雲のたまてばこ~ゆうすげびとに捧げる詩とひとりごと

窓の雨つぶのような、高原のヒグラシの声のような、青春の日々の大切な箱の中の詩を、ゆうすげびとに捧げます

テレビドラマと原作~みをつくし料理帖

2012年09月28日 | ポエム
          ▲何だか秋を感じるような空です。週末の台風がちょっと心配。

 テレビドラマと原作~みをつくし料理帖

 最近新たにハマった小説に高田郁の「みをつくし料理帖」のシリーズがある。
 横浜の姉が教えてくれた本で、姉が自らの帰省の際に「面白いから」と最初の2巻を持ってきてくれた。
 『天涯孤独の少女が大阪から江戸の街に出て様々な困難を乗り越えて、料理人として成長する姿を描いてある』料理をテーマにした時代小説だ。
 最初は本を手にしても正直それ程期待していなかった。
 ところが読み始めると、根が食べる事が好きなだけに、すぐに話の展開が面白くなった。現代にも通じる上方と江戸の食文化の違い。それを大阪で修行した若い女料理人が江戸の人達にどのように受け入れてもらうか。その過程や個々の料理の作り方、季節の食材が描かれていて興味が募る。
 その上に、思っていた以上に読み応えのある深い内容である事に気がついた。
 主人公を含めて周りの登場人物が、それぞれに悲しい過去を持ちながら自分のことよりも周りの人のことを思いやり、親子や夫婦の情、友情、恋愛をからめて話が進んで行く。最新刊では武家と町民の身分の差というものを、今までに読んだどの本よりも身近に感じてしまった。
 姉が買っているという6巻までを、次の姉の帰省が待てず、横浜から郵便で送ってもらった。それも貪るように読んでしまい、今月法事でまた帰省した姉が最新刊の7巻の「夏天の虹」を持ってきてくれ、楽しみながら今週読了したところだ。
 ちょうど7巻を読んでいる最中に、テレビ朝日系列で「みをつくし料理帖」がドラマになり22日の土曜日に放映された。
 もともと1、2巻を読んだ後で、自分の頭の中に映像が浮かんできて、テレビドラマにしても面白いだろうと思った。姉も同じ感想を持っていたらしく、「NHKの時代劇でやってくれたらいいね」と話していた。
 NHKの時代劇は、ほとんど毎回の作品を楽しんでいる。原作を読んでいたものがドラマ化されたり、ドラマで見た後で原作を手にしたものもある。
 藤沢周平の「清左衛門残日録」や「蝉時雨」は質の高い名作。北原亜似子の「慶次郎縁側日記」、佐伯泰英の「居眠り磐音 陽炎の辻」は、特に気に入って楽しみに欠かさず見ていた。これらは、テレビを見た後に原作を読んだ。
 NHKの肩を持つ訳ではないが、じっくりと腰を据えたようなドラマ作りが見ていて安心。原作を先に読んだものでもキャスティングに原作とあまり違和感がない。それに較べると民放のドラマは一般的に軽いし浅い。時代考証に首をひねったり、人気のタレントを無理矢理起用して雰囲気をこわしてしまうことも多い。だからテレビ朝日で「みをつくし料理帖」をやると聞いたとき、うれしさよりも正直少しガッカリしてしまった。NHKでやってほしかったなあ。
 大好きな原作の本がドラマや映画になるときは、最初から「原作とは別物」と思って、ドラマはドラマで楽しむことにしてはいるが‥‥。
 今回の「みをつくし料理帖」の放映は、実は翌日早朝から用があったので録画していて、まだ全編を通しては見ていない。でも放映中にチラチラと画面を見て、原作を読んでいるので、はなし(内容)がわかるだけに、ついつい画面からしばらく目を離せなくなってしまったりした。
 主人公の澪役の北川景子は、ちょっと美し過ぎる気もするが可愛かった。
 今回は主役をはじめキャスティングも違和感が無かった。相手役の小松原役のTOKIOの松岡君も、あさひ太夫の貫地谷しほり、育ての親の芳役の原田美枝子、又二役の男優さんも良かった。話の舞台となる料理屋「つるや」の主人役だけがちょっとイメージと大きく違った。大杉漣は嫌いな役者じゃないけど。
 ドラマ自体は、やはり単発では時間が足りず、原作の良さが表現されずにもったいない気がした。
 連続ものでじっくりといつかNHKにやってほしいものだ。
 そのドラマを見た後で、読んでいる途中の7巻の「夏天の虹 みをつくし料理帖」の本の続きを読了した。さらにきびしい試練と悲しい出来事が主人公を待ち受けていて、ウルっとした。
 幸い読んでいてテレビドラマの俳優さん達の姿がだぶることは無かった。
 それは私の頭の中で、私の「みをつくし料理帖」の世界がすっかり出来ていたためだろうか。
(2012.9.28)
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バス通学と女学生

