雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

50歳代後半と覚せい剤

2014年05月30日 | ポエム
 50歳台後半と覚せい剤

 このところ自分に近い年齢の人の覚せい剤にからむ犯罪での逮捕が続いている。一人は56歳の歌手のASKA氏で、もう一人は57歳の福岡県の小学校の校長だ。二人とも現在すでに十分な地位や名誉もあり将来の不安も無さそうだし、普通に考えたら覚せい剤を使う理由が見当たらない。覚せい剤の魔の手が年齢、職業、学歴、生活環境を問わずあらゆる場所にじわじわと広がっていることを感じる。日本は島国なので麻薬の輸入の取り締まりも比較的にやりやすいように思うけど、現状はどうなんだろう。自分がその気になりさえすれば、それはすぐに手の届くところまで広がっているのではないか。
 20歳の頃に、3ヶ月程西ヨーロッパを旅行して回ったが、その帰りの飛行機で偶然席が隣で仲良くなった普通の日本人大学生は、靴底に麻薬を隠し持っていると教えてくれた。
 その後23歳になる少し前から2年程、私はパリに住んでいた。日本料理店で働いていたから周りはほとんど日本人だったが、現地採用のアルバイトの人が半分近くいて、若い人が多くていろんな人がいた。どんな職場でもいろんな人はいるだろうが、思想、言動、生き様、過去、本当にいろんな人がいて面白かった。その小さな店の仲間内で私が知っていた限り2人は麻薬を常用している人がいた。そしてその人から体験談も聞いていた。
 私の麻薬との接点はそれ位だ。日本で出来ないことを何でも経験したいと思い、行動もしていたが、手を伸ばせば届いたのだろうその頃も、私は麻薬だけには手を付けなかった。麻薬にも好奇心が無かった訳ではないが、「ちょっと試しに」という気も起こさなかった。
 煙草の方は高校の1年生のときから好奇心で吸い出し、高校を卒業した後はすっかりヘビースモーカーになってしまった。以来30年近く吸って50歳前に断煙した。30年間ものヘビースモーカーが何を言ってるのかと言われそうだが、自分の未来にも自分自身にも愛情があったので、麻薬で自分の身体や人生を壊したくなかったからだ。
 私の子ども達が大学に進学し家を出る際には、いろんな経験をするように言ったが同時に麻薬だけは「どんなに好奇心湧いて1回だけと思っても絶対手を出すな」と伝えた。その後も会ったときや手紙を書く際には、必ずそのことを念押していた。結果、子ども達は麻薬どころか煙草も吸わない。煙草の習慣も遺伝しなくて良かったと思っている。
 50歳代も後半になると、夢中で走り続けて来た自分の人生の終点が近づいていること感じる。少なくとも人生の一つの区切りを誰もが向かえようとしている。少年の頃から思っていた夢はかなったのだろうか?あるいはもうかなうことがないとはっきり先が見えてきたのだろうか?もう自分は今以上の高みに昇ることはないのだろうか?
 そんな自分の終着点が見えてしまった気になるのだ。
 私たち50歳後半という年齢の危うさは私でも感じることがある。人の人生に対して勝手なことは言えないが、若いときからあまり挫折の経験の無い比較的に順調と思われる人生を歩んだ人の中に、より大きな危うさがあるように感じる。私なんか生涯楽天主義でそれは多分死ぬまで変わらないと思うが、まだまだ「人生これから何かある」と楽しみにしている。
 ASKA氏が麻薬で捕まった後の報道で、氏の周囲の誰かが、「言動がおかしい」ときがあったと証言していた。そのことを家人に知らせたら「あなたも言動がおかしいから麻薬をやってるんじゃない」と言われた。
 さらに、ASUKA氏がなぜ麻薬に手を染めたかの疑問に対して、ある専門家が「責任感が強く、ファンの描く理想に答え続けたい」というプレッシャーがあったのではないかという分析をしていた。そのことを家人に知らせたら、「じゃあ、無責任なあなたが麻薬に手を染める心配はないわね」と言われた。
 確かにそれは言えとる。
(2014.5.30)
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ヒモがからまる

