雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

木を植える

2012年10月26日 | ポエム

 木を植える
 
 確か今の皇太子が御成婚をされた1993年に、南阿蘇の山小屋の敷地内にしだれ桜を記念植樹した。植樹を提案した父が立ち会った。
 ここら辺がよいかと慣れないスコップで地面に穴を掘り始めた私に対して、
「そこはダメだ」と、父が指で上を示しながら言った。
 見上げると、私が穴を掘ろうとした場所の真上には、電信柱から家屋への電気と電話の引き込みの電線が通っていたのだ。
 わずか70センチあまりの桜の苗木に対して、地上から約4メートルの高さにある電線が、穴を掘る私には全く目に入らなかった。
 30歳代の私にとって、数年後を予想する感覚はあっても、桜が成長して4メートルの高さに達する10年後か20年後には思いが至らなかったのだ。
 私はそれが歳を重ねた年月に対する感覚かと、少し感動してしまった。
 その桜は残念ながらすぐに枯らしてしまった。
 しかし、その前後に植えた70センチほどのプラムの木の成長を見てきて、今や電線を越して6、7メートルに達していることを考えると、父の先見というか経験から来るアドバイスが正しかったことに改めて感心してしまう。
 南阿蘇村の山小屋を建てた時分には、私の腰程もなかった背丈の隣地の檜の苗は、それこそプラム以上に成長し、林となって周りの風景を遮断し、敷地内にあった椎やケヤキなどのドングリの木もすっかり大きくなった。明るかった山小屋はうっそうとした林の中の隠れ家の趣となっている。それはそれで雰囲気は良かったのだが、日当りが悪く、屋根に覆いかぶさった枝や落ち葉が家を傷めはじめた。家のために今年、植木さんにたのんで思い切って木を7本伐採した。椎やケヤキは椎茸木に利用したいと思っている。
 以前の私の上天草の実家の庭には、柿・桃・ビワ・梅・グミ・サクランボ・橙など実のなる木が植えてあった。庭に食べられる実のなる木を植えることは、父の望みだったと聞いていた。
 私も同じ思いで、南阿蘇村の土地には、プラムとブルーベリィ、ビワとサクランボ、リンゴ、栗などを植えた。
 リンゴは一度一個だけ小さな実がなって、とってすぐに食べたことがある。しかし味は今までで一番という位美味しいリンゴだった。でもしだれ桜同様、虫にやられてやはりダメになった。栗も枯らした。ビワとサクランボは枯れていないが実はほとんどつかない。プラムとブルーベリィだけは、年によって当たり外れはあるが、毎年のように収穫している。
 今年はプラムの収穫は少なかったが焼酎に漬け、ブルーベリィは今までで一番の大収穫で、生で十分に堪能し、今朝も自家製のジャムを食べた。
 「桃栗3年柿8年」と昔から植えて実がなるまでの年月を表現する。
 小さい頃、「さるかに合戦」の童話に、カニのおにぎりをサルが強引に柿の種と交換し、仕方なくカニが植えた柿の種が成長して柿の実が実ると、またサルがやって来て柿の木に登り、もいだ柿の実をカニに投げつけて殺すという残酷な話があった。柿の種が芽を出し、実がなるまで成長する年月を想像し、子どもながらにそのはるかに長い時間の感覚について行けなかった思いがあった。ただし、物語の中では「カニにハサミでちょん切る」と脅かされた柿の木はみるみる成長するようで、子どものスピード感覚に話が合わせてあるようだ。
 栗の3年や柿の8年だったら、来年の春の熊本植木市で苗を買い、また栗や柿の木を植えてみようかと間もなく57歳になる男は思うのである。地面だけでなく、10年後20年後を想像してちゃんと上を見上げて。
 この歳になると、10年後はともかく、20年後の自分は生きているのだろうかと思う事もある。今更木を植えてもと考えないこともない。
 「木を植える」ことで思い浮かぶ私の心の師の名言があるが、その言葉に従って、木は違うがもう一度栗の木を私は植えたい。
「明日世界が滅ぶとも、今日君は林檎の木を植える」~開高健。
(2012.10.26)
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瞬間湯沸かし器

2012年10月22日 | ポエム
▲南阿蘇村の収穫前の黄金の田。関係者以外でも幸せになる景色です。(2012.10.19)

