雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

ポルターガイストだあ

2013年04月27日 | エッセイ

▲庭のブルーベリーに今年も愛らしい花がたくさん咲いた。

ポルターガイストだあ

 ある朝10時前後だったと記憶しているが、仕事中に用事で父の家にいる時に突然ガタガタガタと家中の窓が音をたてて振動した。
 最初は地震かと思った。地震であるならば、天井からぶら下がっている電燈のスイッチのヒモが振り子のように揺れているはずだ。だが直後にも関わらず全く揺れていないので「地震ではない」と判断した。次に風が強いのかと思い急いで玄関から外に出てみたが、風もほとんど無風状態だった。
 では家中から確かに聞こえた「ガタガタ」は、何が原因で起きたのか。
 私はそこでごく自然に、1年あまり前に亡くなった父に関係していると思った。そしてそれをうれしくさえ感じた。以前も霊感について、このブログに書いたことがある。私は自分自身の霊感が強いとは思っていないが、全く無いとも思わない。ほとんどの心霊現象や超常現象は、化学で説明ができるものと思っているが、絶対に無いとも思わない。実は、父が2010年の1月に他界して以来、父の家に一人で寝起していると、よく物音がする。ふだんはテレビの音があるから気がつかないのか、夜中寝ている時に気がつくことが多い。
 そんなことをまわりの人に冗談っぽく話しをすると「怖くないですか」と聞かれることもある。だが私は少しも怖いと思ったことはない。むしろ、音がする度に父の存在を感じてうれしく思っていた。
 そう。それらの物音は父が立てているのではないか。
 具体的には「ゴトン」という大きな音や「のしのし」と二階を歩くような音が聞こえるのだ。正直、私もその音の原因が父であると確信している訳ではない。「そうだったらいいな」と思っているのだ。そして音自体も曖昧で「空耳」と言われたら、それを否定できない。
 ところが、その日の朝の「ガタガタ」は、はっきりと聞こえた。
 地震ではない、風でもないと確認した後で、「これはポルターガイストだあ」と私は思った。そしてそれでも怖さより「父の霊が音を立てていることがはっきりした」と、とてもうれしくなった。
 ロシアで巨大な隕石が落下し、その衝撃波で約4500棟の建物の窓ガラスが割れ、1500人近くの人がケガをしたニュースは、雲をたなびきながら落下する様子や爆発の際の閃光などの多くの映像と共に記憶に新しいところである。特に爆発の瞬間は、カラーの風景が一瞬不気味に白く変色し、原爆の爆発の瞬間を連想した人も多いだろう。想像を絶するエネルギーであったことは間違いない。
 私がポルターガイストだと信じたその朝の現象は、その日の夕方のニュースを見ていて超常現象ではなく、自然現象であることがあっさりとわかった。
 それは2011年の1月に大噴火した鹿児島県の新燃岳(しんもえだけ)の一連の噴火による「空振(くうしん)」と呼ばれる現象が原因だった。ロシアのチェリャビンスク隕石が多くの建物のガラスを割った衝撃波と同じ現象だ。その日は、遠く離れた佐賀市をはじめ九州各地で空振が報告されたことをニュースが伝えていた。関係機関にも一般市民から「地震ではないのか」という問い合わせが相次いだそうだ。私の場合、思い当たる伏があったので、父と関係づけてそれを信じてしまったが、ほとんどの市民は「???」と思ったはずである。
 これが科学の発達していない時代であるならば、陰陽師かなんかが「悪い予兆である」とか言って大騒ぎとなり、祈祷をしていたかもしれない。あっ、その前に、その時代には空振で割れたり音を出す窓ガラスが無かったか。
 ここ数年、当然のことであるが父が生前懇意にしていた方の訃報が次々と届く。先週もそんな方のお一人が亡くなり、葬儀に参列した。
 「お父さんがこん頃は、いっちょん夢に出てこらっさん」と、父の知人から最近聞いた。そう言えば、私も父の夢を以前程見なくなったし、このところ家の中の不思議な音も聞こえなくなった。
 父もこの世よりあちら側がますますにぎやかになって、楽しくなったのかと、勝手に都合のいい解釈をしている。(2013.4.30) 
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親切か、おせっかいか~鉄道車内の案内放送考

