異文化交流クイズ、ジャポニズム特集第5回はマネ、ドガ、モネ、ゴーギャン、ゴッホらの前衛的画家が中心となった「前期印象派」についての纏めの出題です。
印象派の画家達と日本美術の関係を示唆する文章が本格的に現れるようになったのは1870年以降。
以下の証言は時代的には更に後のものとなりますが、大変分かりやすいので引用。
パリで開かれた「歌麿と広重」展を観覧した印象派の画家ピサロのものです。
『日本の展覧会でモネに出会った。やれやれ、この展覧会は我々が正しいことを示してくれたよ。驚くべき印象派風の灰色の夕日が幾つもあるんだ』『日本の展覧会には感服する。広重は素晴らしい印象主義者だ。私もモネもロダンも夢中になってしまった。私が描いてきた雪や洪水の効果に満足しているよ。日本の芸術家達は我々の視覚的な偏りに確信を与えてくれるのだ』
ただこれは何処までも一方的な隷属的模倣を行った結果のものではありません。丁度19世紀後半のフランス。従来のルネッサンス以来の絵画の表象体型が崩れ始め、表現の重心が線と明暗と空間から、色彩と筆触と平面へと移行しつつあった時代。袋小路に陥っていた従来の絵画や工芸品に、新しい方向性、新しい美的価値を付与する必要があった時代。そうした時代にまさにタイムリーに日本美術はもたらされ、フランス美術の刷新を促す触媒となった、というわけですね。
そして一番上でサラリと書きましたが、フランスの絵画に斬新な風を吹き込んだ前期印象派の画家達を、現在の我々はごく普通の「絵画」として認識していますが、当時としては「前衛芸術家」そのものだったのです。だからこそ彼らは自分たちの「正しさ」の裏付けを求め、上の証言のこの部分が意味を持つわけです。
『日本の展覧会でモネに出会った。この展覧会は我々が正しいことを示してくれたよ』
『日本の芸術家達は我々の視覚的な偏りに確信を与えてくれるのだ』
そして事実、印象派世代の全画家に日本美術の本質的な影響があったわけではなく(セザンヌなどは浮世絵版画に批判的な証言が残っていますから)、しかも明らかに日本の浮世絵の影響を受けている画家たちでも、彼らは自分なりに浮世絵版画を咀嚼し、新たなる絵画を生み出したわけです。
印象派の擁護者であったシェノーの以下の証言はそれを端的に示しています。
『聡明にも彼ら(印象派画家たち)は、自らの才能の上に否応なしに及ぼす働きかけを統御することが出来た。各々が日本美術から、己の天与の才と最も近い類似性を秘めた特質を吸収したのである』
さてそんな初期ジャポニズムですが、1876年のパリ万博の後、画家や批評家、そして何故かセーブル陶器工場の工芸家らの最初期のジャポニザン達は『シャングラールの会』というものを結成していました。一説には共和主義を奉じる政治的な集まりに近いものと云われていますが(当時のフランスはナポレオン三世の第二帝政下)詳細は今も不明です。
ただフランスのジャポニザンの政治的立場としては共和主義者が多かったらしく、これは彼らが美術においても古典主義、アカデニズム、貴族主義などを否定し、自然主義、印象主義、民衆性に連なる価値観を支持する者たちが多かったからだと考えられています。
……形式上、浮世絵はどこまでも「バリバリの封建制」の下で生まれたものから考えると少々皮肉な話ですけれど。
さてここで今回のクエスチョン。この『シャングラールの会』。文字通りの意味で云うと、日本の『とある飲食物』を愛好する者たちの集い、ということになりますが、それではそのその『とある飲食物』とは一体なんでしょう?
ヒントとしては、その『とある飲食物』、中には絶賛する人々もいるのですが、概して幕末維新期に日本にやってきた外国人達にはあまり評判は宜しくないですね。
印象派の画家達と日本美術の関係を示唆する文章が本格的に現れるようになったのは1870年以降。
以下の証言は時代的には更に後のものとなりますが、大変分かりやすいので引用。
パリで開かれた「歌麿と広重」展を観覧した印象派の画家ピサロのものです。
『日本の展覧会でモネに出会った。やれやれ、この展覧会は我々が正しいことを示してくれたよ。驚くべき印象派風の灰色の夕日が幾つもあるんだ』『日本の展覧会には感服する。広重は素晴らしい印象主義者だ。私もモネもロダンも夢中になってしまった。私が描いてきた雪や洪水の効果に満足しているよ。日本の芸術家達は我々の視覚的な偏りに確信を与えてくれるのだ』
ただこれは何処までも一方的な隷属的模倣を行った結果のものではありません。丁度19世紀後半のフランス。従来のルネッサンス以来の絵画の表象体型が崩れ始め、表現の重心が線と明暗と空間から、色彩と筆触と平面へと移行しつつあった時代。袋小路に陥っていた従来の絵画や工芸品に、新しい方向性、新しい美的価値を付与する必要があった時代。そうした時代にまさにタイムリーに日本美術はもたらされ、フランス美術の刷新を促す触媒となった、というわけですね。
そして一番上でサラリと書きましたが、フランスの絵画に斬新な風を吹き込んだ前期印象派の画家達を、現在の我々はごく普通の「絵画」として認識していますが、当時としては「前衛芸術家」そのものだったのです。だからこそ彼らは自分たちの「正しさ」の裏付けを求め、上の証言のこの部分が意味を持つわけです。
『日本の展覧会でモネに出会った。この展覧会は我々が正しいことを示してくれたよ』
『日本の芸術家達は我々の視覚的な偏りに確信を与えてくれるのだ』
そして事実、印象派世代の全画家に日本美術の本質的な影響があったわけではなく(セザンヌなどは浮世絵版画に批判的な証言が残っていますから)、しかも明らかに日本の浮世絵の影響を受けている画家たちでも、彼らは自分なりに浮世絵版画を咀嚼し、新たなる絵画を生み出したわけです。
印象派の擁護者であったシェノーの以下の証言はそれを端的に示しています。
『聡明にも彼ら(印象派画家たち)は、自らの才能の上に否応なしに及ぼす働きかけを統御することが出来た。各々が日本美術から、己の天与の才と最も近い類似性を秘めた特質を吸収したのである』
さてそんな初期ジャポニズムですが、1876年のパリ万博の後、画家や批評家、そして何故かセーブル陶器工場の工芸家らの最初期のジャポニザン達は『シャングラールの会』というものを結成していました。一説には共和主義を奉じる政治的な集まりに近いものと云われていますが(当時のフランスはナポレオン三世の第二帝政下)詳細は今も不明です。
ただフランスのジャポニザンの政治的立場としては共和主義者が多かったらしく、これは彼らが美術においても古典主義、アカデニズム、貴族主義などを否定し、自然主義、印象主義、民衆性に連なる価値観を支持する者たちが多かったからだと考えられています。
……形式上、浮世絵はどこまでも「バリバリの封建制」の下で生まれたものから考えると少々皮肉な話ですけれど。
さてここで今回のクエスチョン。この『シャングラールの会』。文字通りの意味で云うと、日本の『とある飲食物』を愛好する者たちの集い、ということになりますが、それではそのその『とある飲食物』とは一体なんでしょう?
ヒントとしては、その『とある飲食物』、中には絶賛する人々もいるのですが、概して幕末維新期に日本にやってきた外国人達にはあまり評判は宜しくないですね。