2014年05月21日 | エッセイ

 ヒモがからまる


 週末は我が家の庭の芝生を刈る。4月からの半年間はほぼ週に1回の間隔だ。狭いながら電動の芝刈り機を使用し、その後、庭用の掃除機(ブロア集塵機)で刈られた葉を吸い取り作業が終わる。頻繁に芝刈りをする必要はないが、美しくなった芝生は自分でも気持ちがいい。その上、芝刈りをすると家人の機嫌がすこぶるよくなるので、言わば家人へのご機嫌トリの作業だ。
 どちらも電動の機械で、10メートル程の長いコードを庭用のコンセントに差し込んで使用する。モーターを使用するのでワット数が大きい防水仕様の丸くて太くて固いコードだ。屋内の掃除機と同様に使用する際は、このコードさばきがけっこう面倒だ。そしてモーターには芝刈り機は大きな刃が、ブロア集塵機には粉砕器がそれぞれ連動していてスイッチを入れたら常に危険な作業をしている意識が必要だ。何かトラブルが発生した際には、面倒だがまずスイッチだけでなく、コンセント自体を抜いてから点検作業を始める。電気が通じていなければ、電動機械が誤作動することは絶対無いからだ。
 この固くて長いコードをさばくのは、高速回転している芝刈り機の刃でコードを切断しないようにするためだ。実は初心者の頃、誤ってコードを切断してしまった経験があるのだ。この固くて長いコードを使っていて、いつも不思議に思うことが2つある。それは丁寧にワッカを作って片付けたはずのコードが使用する際に絡まっていることだ。丁寧に丸めたコードがなぜそんな絡まり方をしてしまうのだろうか。もう一つは運転中に小さな突起物にコードがひっかかってしまうことだ。引っ掛けようと思っても難しそうな小さな突起物になぜひっかかってしまうのか。本当に謎である。が、恐らくは力学的な原因がありそうな気がする。例えば、道路の交通渋滞の原因がトンネルの入り口手前での運転者の心理的な恐怖感であったり、視覚的に気かつかない上り坂であったりするように、このコードの2つの事象にも原因があるはずだ。だが理科系に疎いワタクシの凡庸な頭では、ただイライラしながら舌打ちをして絡まりや引っかかりを解くしか方法が無いのだ。
 絡まりと言えば、若い頃に母親から絡まったネックレスのチェーンを元に戻す作業をよく頼まれた。老眼の今は無理だが、若い頃はパズルを解くようなゲーム気分で複雑に絡まってしまったチェーンに挑戦した。
 その作業をしながら考えたのは、アクセサリーの箱に、首からはずして入れただけのチェーンが、なぜこのように複雑に絡んでしまうのか、ということだった。明らかに「はずして入れただけではこうならんでしょ」というような第三者の故意としか考えられない絡み方に遭遇する。恐らくは力学か何かは知らないが何らかの原因があり、科学的に説明可能な法則があるのだろう。しかし文系の原始人に近いワタクシの頭が出す推論は、妖精もしくは天使の悪戯の違いないと思うこと位だ。たまにあまりに複雑な絡みに遭遇するとイライラしてつい妖精や天使が悪魔に変わってしまうこともある。萩本欽一ではないが心の中で「なんでこうなるの!!!!!」と叫んでしまうのである。
 絡まりの不思議と言えば、もう一つ、ワッカになって保管されている細い針金を使用するとき。これがまたすぐに絡まってしまうのだ。その絡まりを解こうとすると益々大変な状態となってしまうことがよくある。多分コツがあるのだろうが、そうなってしまった時のせっかちで短気なワタクシの対処法は、絡んだ部分を切断してしまうことだ。だから私の道具箱の針金のストックには、取り口がいっぱいあるのだ。
 この針金の絡まった部分を切断してしまう話を書いていてふと思ったことがある。この切断という対処法は夫婦関係における離婚ではないだろうか?そう言えば、原因がわからぬ内に複雑にからまったチェーンも、夫婦や友人など人間関係のもつれにも似ている。小さな絡まりのうちにせっせと解いて置かないと、気がついた時には「切断」しか方法が無くなるのだ。それなら私の芝刈りも夫婦のもつれを解く作業の一つなんだろうなあ。
(2014.5.21)
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日記 2014年5月4日