2012年09月25日 | ポエム

 バス通学と女学生

 昭和40年代の後半の3年間、私は入学祝に親に買ってもらった自転車で熊本市の立田山の麓にある熊本県立済々黌高校に通った。
 学校が楽しくて、毎朝ワクワクしながら早朝に家を出て、全力で自転車のペダルをこぎ続けて、20分で済々黌に到着した。学校内でも何番目かに早い登校だった。嫌いなマラソンや水泳、出席番号と日付で今日あてられると解っている怖い先生の授業がある日はさすがにペダルが重くなったが‥‥。
 雨の日は、「出水中学前」から「子飼」というバス停まで熊本市営バスの「第2環状線」という路線に乗車した。
 この熊本市営バスの第2環状線の朝一番早い便に乗るのだが、環状線だけにぐるっと遠回りをするので、朝の道路の混雑も重なり、バス通学は小1時間かかった。この路線の朝の1便には、時折当時熊本でもめずらしくなりつつあったボンネットバスが仕様につくことがあった。
 このバスが、本当にポンコツだった。
 まず方向指示器が電気式ではなく、前面の窓の両側の桟に取り付けられた腕木だった。自転車が右折左折をするときは、腕を90度あげて曲がる方向を示すが(最近はそんなことをする人をほとんど見かけないけど)、それと同じように、このバスはライト式のウインカーに代わって、木か金属でできた赤い腕木が曲がる時にパタンと90度倒れ、曲がる方向を示すのだった。
 ある時など、突然運転手がバスを停めてあわてて外に飛び出たので何事かと思って見ていたら、ワイパーを手に戻って来た。運転席側ではなかったが、雨の日の運転で作動していたワイパーが何の拍子か外れて飛んで行ったのだ。
 同じバス停から乗る済々黌の1学年上の美人の先輩がいた。家も近所で、見かけると必ずあいさつを交わした。バスは私達が乗り込む「出水中学前」の停留所の時点で、椅子に座れるか座れないかその日によって微妙な混雑具合だった。私はバスに乗り込み席を確保すると、その先輩に席を譲ったりもした。すると先輩は「ありがとう」と言って私が確保した席に座ってくれ、その後で私の辞書や教科書や弁当でパンパンに膨れた重い通学鞄を奪うようにつかみ、自分の膝の上に置いた自分の鞄の上に重ね、抱きかかえるように持ってくれた。
 その先輩の右手だか左手だか記憶は無いが、少し奇形があった。鞄を抱える奇形の手を隠すことなく堂々としている美人の先輩が誇らしかった。
 第2環状線のバスは、その後も停留所の度に、沿線にある高校の生徒を詰め込んで行き、降車する「子飼」の手前では、いつもぎゅうぎゅう詰めとなった。その大半が女生徒で、またその多くが済々黌のとなりにある九州女学院という私学の女子校の生徒だった。私の下の妹と、妹の一人娘、そして実は私の妻も(出会ったのはずっと後だが)九州女学院、通称九女の出身である。今はルーテル学院と名前を変え、男女共学となっている。
 滅多には無かったが、バス通学をした日に、学校から熊本の繁華街に行く用があるときは、黌門を出てすぐの通りにある「済々黌前」という停留所から熊本電鉄バスに乗った。ところが、中心街方面行きのバスの一つ前の停留所が、「九州女学院前」だったので、放課後のバスは、すでに九女の生徒で満員状態となり、「済々黌前」に停まって乗車口のドアが開いても、済々黌の男子生徒には、女生徒をかき分けるように乗り込む勇気は無かった。そうやって1台見送っても次に来たバスも九女の生徒で満杯で乗れなかったりした。
 家人にそのことを話すと、バスの中では、済々黌の男子生徒が乗るか乗らないか、九女の生徒は皆、密かに注目していたとのこと。
「乗りませんか?発車しまーす」という運転手のアナウンスの後に、走り去るバスの中からは、女生徒達の拍手混じりの歓声が聞こえた。
 朝の第2環状線もまた九女の生徒でいっぱいだった。
 そのかしましいこと。かしましいこと。私はそれだけでも閉口した。その上に、彼女達は降りるべき「子飼」のバス停についても、おしゃべりに夢中のあまり降りることに気がつかないで、とうとうバスが動き出すことも1回や2回ではなかった。同じバスに乗る男子生徒数人もいっしょに巻き添えをくった。
 その話をしたら「降ります、と声を出せばいいじゃない」と家人は言うが、大勢の女生徒前で大声を出すくらいなら、一つ先の停留所から戻って歩くことの方がましだと考えた。
 今、自分で考えても、理解出来ない程の純真さを持っていた高校生の私だった。
(2012.9.25)
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おとなりの国