2013年04月23日 | ポエム

▲画図湖の水面に映る青空と雲

親切か、おせっかいか~鉄道車内の案内放送考

 作家の椎名誠さんは、エッセイの中でJR九州の車内案内はうるさいと書かれていたが、確かにJR九州の都市間を走る特急では、親切過ぎる程の内容の放送がある。さらに英語、中国語、韓国語の案内もある。
 まず出発前と主要駅では、列車の行き先から編成の説明、途中停車駅と到着時刻の案内がある。停車駅が近づく度に、「まもなく○○駅に到着します」との案内がある。ゆっくりした女性の声のテープでの放送が終わると、車掌の生の車内放送で乗り換えや到着ホーム、進行方向の左右どちらのドアが開くか出口の案内もある。それらの放送が停車駅の度にくり返される。その上に車内販売の案内もあったりしてオススメのお土産の紹介まである。停車駅の多い昨今の特急においては、確かにこれでは耳が休まる間がない。
 これらの案内はJR九州だけではなく、日本中の鉄道において程度の差こそあれ、ほぼ同様だろう。指定席に乗っていると、指定を取っていないおばさんのグループが検札に来た車掌に自由席に移るように言われて「早く言ってよ」と文句を言う場面を見たことがあるが、ホームで、発車前の車内の案内で、また発車後の案内と「何度も言っとるやんけ」言いたくなる。
 一方、私が20代の頃にリュックを背負って旅した1970年代後半のヨーロッパの鉄道では、車内放送はほとんど無かった。現在でもそうなのかは知らない。列車は機関車牽引の客車なので、もともとモーター音は無く、駅に停車中は無音である。そして時間がくれば、発車のベルもなく「ガタン」と静かに動き始める。大人だなあ。これなら椎名さんも文句があるまい。私は「ユーレールパス」という1等に2ヶ月間乗り放題の鉄道パスを日本で買ってきており、可能な限り夜行列車を利用することで、ホテル代を浮かせた。
 当時のヨーロッパの国際列車が厄介なのは、眠っている間の途中駅で列車の編成を切り離したり付け加えたりすることで、自分の乗る車両の行き先を車両ごとの表示でしっかり確認しておかないと、朝起きたら目的と違う国に着いてしまったということも起こりうるのである。
 その上に車内放送が一切なく、「まもなく○○駅に到着します」さえも知らせてくれない。もっとも放送があったとしても私の語学力ではまず聞き取れなかったとは思うが。だから持参したトーマスクックの英語の時刻表で降りる駅の到着時刻を調べておき、その時刻が近づくと車窓を通過する駅名表示をチェックするようにしていた。たいていは大きな都市が目的地であることが多いかったので、駅名をチェックするまでもなく車窓の風景を見て、目的の駅が近いことを知ることが出来た。ただもう一つ厄介なことは、日本でもそうだが、大きな駅の近辺には、例えば熊本駅に上熊本駅と南熊本駅があるように、都市名に東西南北の付いた駅と中央駅などがあることだった。
 初めてヨーロッパの列車に乗った翌朝に、そろそろフランスとスペインの国境の乗り換え駅に着く頃だと緊張しているうちに列車が停車し、駅名表示に目的の町の名の綴りを見つけて「ここだ」と降りた。ところが、降りる乗客が少なく、雰囲気があまりにさみしい感じだったので「違う」と思って、再び列車に飛び乗った。動き出した列車から駅名表示をよく見たら、北か南か東か西かわからないが、少し駅名が違っていた。その後しばらくして、降りるべき国境の駅に着いたのだが、第六感が働いて助かった。
 これが一人旅なら自分だけの失敗で済むことだが、旅行会社に勤めていた私の知り合いが若い頃、十数名の高校生を率いて同じような経験をした話を聞いたことがある。ふと停まっている列車の窓から駅名を見て「降りろー」と、大慌てで列車を降りて駅名をよく確認したら目的駅と違っていたのだ。再び大騒ぎで「乗れー」と車内に戻り皆でほっとしてしたら、同行の高校生の一人が「どうしたの」と何事も無くトイレから席に戻って来たそうだ。もしその駅が降りるべき駅だったら、彼がトイレから戻ったとき、席にはツアーの同行者の影も形も無くなっていたのだと想像すると、それも何だか恐ろしい。(2013.4.23)
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粗相をする