2014年05月16日 | ポエム

 日記 2014年5月4日


 寝坊をした。と、言っても時刻は午前5時半を回ったところ。大型連休後半の2日目の4日の早朝だ。南阿蘇にある山小屋に上の妹一家の3人と下の妹と私の5人で前日から集まっていた。前夜寝る前にJR九州の豪華クルーズトレイン「ななつ星in九州」を未明に起きて見に行こうという話しになっていた。
 熊本駅を4時半頃に出発した「ななつ星」が豊肥本線を走って立野のスイッチバックを通過するところを見学しようという計画だ。ただし正確な通過時刻がわからない。5時頃にスイッチバックの立野駅迄行けば、見ることができるだろうし、もし見損なったとしても5時33分到着となっている阿蘇駅まで追いかけたら、構内に出来た専用のレストランで乗客が朝食を食べる間、阿蘇駅に停車する事になっているから確実に見ることは出来るはずだ。
 私は鉄道フアンを自認しているが、昨年走り出した「ななつ星」を生でまだ見たことがない。これが九州以外に住んでいる方なら見るだけでも大変だが、私の住んでいるのは熊本市内。「ななつ星」が週に2回は通っている豊肥本線の一番近い線路までは自宅から車で5、6分。歩いても15分程の距離だ。「ななつ星」の通過音も我が家迄聞こえているはずであるがそれさえ聞いていない。同居している長男は、彼の仕事の都合で朝3時から5時の間に市街から我が家迄その豊肥本線の踏切を自転車で渡って帰る。ある日、警報機が鳴り遮断機の前で通過する列車を待っていたら、「ななつ星」が走って来たそうだ。熊本駅にもある程度の時間停車しているから見ようと思えばいつでも見に行ける。鉄道ファンの表現をすれば、いつでも会えるのだ。いつでも会えると思うと通過が未明の時間であることもあって、なかなか行動を起こさなかった。今回、県外に住む妹夫妻が見たいというので良い機会だと思った。
 寝坊はしたが、せっかくだから今からでも見に行こうという話になり、すでに到着しているはずの阿蘇駅に妹夫婦と3人で向かった。
 連休中だからか、田舎の駅にしては広い阿蘇駅の駐車場もほぼ満車。数台のキャンピングカーが目立っている。駅に着いたときから、美しい「ななつ星」の車体が見えている。駅に入場しなくても見学撮影が出来た。駅前や駅の周囲は見学者でいっぱい。車も次々にやってきている。車体の写真や記念撮影をして早々に退散。面白かったのは、あまりに車体がピカピカなので、撮影している自分の姿が車体に映っていること。テレビや雑誌で見ていた通りに生で見ても素敵な列車だけど、たぶん私は乗る方の立場にはならないだろうなあ。私の価値観からすれば鉄道旅行は好きだけど九州1周にあの金額出すならば海外旅行をした方がいい。宝くじが当たれば別だけど。
 阿蘇駅から阿蘇五岳の山肌を巡る登山道を通って山小屋へ帰る。昇り切っていない朝日の射す草原に赤牛や馬が点在している。日本離れした風景だ。山小屋では下の妹が作ってくれたそば粉のギャレットが待っていた。
 お昼に、その夜の夕食作りを担当するシェフのT夫妻がたくさんの食材と共に到着。ソムリエ担当の旦那のK君とその夜のワインを検討。冷やすべきものを冷蔵庫に入れる。友人の誕生会があるという唐津の妹一家と下の妹も帰った後、入れ替わりで福岡から従姉と従姉のお友達の総勢5人が到着。
 夕方6時頃についに宴会が始まる。家人も到着し、総勢9名。夫婦3組に単身の女性3名。赤白スパークリング、9本のワインと日本酒の5合瓶。ビール。みんなよく食べよく飲むのがうれしい。我が山小屋での催しの参加資格はここが一番大切。久しぶりに食べるTさんの奥さんの素人離れした凝った手料理も美味しい。ワインも日本酒もめったに飲めない高級品揃いで、だいたいビールまでもが日頃飲んでいる発泡酒と違い本物のビールのしかもプレミウムで、K君と私は恐れ多くて「口が腫れる、腫れる」と二人ではしゃいでいた。