2012年09月21日 | ポエム

 おとなりの国

 スイスのバーゼルには、フランスとドイツとの3カ国の国境がある。島国である日本人の国境の感覚からは遠い。
 バーゼルには若い頃美術館を訪ねて行ったことがあるが、ヨーロッパの交通の要所でもあるスイス国鉄のバーゼルの駅のホームはフランス国鉄のホームと隣接しており、確かホームに国境があったような記憶がある。そしてそのとき、スイス人は美味しいパンを求めて国境を越えて毎日フランスに買い物に行くのだと聞き、不思議な感じがしたのを覚えている。
 日本には、陸地の国境線が無い。大小の島々から成り立ち、国境はすべて海で囲まれている。海外という言い方があるように、外国はすべて海の向こうにあるのである。
 韓国も中国も私の頭の中では、ずっと遠い国だった。でもある時に、九州に住む私達は東京よりもソウルや上海が近くにあることを知った。そう言えば、夜中にラジオを聴くと、日本語より韓国語や中国語が多く聴こえて来ていた。東京の放送局より近かったのだから当然のことだ。
 それでも長い間、私にとって韓国や中国は遠い国だった。
 その距離を縮めたのは、韓国ドラマである。
 最初に興味を持ったのは「チャングム」という朝鮮王朝時代の宮廷の女官が主人公のドラマ。主役のイ・ヨンエという女優さんの聡明な美しさと料理に惹かれて見始めた。次に「面白いからとにかく見て」と家人に勧められたのが、世の大ブームより数年遅れて見た「冬のソナタ」。ヒットした主題歌と共に、若いチェ・ジウの輝く様な美しさにすっかり心を奪われてしまった。その二つのドラマをきっかけに、韓国ドラマや韓国映画を夫婦で次々に見た。今や韓国ドラマは、私達夫婦の生活の一部となっている。
 国民性や習慣の違いに驚く事も多いが、共通点も多いことにもっと驚いた。吹き替えでなく、原語の放送を見ていると、まったく同じ意味でほとんど同じ発音の単語が多い事に気付き、うれしくなった。焼き肉やキムチしか知らなかった韓国料理も豆腐チゲやビビンバ、チャプチェやチジミなどは、今やすっかり我が家の定番メニューとなっている。
 中国は、もともと高校生の頃からあこがれがあった。
 漢文の教科書に載っていた桂林の写真を見て、山水画に描かれた風景が写実であって誇張ではないことを知って驚愕したのがきっかけだった。
 日本の歴史、文化、生活、そのほとんどすべてにおいて、中国は手本となり切っても切れない日本国の親のような存在である。その長い長い歴史や文化を尊敬申し上げている。
 今、この両国との関係が悪化している。
 竹島、尖閣諸島の領有問題がその大きな原因となっている。
 連日の報道を見聞きしていて、私は腹が立つより悲しい。心が痛い。
 だからといって、北方領土を含めた領土問題は、一国民としても熱くなってしまうし、簡単に譲ったりあきらめたりはできないのは、私自身も同じである。
 ああ、何かよい解決法は無いのだろうか。
 ロンドンオリンピック。
 一番興味があり応援していた男子サッカーは、準決勝でメキシコに敗れ、同様にブラジルに敗れた宿敵の韓国と3位決定戦で対戦した。日韓戦は、親善試合であっても「韓国だけには負けたくない」とただでさえ応援にも熱が入る。
 しかし結果は0-2で日本が敗れ、1968年のメキシコ大会以来のメダルを逃した。内容も韓国がすばらしかった。私は素直に「おめでとう」と韓国チームに拍手をして寝た。ところがその後の表彰式でのプラカード事件。
 初めて知ったときは、悲しくなった。
 あの舞台でそこまで韓国選手をさせるエネルギーは何なのだろう。
 悲しい出来事だけど、オリンピックの場であることを考えたら、やはり許せない。チームの銅メダルは認めても、張本人にはメダルをあげたくない。
 オリンピック精神の第1は、「スポーツを通して世界の平和に貢献する」とあるのだから。
(2012.9.21)
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千葉県市川市でグレープの精霊流しに出会う

2012年09月14日 | ポエム

▲相変わらず暑い日が続くが、気のせいか秋らしい雲になってきた気もします.