 瞬間瞬間湯沸かし器
 
 私の父は短気だった。
 それも瞬間的に沸騰してすぐに冷めてしまうタイプで、端で見ていてずいぶん失敗もしていた。よく事情も飲み込まないうちに、頭の中のヤカンが勝手に沸騰し、相手に大声を出してしまうのだ。
 そんなに大声で怒鳴る様なことではないことが多かったし、まったく父の勘違いであることもあった。
 父も大声を出した直後に、自分で「しまった」と思うらしく、一転やさしい声でフォローしていた。訳も分からず怒鳴られた方はいい迷惑である。
 父の怒りの相手は、自分の診療所の患者さんや薬品卸の社員、役所の職員、料理店の店員、タクシーの運転手などであり、家族や看護師さんなど身内にはあまり怒ることは無かった。ただ母だけはよく大声を出されていた。
 患者さんの場合は、やや他の怒りとは内容が違って患者さんの健康を心配するあまりに、医学上の注意を守らない患者さんに大声で注意してしまうのである。だからそれが分かっている患者さんは「先生から怒られるのはイヤではなかった」と言ってくれていた。
 しかし子どもながらに父がすぐに怒り出すことはあまりいい気がしなかった。むしろ父の短期な部分だけはとてもイヤだった。いっしょに出かける時は、父が怒り出さないか常にハラハラしていた。
 反面教師で、温厚でありたいと願いながらも私にも父譲りの短気な一面があることは私自身がよく分かっている。実際、小学校の頃は小さいながらも瞬間湯沸かし器を携帯していて、その上に手が出るのも早かったから、担任の教師に注意をされたこともあった。
 「三つ子の魂百まで」と言われるように、私の短気な性格は治らない。
 私を知っている人の中には、このことを意外に思うかもしれないが、私は自分で短気だと思っています。
 先日、東京都の世田谷区で、86歳の元警視のおじいさんが62歳の隣人である女性を日本刀で斬りつけて殺し、自身は燐家に立てこもった後で自殺する事件があった。殺された女性が飼っていた猫や育てていた植物をめぐるトラブルが発展した末の行為であるとみなされている。私はそれ以上の事件の詳細は知らないが、結果的に自分も死ぬことになるような命をかけてでも晴らしたい「怒り」とは何だったのだろうか、ということが気になった。
 かなり高齢であることから妄想などがあったのかもしれない。他の人が知らない当事者のやりとりがあったのかもしれない。被害者も加害書も亡くなって、真相は不明のままだ。
 尖閣諸島の領有をめぐる、中国人があらわにしている「怒り」に対しても、「何であそこまで」という疑問が生じる。
 どの国にもいろんな考えを持っている個人や団体がいて、一部で過激な行動に発展することもあるが、同様に日本との領土問題を抱える台湾や韓国、ロシアであのような過激なデモや暴動、国をあげていやがらせをすることは無い。それらの相手である我々日本人もニュースを見て腹は立ててはいるが、だからと言って横浜中華街で中国人や店が襲われることも無い。
 もう一つ、「グリーンピース」という反捕鯨団体の日本の調査捕鯨に対する犯罪的な反対活動もその「怒り」の真相が理解出来ない。クジラを食べることは、日本人の食文化だと思う。クジラを食べない外国人がそれに対して「野蛮だ」とか「クジラは高等な知能を持つ生き物で可哀想だ」と言うことは受け付けられない。牛や豚ならいいのか、牛や豚は下等で可哀想でないいうことか。クジラが減っているので保護しましょうという活動なら理解出来るが、そもそもクジラを絶滅近くまで追い込んだのは、鯨油を取るために欧米人が乱獲したせいではないのか。
 短気な私の爆発のエネルギーを未だに受けているのは家人だ。
 他人はもちろん、いろんな場面で抑制されたエネルギーが、家人に対して爆発してしまう。常にはいけないと思っているが、つい瞬間的に爆発して「しまったあ」と後の祭りとなることが多い(その後の関係修復の大変さといったら‥‥)。
 少し改善したのは、直後からあやまることができるようになったことと、そもそも年を取って相手のことを考える余裕が出て来て「怒り」そのものの数が減って来たことだ。
 例えば、車の運転中は他の車や自転車の運転手、歩行者などに対してほとんど怒りっぱなしで「ウインカーをあげんかい」「信号赤だろう」「二列で走るな」「人は右、車は左」とか悪態をつきながら運転していた私だが、最近は、「何か急いどらしたっだろ」とか「うっかりしとらした」とか、許せるようになったことだ。
 それでも家人に対しては短気だな。
 家人とは年が近いせいか負けたくない気持ちが働く。喧嘩をしかけても、最初から悪いのは自分で、その原因を考えると相手が正しい事が分かっているのだ。なのに瞬間、シューと頭が沸騰してしまう。シューシューまでは行かない。シューである。
 「それなら何で我慢ができないの」と問われると、不思議である。
 理性が全く無くなるのかと言ったら、そうではないのだから。つまりいくら「怒り」があっても殺人までは至らないのは、瞬間でもちゃんと理性が働いているのではないか。