2013年04月16日 | ポエム

▲春の空はすかっと晴れることが少ない。


 粗相をする

 先日勤務先でもある実家で、一人で夕食を作って食べ(半分単身赴任状態)、片付けを終えた後で、食後の紅茶をいれた。コタツに入りテレビを見ながら、紅茶を一口飲んでテーブルに戻したマグカップが倒れ、私の身体に向かってたっぷりの紅茶がこぼれてきた。
 いれたての熱々の紅茶だ。
 一瞬何が起こったのか分からなかったが、すぐに危険を察してコタツにすっぽりと入れていた身体を起こしコタツから抜け出した。その時はすでに熱い紅茶がコタツカバーとコタツ布団を通して、さらに私のズボンと下着まで濡らし始めていた。大事なところをヤケドしたら一大事と素早くその場でズボンとパンツを脱いだので、幸いヤケドとかの大事には至らず、恥ずかしい思いをすることもなかった。
 「はあー、良かった」と、一人心から安堵した。
 3年前に他界した父は、私と歳が33年離れていた。父が現在の私の歳のときに、私は24歳だったことになる。
 父は家での食事中やレストランなどで、水やビールの入ったグラスなどを倒すことがよくあった。口に出して非難することは無かったが、内心「がさつだなあ」「どじだなあ」と当時の私が冷ややかな目で見ていたことは確かだ。
 亡くなる前は、同様の粗相がますます増えた。
 父が80歳を過ぎてからは、粗相も「歳を考えたら当然で仕方の無いものだ」と思えるようになった。私の頭の中で、父の粗相の原因は、性格によるものから高齢による機能の低下に変わったのである。
 実は何を隠そう、私自身ここ数年前から粗相の数が増えてきたような気がする。父と同じように、食事の際にグラスを倒してしまうことも多い。
 私は若干の視野狭窄がある。それは2年前の健診の中にセットされていた眼圧検査で指摘されたもので、実際の生活に支障が生じることはない。初期の緑内障という診断で念のために目薬を1日1回点眼し、定期的に検査と診察を受けている。幸い発見が早かったので、今のところ進行の兆しも無いようだ。しかし、今回のように、何かと何かの間の目測を誤る。グラスに手が当たって倒す。箸で摘んだ食べ物をこぼす。後片付けの途中で皿を割ってしまう。これらの粗相の回数はあきらかに増えているし、以前なら考えられない失敗であることが多い。
 思いたくはないが、これは視野狭窄を含めた身体的な機能低下が原因で、つまりは老化現象の現れなのだ。だから性格が原因だと思っていた今の私と同じ歳の頃の父の粗相も、もしかしたら老化現象の始まりだったのかもしれない。直接非難していた訳ではないが、父に対し「悪かったな」と思うこの頃である。
(2013.4.12)
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きなモンときな子

2013年04月12日 | ポエム

▲今年の春は甲子園にも黄色い菜の花が咲いた。(JRみすみあまくさ線・網田駅の側の畑)

