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うだうだ帳

心がヒリヒリするときにイタイ文章を書いています。
実生活は“うだうだ”していないので、そっとしておいてやってください。

今更ですがe-Taxのこと

2009年03月23日 12時40分45秒 | Weblog
今更ながら確定申告の話。

大阪国税局税務署から『e-Tax準備マニュアル』が送られてきたが、これを読むとますますe-Tax(電子申告)はやめようと思った。

まず住民基本台帳カードを入手して、電子証明書を発行してもらう。この手数料が1000円くらい。そしてICカードリーダライタを購入。これが3000円から。

これだけの支出で電子証明書等特別控除(e-Tax控除)はたったの5000円。それは知ってたけど、マニュアルを読んで初めて知った衝撃の事実。


市町村が発行する住民基本台帳カードの種類によって、使用できるICカードリーダライタの種類が異なりますのでご注意下さい。
(P2 「3 ICカードリーダライタの取得」)

引っ越しを繰り返している私のような人間は、そのたびに3000円~の出費がいるようになることもあることになる。
e-Taxしてる人っているのかなあ。

ぎりぎり確定申告

2009年03月11日 14時14分40秒 | Weblog
ちょっと焦ってきて確定申告の書類を作った。

こうして計上してみるといろいろ思うところがある。非常勤の「給与」から原稿料の「報酬」にシフトしていければいいな。書斎にクーラーを付けてPCも新調したので必要経費がすごいことになった。税務署に呼び出されると鬱陶しいので、毎年のことだが内訳の表を作って入れておく。

入力してもしなくても影響しない額だけど、今後のために株式の損失もきっちり申告した。今まで申告書Aだったのが申告書Bで、いったんデータ入力してから第3表に戻るのがややこしかった。

いつもネット上で作ったのをプリントアウトして送っている。毎年郵送だったけど、今回から安いクロネコのメール便にするつもり。

↓貧乏書生の生活術の確定申告のページです。

確定申告に行こう

鬱病に厳しい私

2009年02月12日 09時01分37秒 | Weblog
8年前の今頃、私は死ぬことばかり考えていた。大学に出講しなくてもいい時期だったので、化粧もせず着替えず一日中灰色の寝間着のまま布団の中にいた。瞬きをするのも瞼が重かった。トイレに行くために起きあがるのも一大事だった。そもそもトイレに行きたいかどうかもわからなくなっていたので、失禁さえしていた。

夕方からは少し動けるようになるので簡単な夕飯だけは作った。それだけでマラソンを走ったかのように疲れ果てた。冷蔵庫では野菜が腐って水になっていくのに、宅配をストップする電話が怖くて掛けられなかった。動ける間に自分のにおいのするもの、手紙や写真を手当たり次第にゴミ箱に入れた。積み上がったモノの下には虫がうごめいていたが、驚いたり気持ち悪がったりする気力もなかったのでそのままにしていた。

体のあちこち、顔にまで湿疹が出ていた。歯を磨いていなかったし風呂もろくに入らなかったので臭かったと思う。どうしても外出しなければならないときは黒い服しか着ることができなかった。本屋に入ると万引きに間違えられた。

鬱病は、汚らしい病気だ。そんな汚らしい病気を仕事仲間にカミングアウトしたのは、緩解して久しぶりに片づけた部屋に締め切りの過ぎた振り込み用紙や返事を書いていない手紙が大量にあったり、学界の重鎮が亡くなったことも知らなかったりして、自分があちこちにとんでもない迷惑を掛けて不義理をしていたのではないかと不安になったからだ。事情を説明して謝りたかったからだ。

最近、自分が鬱病であるとカミングアウトする人に会うことが多いのだが、そのたびに私は「この人があの私が罹っていたのと同じ病気なのだろうか?」とまじまじと相手を観察してしまう。カミングアウトする人に共通しているのは、まず、きっちりお洒落して外出できていることだ(しかし勉強・仕事はできない)。次に、辛い、悲しいと具体的に言葉にする。そして真面目な性格の人が罹るということを自ら言ったり、言われて同意するのを好む。

病人にはやさしくするくらいの常識はあるので静かに聞いているが、“本当に鬱病だったら、あんな汚らしい病気にかかっていることなんて、必要もないのに告白しなくていいよ”、そんな気持ちが心の中に渦巻いている。“それはただの思春期じゃ”と毒づいているときもある。本人すら鬱病と思い込んでいる詐病のようなものではないのかと怪しんでしまうこともある。