(2012.10.18)
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古豪のエール交換~九州地区高校野球熊本大会決勝戦

2012年10月16日 | ポエム

▲体育の日は、久しぶりに娘を訪ねて鹿児島に行った。桜島は何度見ても迫力がある.

 古豪のエール交換~九州地区高校野球熊本大会決勝戦

 私は運動が苦手で、小さい頃から少年誰しもが経験する草野球をした思い出はほとんど無い。グローブは一度買ってもらったような記憶があるが、元巨人軍監督の堀内さんが新人投手で活躍した頃、投球後に野球帽が傾くのをまねていた思い出と、サードを守っていて、飛んで来たライナーが目を閉じながらバンザイしたグローブに玉の方から飛び込んでアウトをとり、喝采を浴びた思い出の二つ。
 スポーツ観戦は大好きで、以前は巨人のファンで毎晩のように熱心にプロ野球のテレビ観戦をしていた。しかし球団によるファンの気持ちを無視したような(少なくとも私はそう感じました)運営に私は嫌気が差して、サッカーにJリーグが誕生してからは、ほとんどプロ野球を視ることが無くなった。最近は、サッカー日本代表の試合はもちろん、日本選手が出場するヨーロッパの国内リーグ戦までも楽しみにテレビ観戦し、サッカーJ2のロアッソ熊本の応援に競技場まで時々足を運ぶ程、サッカーがメインとなっている。大相撲も以前のようには視なくなってしまいました。
 ところが、実は私がサッカーよりも一番熱くなるのは高校野球だ。
 高校野球と言えば=甲子園だが、私は特に甲子園が好きなのではなく、甲子園を目指す、地元熊本の大会、それも母校である済々黌野球部の試合が大好きなのである。県内の公式戦があれば、日曜日の試合等日程が合えば、まず他の用事を延期してでも観戦、生の応援に球場まででかける。
 公式戦は組み合わせ抽選会の段階から注目し、済々黌の試合がある日は、仕事の休憩時間にネットの試合速報をチェックしたりする。試合のある日は、何だか朝からソワソワドキドキし、あきらかに平常心ではない自分を感じる位だ。
 先日の日曜日(10月14日)には、その念願の済々黌の試合の応援に行った。
 九州地区高校野球熊本大会。所謂「秋の熊本大会」と言われ、上位2校は九州大会に出場権を得て、さらに九州大会で活躍しベスト4に残れば、春の甲子園にと、結果が結びつく重要な大会だ。
 今年の夏に甲子園に出場し1勝をあげたレギュラーの内、3人を残す済々黌の新チームは、甲子園でも好投を見せたエース大竹と好調な打撃陣の活躍で順当に勝ち上がり、前日の準決勝で九州大会出場の切符を手に入れ、その日、熊本工業との決勝戦を迎えた。
 熊工と言えば、九学と並んで甲子園常連の強豪校だ。他の県内のチームとはレベルが群を抜いている。嘗ては古豪と並び称された我が済々黌は、近年残念ながら両校とは大きく水をあけられてしまった。
 しかし、今回は違う。大きな壁となって何度も甲子園出場を阻まれた熊工に今回は勝てるかもしれない。私は勇んででかけた。
 それから他にも私が楽しみだったのは、両校の応援団によるエールの交換だ。
