、コメントをいただいたことがない。
 1度コメントの表示があり、喜んで大急ぎで開いたら、ブログ文中の耳鳴りに反応した解消法の本の案内だった。心優しい読者の方がおられたら、感想などをお聞かせ願いたい。特に若い人がどう感じたかを知りたいと思っています。もちろん、同年代や先輩のコメントも大歓迎です。
 ブログ、開設の収穫の一つは、何十年ぶりかに新作の詩が作れたこと。
 ある日、突然、言葉が浮かんで来ました。5月23日の「蝸牛」、そして今日の「みぞれ」の2作だ。
 空もまたよく眺めるようになった。ふと眺めた空に、毎日のように感動している。そんな自分に、ワーズワースの『虹』という詩をあらためてプレゼントしたい。
 大震災のことと親友の死をテーマに、今年中に詩を作りたいと思ったけど、まだ言葉が詩へと昇華出来ないでいる。
 佳い新年をお迎えください。日々、当たり前に生活出来ることを感謝する年の瀬に。
(2011.12.30)

 
 

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聖夜

2011年12月25日 | ポエム


 聖夜


 クリスマスと聞いただけで、心の中が暖かくなってくるのは、幸せな家庭で育ち、クリスマスに幸福な思い出がいっぱいある証だろう。
 56歳になった今でも、通勤時の車の中で、12月にはクリスマスのアルバムを聞いて楽しんでいる。
 サンタクロースの秘密を知ったのは何歳の頃だったろうか?
 年々サンタクロースへの疑問が増えて来る一方で、プレゼントをいただく立場としては、いつまでも秘密は秘密のままであって欲しいと願っていたような気もする。それも両親のおかげだと言える。
 母親はオーブンの無い我が家で(どの家庭にも無かった)、ダッチオーブンに似たフタ付きの厚い鍋で、スポンジケーキを作り、これまた手作りのバタークリームで大きなクリスマスケーキを作ってくれた。僕の生まれ育った町は、その頃お肉屋さんも無い田舎だったが、熊本市内に数件あったケーキ屋にさえ生クリームのケーキは売っていない時代である。ツリーは近所の山から切り出した樅の木ならぬ松の木で、僕たち兄弟で一生懸命に飾り付けをした。ツリーの飾りも多分父が遠くの街で求めてきたものだったのだろう。
 あの頃の僕の一番大きな疑問は、サンタさんは煙突から家に入るというのに、我が家にはもちろん暖炉は無く、風呂炊き用の細い煙突しか無かったことだ。とてもおデブのサンタさんが中に入れるとは思えない。今年こそはサンタさんに会うのだとイブの夜は布団の中で眠るまいとするのだが、気がつくと朝になり、枕元にはプレゼントが置いてあった。
 昔は余程のことがないと隣近所も含めて夜の間も戸締まり等しなかったので、我が街に来たサンタさんは、危うい思いをしながら高い屋根や煙突に登らずとも、縁側の障子をヒョイと開けて容易に枕元に達したのだろうと、この疑問も敢えて追求することは無かった。
 サンタクロースと同様に、幼い頃、月にはウサギが住んでいてモチをついているのだと思って、モチ好きの僕は憧れていた時がある。
 さすがに、月のウサギは、サンタさんよりも早く謎が解明するのだが、小さい子どもに、ある程度の年齢までそんなことを信じさせる、ある意味で夢のようなものがあった。
 真実を知ること、科学を否定するつもりはないが、現在の子ども達に、僕たち大人は、そんな幸せな夢を見させてあげられてるんだろうか?
 メリー・クリスマス!
(2011.12.25)