 きなモンときな子

 第85回全国高校野球選抜大会。私の母黌、熊本県立済々黌高校は、秋の九州大会準優勝の成績で選抜され、夏春連続の甲子園出場となった。初戦はこれが我が母黌かと思わせる試合で、強豪の常総学園を完封し、再び甲子園に響く黌歌を聞くことができた。
 2戦目の3月30日土曜日。「もし済美に勝ったら月曜日の試合には行くけん」と家人に伝え、休暇を願い、入場券の手配をし、旅行の段取りも考えていた。
 前半は押し気味の試合も8回にエースの大竹君が連打を浴びて1対4で敗れ、試合が終わった。甲子園で生応援をする、昨年対戦して負けた大阪桐蔭に再挑戦させたいという二つの願いが同時に潰えた。その大阪桐蔭も済々黌と同じ日の第3試合で、まさかの敗退。サッカーも野球もわかりませんな。
 入学して以来の夢の一つである甲子園生応援。仕事を休めずに甲子園に行きを断念した昨年夏の大会に続いて、今回も実現しなかった。初戦は、7分の4の確率(1週間のうち3日行けない日があった)、2戦目に至っては、試合の日以外の日なら仕事を休むことが出来たので、私の運の無さ、甲子園との縁の無さにため息が出るばかりである。家人も快く応援してくれていたので、限りなく40年来の夢の実現に近づいた春だったが、夢は夏に持ち越しとなった。フランス人なら肩をすくめて「セ・ラ・ヴィ(それが人生さ)」と言いそうである。
 私に代わって、ということではないが、昭和49年の春に済々黌をいっしょに卒業した同級生達も、昨年の夏に続いてかなりの人数が甲子園に駆けつけている。試合当日は、甲子園から写真付きのメールや電話をいただいた。
 特に東京在住のM君は、帽子から靴まで全身スクールカラーである黄色のグッズに身をかため、自ら東京方面から甲子園に駆けつける同窓生のとりまとめを買って出た。球場にいち早く駆けつけ、外野スタンドのポール際で、後から駆けつける同窓生のために預かったアルプススタンドのチケット100枚を配布したそうである。自らのことを黌熱病にかかった「チケット密売人」、あるいは「きなモン49号」と称していた。テレビの取材を受けたというからさぞや目立っていたのではないかと思う。
 全国的に有名となった熊本県庁のキャラクター「くまモン」の意味は、熊本の者という意味の熊本弁「熊本んモン」を短くしたと言う。では「きなモン」はと言うと、黄色には「きな」という言い方がある。制帽に入っていた黄色のライン、制帽廃止後は男子生徒の学生服の胸ポケットの部分に黄色のラインが一本入っているが、それを母黌の関係者の間では「きなひも」あるいは「きなせん」と呼んでいる。済々黌にとって「きなひも」「きなせん」の黄色は単なるスクールカラーを越えた象徴のような存在と言える。だから「きなモン」は、済々黌を愛する者という意味になろうが、愛黌心の強い学校なので、それでは私をはじめ、ほとんどの卒業生が「きなモン」になってしまう。そこで、済々黌や済々黌の同窓会のために活動し、熱愛とも言える愛黌心を自他共に認められる人を「きなモン」と定義したい。
 M君は、自称の通り、間違いなく「きなモン」だ。
 そして、我々の在黌中は「女子もいるのよ」と言った程度の共学だった済々黌は、今や年度によっては男子生徒より女子生徒の数が多いという信じられない状況である。そこで女子の「きなモン」を勝手ながら私の独断で「きな子」と命名した。思い当たる女子が数名いる。
 私自身はどうだろう。済々黌の野球の試合がある日には、あきらかに興奮状態で仕事にならない。ラジオで試合の実況を聞きながら車を運転していて事故を起こしそうになったことがある。少なくとも10日に一度は一人で黌歌を4番まで歌っている。新聞の紙面に済々黌の文字があると、自然に目が行く。「済」の字に反応しているらしい。黄色にも反応してしまう。M君ほどではないが軽い黌熱病の症状がある。長年、地区同窓会の事務局を担当している。認知されたからと威張れることではないが、やっぱり「きなモン」なのですか?
(2013.4.11)
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カモノハシ