 熊工なら応援団がいて、正式なエールの交換があるはずだ。私的には、ブラスバンドの伴奏付きで大声で校歌が歌えるだけでも十分喜びなのだが。
 相当古い話だが、私が現役高校生だった頃は、多くのチームに応援団があり、必ずエールの交換が行われていた。しかも1回と7回、試合終了後と三度行う。
 今回の決勝戦では、まず先攻の済々黌が1回表に。応援団長が済々黌の生徒に向かって指揮をとり校歌の一番を歌った後、「フレー、フレー済々黌!」と自校を応援。次に熊工の応援席に団長が向き直りゆっくりとした動作で「押忍」と腰を折って頭を下げた後に、「フレー、フレー熊工!」と相手にエールを贈るのだ。
 すると、1回の裏の熊工の攻撃のときに、熊工の応援団長と生徒達は、校歌の一番を歌った後、「フレー、フレー熊工!」とやり、次に済々黌の応援席に向かって押忍と挨拶した後に、「フレー、フレー済々黌!」と私達にエールを贈り返すのだ。7回の表裏は同様に、試合後は勝った熊工の方からエールの交換があり、この日は伝統の作法にのっとった応援合戦も見事だった。
 何度経験しても胸が熱くなる気持ちの良い応援の伝統だ。
 ところが、最近ではほとんどの高校に応援団が無く、あっても野球部の補欠が臨時でする「にわかの応援団」のようで、応援のマナーがなっていない。自分達が勝った試合の場合など、試合後のエールを交換するどころか、喜びのあまりか、こちらが校歌を歌っている時に騒いだり、エールを贈っているときにもあきらかに聞いていなかったりする。自分達の校歌さえ歌うこともない。
 常々このことを嘆かわしく感じていたから、伝統の通りに三度のエールを交換した熊工戦はそれだけでうれしかった。
 試合は、残念ながら済々黌のエース大竹君が嘘のように熊工打線に打ち込まれ(初回トップバッターにいきなりランニングホームランを打たれました)、また好調の打撃も完封されてしまった。6対0の完敗でした。準決勝の両校の試合ぶりをラジオで聞いていた私は済々黌が勝つと信じていたのだが‥‥。新レギュラーの経験の無さが出た試合ではないでしょうか。
 まあ、負けても九州大会出場は決まっているのだから、この日の結果は彼らにとっていい経験になったのではないかと、前向きに考えています。
 試合後、足早に球場を出たところで、応援に来ていた背の高い熊工の制服姿の生徒が私を見てニコニコと会釈するので、「ん?」と思ったら、小さな頃から知っている上天草の実家の近所の子どもでした。向こうからあいさつしてくれたことが、とてもうれしくかった。
 そのこともあり、そして三度のエールを交わすことも出来て、試合に負けた悔しさより、むしろ爽やかな気持ちになった。
 済々黌の応援団長の試合後の挨拶の「九州大会の決勝で熊工と戦って次は勝つ」という話も「元気を振るう」済々黌らしさが出ていて良かった。
(2012.10.15)
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うたた寝と居眠りと眠気を覚ます5つの方法

2012年10月12日 | ポエム

▲先日ふと例によって空を見上げると、大きな龍が泳いでいた.

