異文化交流クイズ、ジャポニズムシリーズ第7回。今回は日本人にも馴染み深い、オランダ人画家フィンセント・ファン・ゴッホからの出題です。
オランダは江戸時代、公式には唯一の日本との窓口でしたから当然の事ながら日本美術の流入は最初期に始まったわけですが、何故かジャポニズムの影響は殆どと言っていいほど、残されていません。
手元の専門書によると、そもそもオランダでは日本美術よりも旧植民地であったインドネシア的要素の美術の影響力が強かったことに加え、第二次大戦の結果「日本のせいでインドネシア植民地を失った」という事実が反日感情に火を付けた結果、日本美術の自国への影響を検証しようという努力を放棄した可能性が高いそうで。
と云うこともあってか、今日知られる画家ゴッホへのジャポニズムの影響は1886年にパリに出て来て、当時のジャポニズムの大流行の中に身を置いたことが原点とされています。
もっともゴッホのジャポニズムの影響は直接的なものではなく、まず印象派の明るい色彩の絵から入ったと考えられています。
それでもゴッホを、あの原色に近い大胆な色面表現に踏み切らせたのは、浮世絵の模写を通じてでした。
手法としては、浮世絵の上に半透明の紙を置いてまず輪郭線を敷き写し、その紙に格子状の線を引いてカンヴァスに拡大模写を。ここまでは所謂「トレース」ですが、彩色に当たって色彩の彩度を高め、より鮮やかに描き出したのがゴッホの特徴。
ちなみにパリ時代の油彩によるこの浮世絵模写は現在三点のみ残されており、ゴッホはこの「浮世絵模写」という行為を通して初めて、西洋絵画の伝統から解き放たれ、全く新しい色面表現に移行するきっかけを掴みます。
そしてゴッホのジャポニズムは、単に日本風のモチーフや描法、様式を取り入れるだけに留まらず、浮世絵の鮮やかな色彩世界を通じて、陽光に満ちた国「日本」を夢見始め、彼は「日本の太陽」を求め、南フランスへと向かいます。これがかの「アルル時代」ですね。
このアルルでゴッホは芸術家の共同体を作りますが、結果的にこれに賛同したのはゴーギャンのみで、しかも周知の通り僅か二ヶ月足らずで崩壊します。
以後、ゴッホの作品からは日本的モチーフは殆ど見あたらなくなりますが、この辺については解答編で改めて解説することとして、ここで今回のクエスチョン。
ゴッホはこの共同体の名に『ある色』の名を冠していますが、浮世絵から連想したと考えられている、この『色』とは一体何色だったでしょう?
オランダは江戸時代、公式には唯一の日本との窓口でしたから当然の事ながら日本美術の流入は最初期に始まったわけですが、何故かジャポニズムの影響は殆どと言っていいほど、残されていません。
手元の専門書によると、そもそもオランダでは日本美術よりも旧植民地であったインドネシア的要素の美術の影響力が強かったことに加え、第二次大戦の結果「日本のせいでインドネシア植民地を失った」という事実が反日感情に火を付けた結果、日本美術の自国への影響を検証しようという努力を放棄した可能性が高いそうで。
と云うこともあってか、今日知られる画家ゴッホへのジャポニズムの影響は1886年にパリに出て来て、当時のジャポニズムの大流行の中に身を置いたことが原点とされています。
もっともゴッホのジャポニズムの影響は直接的なものではなく、まず印象派の明るい色彩の絵から入ったと考えられています。
それでもゴッホを、あの原色に近い大胆な色面表現に踏み切らせたのは、浮世絵の模写を通じてでした。
手法としては、浮世絵の上に半透明の紙を置いてまず輪郭線を敷き写し、その紙に格子状の線を引いてカンヴァスに拡大模写を。ここまでは所謂「トレース」ですが、彩色に当たって色彩の彩度を高め、より鮮やかに描き出したのがゴッホの特徴。
ちなみにパリ時代の油彩によるこの浮世絵模写は現在三点のみ残されており、ゴッホはこの「浮世絵模写」という行為を通して初めて、西洋絵画の伝統から解き放たれ、全く新しい色面表現に移行するきっかけを掴みます。
そしてゴッホのジャポニズムは、単に日本風のモチーフや描法、様式を取り入れるだけに留まらず、浮世絵の鮮やかな色彩世界を通じて、陽光に満ちた国「日本」を夢見始め、彼は「日本の太陽」を求め、南フランスへと向かいます。これがかの「アルル時代」ですね。
このアルルでゴッホは芸術家の共同体を作りますが、結果的にこれに賛同したのはゴーギャンのみで、しかも周知の通り僅か二ヶ月足らずで崩壊します。
以後、ゴッホの作品からは日本的モチーフは殆ど見あたらなくなりますが、この辺については解答編で改めて解説することとして、ここで今回のクエスチョン。
ゴッホはこの共同体の名に『ある色』の名を冠していますが、浮世絵から連想したと考えられている、この『色』とは一体何色だったでしょう?