 楽しい会話とお腹がびっくりするような美味しいお酒と料理で心も身体もエネルギーを満杯に充電できた日だった。もっとも身体のエネルギーはすぐに蓄積にまわりそうで、ちと体重計に乗るのが怖い。
(2014.5.4)

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日記 2014年5月3日

2014年05月11日 | ポエム

 日記 2014年5月3日

 
 今年の黄金週間めずらしく仕事場がお休みで3日から4日までまるまる休むことが出来た。
 初日の3日は渋滞を避けるため早朝に自宅を出発し、一人で南阿蘇村の山小屋へ。家人は犬の世話があり、来れない。
 まずはデッキにブルーシートを広げ、あるだけの布団を並べた。しかし、やや曇りがちで布団干しには日差しが弱い。次に外回りの草刈りをする予定だが、その前に数ある南阿蘇の水源地の中で、私がお気に入りの水源に出かけて、その日に来る予定の唐津の妹夫妻や明日福岡から来るお客さんのために、2ℓ入りのペットボトルに18本の涌き水を汲んだ。この水は水質が悪い山小屋でも使用するが、自宅では1年中この湧き水の汲み置きを飲んでいる。特に頻繁に水分補給をする夏場はお茶代わりにここの湧き水を飲んで重宝している。お茶やコーヒーを入れても美味しいが無料なのが何よりうれしい。熊本市の水道水はすべて地下水でまかなわれていてもともと美味しいが、それでもカルキ臭い。ましてや福岡のお客さんには南阿蘇のただの湧水が十分にお土産になるのだ。
 山小屋に戻り、刈り払い機で1単位(タンク1杯分)草刈りをする。敷地内全部を草刈りするには少なくとも3単位は必要だが、体力的に最近は1単位でやめている。駐車場や花が咲いているブルーベリーの周辺、庭のデッキやテーブルの周囲のみの草刈りをする。もう20年以上続けている慣れた作業だがこのテの機械を扱うときは常に慎重過ぎる位、慎重になる。危険な物を運転している意識を高く持って作業をするし、面倒でもベルトの金具に機械を結び安全装置を使う。刈り払い機では去年もこの安全装置をしていなかった知人が腕を切った。一つ間違えば腕が切断されていたそうだ。そんな危険な作業だが日頃のデスクワークとまるで違う作業が楽しさもあってストレス解消にもなる。1単位の作業で汗びっしょりとなる。
 お昼前には日差しが強くなる。布団干しも順調に進む。
 お昼は一人で「うまかっちゃん(とんこつ味のインスタントラーメン)」。
 午後からトイレやお風呂、部屋の掃除をしていたら、熊本市内に住む下の妹が予定より早く到着。焼き茄子やハム入りのサラダなど野菜中心の夕食を作ってくれるそうだ。
 夕方には掃除が終わり、下の妹の手料理で飲み始める。熊本市内にあったそば屋の「鳥めし」を妹なりに再現した炊込みご飯が美味しい。
 遅くなって唐津の妹夫婦と東京から帰省した長女が到着。ただちに村の温泉センターに行った。久しぶりに兄妹3人、ゆっくりと語らう時間が持てた。
 ブログやフェイスブックで切れ切れの情報は毎日のように届く時代だが、やはり実物に会うのが一番だ。
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サッカーと私