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死のうと思った65分間

2011年12月19日 | ポエム


 死のうと思った65分間


 父が亡くなり、実家にある仏壇に手を合わせ、ほぼ毎日線香をあげるようになった。
 誰も見ていないし、頼まれた訳ではない。ほんの数分の時間だが、一日の中ではいい時間だと感じている。
 ご先祖さまに父方・母方、両方の祖父、祖母、父、義父、おじおば、近しい親戚、そして友人(今日の詩「天国への階段」と去年発表した「蝸牛』を捧げた友人も含めて)。小さい頃、仏壇の内側にいる人は会ったことのない人ばかりだったけど、だんだん知り合いが増えてきた。最初は毎日お茶とご飯をあげていたけれど、今はお米を炊いたときだけ、炊きたてのご飯をお供えする。僕の常食は、白いご飯ではなく、半分は麦の雑穀ご飯なので、ご先祖様は「白いご飯が食べたい」と思っているかもしれない。タケノコ、そら豆、グリーンピース、トウモロコシ、おもち、ぜんざい。他のご先祖様の好みは知らないので、父が旬や初物や歳時の食べ物の中で、喜んで食べていた好物を、その季節や期日がくると、買い物をする店先で思い出して、料理して(あるいは家人に頼んで料理してもらい)お供えしている。別の病気で入院中の病院で、脳梗塞になる数時間前に飲みたいと言ったというビールは、瓶ビールを開けたときにコップに1杯お供えする。それらのお供えはもちろん、その後ほとんどは現実には僕のお腹の中に入っている。
 人間誰しも3日後には、白い骨になってしまうかもしれない、と言われることが現実味を帯びるようになった。だからと言って、もう自分の人生の終末が近いとは思っていない。そりゃあ二十歳の頃に較べたら、死は間違いなく近づいていることを感じるけど、まだまだやりたいことがいっぱいあるし、人生元気で楽しみたい。
 今までで一番、死に近かったのは、高校生の時代だろう。一学年下のガールフレンドの影響で、死の世界にあこがれてしまった。純粋、純潔、無垢、白、無。それらが僕らの中で、死の世界とイコールになった。生きて行くことは、自分の中の白い世界がどんどん汚れて行くことだと。
 現実には、僕は精神も肉体もめちゃくちゃ健康だった。
 朝昼晩の3食では足りず、昼休みが待てず早弁を食べ、放課後にはパンやラーメンを部室で食べていた。大好きなカレーの夕食は、大盛り3杯でやっと満足した。可愛い女の子がいればドキドキしたし、雑誌のヌード写真も当然興味深かった。
 そんなふうに、どうしようもなく汚れて行く自分を自覚する一方で、僕とガールフレンドの白い死の世界へのあこがれは益々強くなって行く。
 高校2年のある日の休み時間に、トイレに行くと、自殺した女生徒に関する男子生徒の会話が僕の耳に入った来た。瞬間、僕はそのガールフレンドの話に違いないと思った。彼女の死の世界へのあこがれが、自殺願望へとあきらかに変わってきたことを、数日前に僕は感じたばかりだった。
 次の授業は、世界史だった。生徒と教師のやりとりはほとんどなく、教師が一方的に教科書にそった講義をするだけのつまらない授業。教科書を楯に、文庫本を読んだり、居眠りをする生徒も多かった。その日の世界史の65分間の授業で、僕は自分も後追い自殺をすることを決心し、段取りを考えた。彼女が死んでしまった悲しさと祖母や両親の顔が浮かんできて、涙がぽろぽろと流れ落ちて来ることを止めることが出来なかった。生徒に干渉しない先生の授業で幸いだった。自死の方法と場所も決まった。まずは、次の休み時間に図書室に走り、トイレの会話で記事が出ていたという新聞を見ることにした。
 震える手で新聞を開くと、数行の小さな記事は、大学1年の女学生の自殺のことだった。
 もしそれが、ガールフレンドの死を示す記事だったら、それから僕はどうしたんだろう。本当に、実行したんだろうか。
 それが今までで一番、死に近づいた65分間のお話。
(2012.1.27)
 
 
 













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年賀状と私

2011年12月19日 | ポエム



 年賀状と私

 今年の年賀状は、父の喪中だったので出していない。
 2年ぶりの年賀状を今、書いている。
 年賀はがきが売り出されたニュースを見て、「今年こそは、早めに書き始めて投函するもんね」と、毎年思う。
 「去年までのワタクシとは違うのよ」などと当初はうそぶいているが、結局、年賀状の受付が開始されました、というニュースを見て、そろそろ書かないとヤバいな書き始める今日この頃。
 いつになったら1枚1枚に心を込めて受付開始日には投函出来る様な、余裕のある人生になるんでしょうか?生涯無理の様な気もします。余裕のせいではなく、ワタクシ自身の性格の問題です。
 私の友人に、年賀状の投函が大晦日までに終わらず、年賀状を書き乍ら年を越し、元日の早朝に1件1件知り合いの家の郵便受けに、こっそり配達して回るという人がいた。家を知らない人や、県外の人宛の年賀状はどうしているのか、疑問に思ったが詳細は聞かなかった。私の場合、何とか元日配達の締め切り日には書き終えているので、そこまではヒドくない。
 私の年賀状は、シリーズになっていて、現在は干支と我が家の愛犬をからめた絵柄に干支にちなんだ言葉を添えている。未年から始まり、今年は欠番となったが10年目である。干支と犬をどう絡めるか、1年間、頭が空いた時間にアイデアをひねる。例えば、申年にはサルと肩を寄せ合った愛犬の図柄に「犬猿の仲良し」という言葉。亥年には、走る猪と愛犬の図柄に「ちょっと猛進」。寅年は食い意地の張った愛犬の顔に「寅の胃を借る」と、いう具合。作り上げたばかりの来年の辰年の年賀状は、秘密です。
 かなりアイデアに苦しんだ年もあれば、数年前からデザインまでほとんど決まっていたものもある。今年は、アイデアが浮かばずに困ってしまい、イマイチの出来だ。いろんな年賀状があるが、元日から「クス」っと、笑っていただけるような年賀状を目指している。
 10年前までの12年間(つまり十二支をひとまわり)した前シリーズは、私と二人の子どもの合作だった。
 絵を描くことが好きな長女が干支のイラストを描き、長男には西暦とA HAPPY NEW YEAR!の文字を書いてもらう。落書きのような、たくさんの絵と文字の中から私が選んで、絵と文字をレイアウトしたものだ。単にそれだけだが、これは今見ても楽しい年賀状になった。私のパリ時代に知り合った佐賀県の有田の磁器会社の作家で重役の方と毎年年賀状を交わしている。世界中の著名な方とお知り合いで、陶芸作家を含め、芸術家の方々からそれこそたくさんの年賀状をもらわれる方に届いた年賀状ベスト10に、我が家の年賀状は常連だったようだ。その方の年賀状も額に入れたい程素敵です。
 父からの最後の年賀状は、平成20年のものだ。いつも父が毛筆で手書きしたものを私が簡易印刷機で250枚程印刷していた。
 「まだまだ元気で頑張るつもりだ‥‥」と手書きで書き加えられている。その年の秋に脳梗塞で倒れた。年が明けたらすぐ、父の3回忌となる。(2011.12.21)
 
 


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