 うたた寝と居眠りと眠気を覚ます5つの方法

 このところ、夕食を食べ、あと片付けを終えた後、ちょっと甘いものを食べてお茶を飲むか、アルコールが飲み足らずにナッツでも齧りながら焼酎やワインかウイスキーを飲みつつ、テレビを視ていて、そのままうたた寝というコースが多い。(妻のいる自宅から勤務先までは車で75分ほどかかり、週に4日は自宅に戻らず勤務先でもある実家に単身で泊っている)
 テレビは、放送中の番組を視るより、最近は興味のある番組を録画したものの中から選んで視る場合が多く、従って真剣にあるいは楽しんで視ているはずであるが、それでもいつの間にか眠っていて、気がつくと2時間近く経っている。座椅子に腰掛けたままの居眠りで、この時期なので肌寒くて目が覚めることがあり「しまった。風邪をひくのでは」とヒヤリとする。
 逆にお風呂にも入り、さあ寝ていいのだよという状況でベットに横になり、本を読む幸せな時間を経るうちに眠気がさし、ライトを消して眠りの体制に入った途端に、なぜか暗闇の中で悶々として眠れないことがある。仕様がないからもう一度枕元のライトを点け、再び眠気の限界まで本を読む。もうダメだという眠気が訪れてから本を閉じライトを消すのだが、やはりなかなか眠れない、なんて夜も少なくない。
 数日前の晩など、そのくり返しでとうとう外が白み、薄い本だったが一晩で一気に一冊の本を読了してしまった。多分夕食後の余計な居眠りが睡眠を妨げているのだと思う。
 翌日は、前の晩に眠るべき時間に眠れなかったために、また夕食後のうたた寝が起きてしまう悪循環。ただ夕食後のうたた寝は、一人暮らしであれば、誰にも迷惑をかけるものではないので罪は無い。
 それから自分が運転していないときの車や、バスや電車などの乗車中の居眠りは、とても気持ちがよい。赤ちゃんに揺りかごがあるが、大人になっても車や電車の適度な揺れは眠気を誘われてしまう。これも運転手さえ気にしなければ罪は無い。
 しかしもっとも避けねばならないのは車を運転中の居眠りである。自分や家族、そして最悪の場合は周りの命をさえ危険にさらしてしまう。
 運転中に眠気がした場合は、窓を全開して風に当たる、ガムを噛むかアメ玉をしゃぶる、「眠るなー」と言いながら頬をピシャピシャと叩く、大声で母校の校歌を4番まで唱う、などの対処法をとる。それでも眠気がとれないときは時間が許す限り、思い切って車を停め15分程眠ることにしている。たいていの眠気は頬をピシャピシャの段階で目が覚めてしまう。
 もっとも最近は家人から「いいのよ。そんな時は無理に目を覚まさなくても」と言われる。もちろん家人の冗談である、と思いたい。いや信じている。もし「自分の妻の場合は本気かも」という方がおられたら、保険金を手にした奥さんの笑顔をその時に思い浮かべることが眠気覚ましに一番効果があるのかもしれない。ブラックだなあ。もちろん私は違うけど。
 命の危険はないが、昼食を食べた後の午後の授業・講演会・研修会でのお話を聞くだけの時間の居眠りは多くの方が経験することだろう。先生や講師に悪いと思いながらも、緊張感の無い場面では、なかなか眠気に抵抗出来ないで、無駄なそして孤独な闘いをするしかない。
 「いかん、いかん」と必死に眠気と闘い、周りに気付かれぬように時々おおげさに頷いたり、ペンを持ちメモを取るふりをする。しかし自分が逆の立場であれば、俗に「舟を漕ぐ」と表現される不自然に身体が揺れていたりして、居眠りしている人は一目瞭然にすぐに分かるのだ。
 また後で、自分が居眠り半分に書いたメモを見たら、ほとんど文字のようなものでしかなく自ら書いた文字が意味不明だったりするし、居眠り中に最も赤面するのは、思わず涎を垂らしてしまった瞬間である。
 私の二人の妹が中学生だか高校生の頃、妹達がいない時にこっそり妹の教科書の先の方のまだ開いていないページを開き、私の顔や飼っていた猫のイラストに「眠ったらあかん」という吹き出しをいれた落書きを何度がしたことがある。聞くだけの授業が多い、世界史や古文などのような教科書を選ぶ。
 妹達がいつ、どんな状況でそのページを開くことになるか分からないが、眠気と闘っているときに見たら、効果てきめん、いっぺんに目が覚めたに違いない。
 「もう。怖い先生の授業なのに、笑いをこらえるの大変だったよ」
 この親切な行為の結末は、ほとんど忘れた頃に妹の抗議で終わる。
(2012.10.12)
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木犀

2012年10月09日 | ポエム

 木犀 (モクセイ)

甘い香りに包まれて

僕は幸せになる

でも僕が幸せだから

香りを感じることができるのか

十月の木犀

(2012.10.9)

▲見出し画像:我が家の満開のキンモクセイ。一般的に香りが強いと言われるキンモクセイより、ギンモクセイの上品な香りが私もより好きだ。
 金と銀で咲く時期も微妙にずれていて、長い間香りが楽しめる。この時期は犬の散歩に楽しみが加わる。
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