2013年04月02日 | ポエム


▲JRあまくさみすみ線の網田駅。春は菜の花や桜を始め、花でいっぱいになる。

 カモノハシ

 幼い頃、我が家で兄弟とトランプカードのゲームをするときに、何と言うゲームか名前も内容も忘れてしまったが、プレーヤーがそれぞれ自分のコードネームを決め、何かのきっかけで相手のコードネームを告げないとペナルティーを受けるというゲームがあった。
 カードゲームに「ダウト」というゲームがある。手持ちのカードの中から、1から順番に手持ちのカードの中から1、2、3と声を出しながら中央に伏せた1と2と3の数字のカードを出していくが、相手のカードが嘘を出したと思ったときに「ダウト」と声をあげ、もし嘘だったらカードを出した人が、本当だったらダウトを宣告した人が、中央にたまったカードを全部もらい、手持ちのカードが早く無くなった人が勝ちという単純なゲームだったと思う。その「ダウト」と言う代わりに相手のコードネームを告げなければならないようなゲームだ(と、記憶しているんだが‥‥)。そしてコードネームはプレイが始まる最初に動物の名前から選ぶことになっていた(と、記憶しているんだが‥‥)。
 子どもだから大抵はありきたりのキリンだとかゾウだとかライオンだとかシマウマだとかの名前を自分のコードネームに宣言するのだが、私はカモノハシをコードネームにしていた。最近、突然そのことを思い出し、小さい頃からちょっと変わったものが好きだったのだなあと苦笑した。
 カモノハシは、オーストラリアの水辺に住んでいるほ乳類で、身体はビーバーに似ているが、手足には水鳥のような水かきがあり、最大の特徴は口が鴨のクチバシのような形状をしていることで名前の由来にもなっている。姿だけでなく、ほ乳類でありながら卵を産む、なんとも不思議な動物。持っていた図鑑でこの奇天烈な動物の存在を知り、自分のコードネームにする程お気に入りの動物となった。今振り返ると、ゲーム中にすぐに思い出せるキリンやゾウやライオンよりもカモノハシは有名でなかったからゲーム上、特に幼い子ども相手には、有利だという計算もあったに違いない。
 この小さい頃からちょっと変わったものが好きだという性格は未だに変わっておらず、最近趣味としている園芸で育てる花の種類や自分の服や腕時計、自転車、自動車から家の作りまで、「派手さも無く、一見何処にでもありそうだけど、よく見ると変わっているね」といったものを選んでしまうのだ。
 私が世話をしている花壇やプランターの草花は、冬の間、あまり変化が無く静かに少しずつ、その内面で春の訪れを準備している。
 そして、「あれっ、今日は外で作業をしていてもちょっと風が違うな」と感じた数日後には、草花も敏感に変化を始める。それから今や春花壇のピーク。急に咲き誇ったパンジーやビオラの間から、チューリップが顔を出して花を咲かせている。この爛漫の季節を出来ればもう少しゆっくりと味わいたいのだが、躍動という言葉がぴったりする位、毎日毎日変化していく。桜の花に象徴されるように、一番美しい時期はあっという間で儚い。
 仕事先の花壇やプランターは、私の母が少し前まで丹誠をこめて作り世話をしていた。私も実家の仕事を手伝うようになってからは、水やりや植え替えなどの作業を手伝いながら、園芸作業を母に1から教えてもらった。だから私の花づくりの師匠は母である。認知症になってしまった私の師匠は、今でも花を愛でることは好きだと思うが、咲いている花を摘んで、プランターや鉢や花壇の隙間に挿すという子どもみたいな幼稚な作業を毎日くり返していた。
 母は、数年前から施設に入所して今は家族もはっきり認識できない。その母が作った鉢やプランターもあまりに数が多く手が回らないので、ずいぶんと処分した。母が元気な頃に集めた花を今思えば、例えばまだ寒い年末から1番に咲き出す水仙だけでも、八重咲きや房咲き、スズラン水仙など、ちょっとめずらしい色や形のものが次々に咲く。
 他の花も、やはり「一見何処にでもありそうだけど、よく見ると変わっている」ものが多く、自分のその性格は母ゆずりだったのかとふと思う。
  (2013.4.1)
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