2014年05月02日 | ポエム

 サッカーと私


 自ら身体を動かしてスポーツをすることは個人競技でもチーム競技でも私はほとんど経験がない。それでも高校までは体育の授業でいろんな競技を経験したが、卒業後にスポーツを楽しんだのは、アイススケートとテニス、そしてゴルフくらいだ。スケートは数回すべっただけ。テニスも結婚後に家人との付き合いで始めたが長男が生まれ歩き始めた頃にやめた。ゴルフにいたっては、さんざん打ちっぱなしで練習を積みながら、たった一度18コースをラウンドしただけで何か満足してぷっつりしなくなった。
 だから私のスポーツの楽しみと言ったら専ら観戦すること。若い頃はプロ野球のテレビ中継を毎日のように視聴していた。大相撲も枡席で九州場所を数回見た位好きでテレビ中継も見続けた。ところがプロ野球は贔屓のジャイアンツのフロントのやり方に嫌気が差して応援をしなくなったらテレビ中継も見なくなってしまった。大相撲も若貴以後はどうも好きな相撲取りが出てこず中継を見なくなったら興味も薄れてしまった。
 今現在の私がわくわくして観戦するのは、まず第1に母校が出場する試合の高校野球。第2は男女を問わずサッカーの日本チームの試合。第3はオリンピックを頂点とする国際試合での日本選手がプレーする各種の個人や団体競技だ。
 第1位の母校の高校野球と第3位のオリンピックにつては、ブログで数度書いたことがあるので、今回はブラジルW杯も近づいたことだし、私とサッカーについて書いてみたいと思う。
 と言ってもはじめに書いたように、私はサッカーボールを蹴って遊んだこともほとんど無く(ちなみに私は小さい頃野球をして遊んだ記憶もほとんど無い)、唯一高校の授業でシュートを1本放った思い出があるだけだ。であるから「サッカーと私」とは、サッカー観戦のことである。
 まず私がサッカーを認識するのは1968年のメキシコオリンピックでの日本チームの銅メダルだ。そしてその時に活躍した日本のエース、釜本選手が熊本で試合をするというので、実業団チーム同士の日本リーグの試合だったと思うが叔父さんと一緒に熊本市内の水前寺競技場まで観戦に行った。次の記憶は1972年。高校3年生の冬、母校のチームが全国高校サッカー選手権の熊本県予選の決勝まで勝ち進み、決勝戦の応援にやはり水前寺競技場に行った思い出がある。そして我が母校は確かPK戦で相手を破り全国大会に出場した。全国大会では1回戦で敗退したがラジオで出場している級友を応援した。
 その後のサッカーとの関わりは、1990年代になって長男が地元のYMCAのサッカークラブに入り、サッカーを始めてからになる。サッカーと言っても小学校低学年の頃までは、「ボール蹴り遊び」みたいな感じだった。長男は高学年になって小学校のチームに入りキーパーをするようになった。小学生レベルの試合だが応援しているとそれなりに面白かった。ほぼ同時期に、前述のようにプロ野球に興味が薄れ、反作用のようにサッカーに対する興味が募ってきた。そして1993年のJリーグ開幕。私と長男は熊本を準フランチィズとした横浜フリューゲルスの応援に夢中になる。と、前後してサッカーの日本チームの国際試合の度に力を込めて応援をするようになった。
 長男は中学生になると、その頃まだめずらしかったサッカーのクラブチームに入り、週2回は夕方から練習。日曜は遠征しての練習試合という生活を3年間続けた。私か家人が車で送迎をし、日曜は丸1日長男のサッカーで時間が流れた。毎週熊本県内あちこちの学校や地域のグランドを巡り、県代表となって佐世保で開催された九州大会に行ったこともある。選手の父兄の中には、サッカーに詳しい人がいて、練習試合を見ながら何も知らない私に戦術や試合の流れなど、サッカーのいろんなことを解説してくれた。
 高校の授業での私の生涯唯一のシュートは、味方の選手がびっくりして蹴り出してしまった。その選手は味方から非難されていたから蹴らなければ得点した可能性が高かった。結局私のサッカー人生は生涯無得点である。
(2014.5.2)
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