 千葉県市川市でグレープの「精霊流し」と出会う

 昭和49年の春。高校を卒業し、芸大油画科を目指した美術部の仲良し3人組は、上京して美大予備校に通うために、僕以外はそれぞれ一人暮らしを始めた。
 K君とT君は、二人とも埼玉県の南浦和に自炊のアパートを借り、僕は1年間だけ千葉県の市川市内にあるアパートを借りて、当時女子大の4年生になっていた姉と二人で住むことになった。
 アパートにはお風呂が無く、洗面器や石けんやシャンプー、タオルに着替えを抱え、近くの銭湯に通った。
 がぐや姫というフォークグループの歌う「神田川」の歌詞そのものの時代だった。
 高校生になって、僕は美術部に入部するが、2年生になった頃、フォークやロックが大好きな同学年の部員が数人入部し、美術部の部室では、毎日のようにギターの音と歌声が絶えることが無かった。
 僕は、彼らの演奏や歌声を通して間接的に、たくさんの歌手やグループや歌を知った。そして僕も彼らと一緒に吉田拓郎の「結婚しようよ」や泉谷しげるの「春夏秋冬」や曲名は忘れたけど、フォークソングのたくさんの曲を大きな声で歌った。
 それは、みんなで歌う楽しさもあったけど、僕達の心情や主張、立場を代弁していて、共感するものが多い歌詞を声に出す気持ちの良さがあったように思う。
 一方で、家に帰れば、中学生の頃から好きだったサイモン&ガーファンクルや、姉の影響で好きになったカーペンターズ、妹の影響でかぐや姫などを聴きいていた。
 そして高校を卒業し、市川駅の南側の江戸川に近い住宅地に立つ古い木造2階建てのアパートでは、テレビだけでなく、ラジオをよく聴くようになっていた。
 その年のいつだったか、ラジオから流れて来た初めて聞く歌にショックを受けた。
 グレープというフォークデュオの歌った「精霊流し」という歌だった。
 「男がこんな歌を歌っている。こんなやさしい歌を男が作り、人前で歌っていいのだ」と思った。
 もちろん反感ではない。その後、精霊流しを作詞作曲したさだまさしに対してよく言われた女々しいということも一切思わなかった。すんなり、自分の中に受け止められた。
 自分にとっては今までのどの歌とも違う、一言で言えば、出会いを感じてしまった。
 姉の情報によれば、この歌を作り歌っているさだまさしという人は、自分と同じ市川市に住んでいるということだった。
 だからという訳ではなく翌年も同じ市川市に住み、同じ予備校に通った。
 姉は卒業し、熊本に帰った。僕は他の仲良し3人組と同じように、一人暮らしを始めた。つまり仲良し3人組はそろって2浪することになったのだ。
 市川市に住まず、仲良し3人組そろって南浦和に住むことも出来たが、私は東京都から江戸川を渡った途端に緑が多くなる市川市が気に入ってしまった。今度のアパートは、6帖一間で共同便所の西側の部屋だった。夏は西日が強烈だったが、窓から見える大きな松林がよかった。その松林をオナガがギィーギィー鳴きながら飛び渡っていた。そしてバイトしたお金で初めて自分のギターを買った。
 グレープは、私達兄弟のお気に入りになり、特に上の妹と姉は熱烈なファンになっていった。しかし、また1年が過ぎ、3浪が決まった1976年の春にグレープは解散してしまった。
(2012.9.14)
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女とおれ

2012年09月10日 | ポエム

 女とおれ

おれの手を握りしめる
その人の名は おんな
おれを見つめるうるんだひとみ
その名は おんな
あなたの熱い汗は
おれの血に快く伝わり
あなたの八重歯は
宝石の様に光っている

抱きしめたいあなたは
確かに おんな
抱きしめようとする男は
その前に
おれでしかない‥‥
(1979)
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