鬱病事情に疎くなりつつある私、最近の鬱病っていうのは昔のと違っているんでしょうか。

「貧困」ならカッコイイのか

2009年02月05日 16時05分00秒 | Weblog
江草さんが01月28日の日記「甘えるなよ奨学生!」 にも書かれているように、旧育英会こと日本学生支援機構は金融機関でつくる個人信用情報機関に滞納者の情報を通報する方針を正式発表した。このことは、昨年の10月にはニュースになっていて、本家サイト「貧乏書生の生活術」で記事を引用していたので、ついにきたかという感じだ。

私自身は払うのが苦しくて遅れたことはあっても、踏み倒すつもりはまったくない。わざわざこう書いて笑ってしまうほど、当たり前のことだ。借りたものは返す。

なのに、先の江草さんの記事にあるように、「滞納者のブラックリスト化につながる」と反発している学生さんがいるのだとか。うーん、学部の分だけだったら、たとえば携帯解約したら払える額じゃない? 借金返すために何か我慢するのって当たり前のことでしょ。それに日本学生支援機構、私も経験あるけど結構親身に相談に乗ってくれる。本当に必要な人には免除の制度もあるし。借金なのに、返せなくなったときどうなるか確かめてから借りなかったのかなあ? 

…というわけで必死に払っている者としては、“私より裕福で滞納している奴”は全員即ブラックリスト化に賛成~。

この記事を読んで、最近流行の「貧困」という言葉を思い出した。くだんの学生さんが使っているかどうかわからないけど。なんだか「貧乏」は恥ずかしいけど「貧困」と言えばかっこいい、「貧乏」は自己責任も問われるけど「貧困」なら被害者で、もう貧困に到った経緯を問われない、何を主張したって許されるというイメージが付きつつある。かつて「清貧」がたちまちのうちに俗な言葉になったように、「貧困」も今や言ったもん勝ちの利己的な言葉になりそうな雰囲気があると感じる。

これから奨学金頼りに研究者を目指すという大学生が、奨学金返済のことを心配しているので、
「自分が研究者になれないなんてあり得ないと思うくらい自信がないと。それに万一ダメで貧乏になっても後悔しないくらい研究が好きでないと」
とか、
「自分が返せなくなることを予想できないくらい頭が悪いのなら、大学院に進学しない方がいいと思う」
とか言って嫌われた。

同窓会に来ない人がんばれ

2009年01月26日 01時03分23秒 | Weblog
「同窓会に来るヤツはな、特に男は、勝ち組やねん。勝ち組しか来えへんねん」
いつもみんなを笑わせていたQが、どんよりした目のおっさんになっていた。
「おれみたいなヤツはホンマは同窓会に来えへん。おれはな、はっきり言ってドン底よ。商売ももうあかん。嫁はんも出ていってもうた。もうな、どうしようもあらへん。犯罪犯すか死ぬしかあらへんのよ」
Qの前には空になった焼酎のお湯割りのコップがいくつも並んでいた。Qの目は据わっていた。

Qがこんなになるなんて。私たちみんな小学生だったね。子供だった。無邪気な子供だった。

貧乏だけどいつもにこにこしている子がいた。自分は朝鮮人だと公言して憚らない子がいた。障害があっていじめられても怒りながら仲間に加わってくる子がいた。

苦しいことや残酷なことはみんな、無邪気な陽気さに包んで笑い飛ばしてすませていた。大人になったらもう笑い飛ばせない、重いことがらの数々を。

酔いつぶれたQが一瞬だけしゃきっとして言った。
「でもおれは来た! おれはみんなに会いたかった! みんなと話がしたかった!」

先生がずっとQに話しかけていたので、Wが小学生の時と同じ顔で「Qが先生を独り占めしとる」とぼやいた。Qは先生にしかられた小学生みたいに、うつむいて時々うなずきながら先生の話を聞いていた。

がんばれQ。超がんばれ。
そしてちょっとだけ嘘ついて、弱みを隠して来た人がんばれ。
そして同窓会に来ない人がんばれ。
そしてがんばれ、このあたし!

握手

2009年01月14日 11時04分16秒 | Weblog
彼は小学校の頃からの幼馴染みで、私の初めての「ボーイフレンド」だった。

彼は子供の頃からずばぬけて頭がよかった。勉強ができるだけでなく、絵もうまかったし、音楽を愛していた。彼の父は蔵書家だったので、私はよく本を借りた。私が専門外の理系の学問にも興味を持ち続けているのには、少なからず彼の影響があると思う。大人びた彼がしょっちゅう私を幼稚だ幼稚だとからかうので、私はムキになって彼の薦める本を読んだ。レオナルド・ダ・ヴィンチについての本や相対性理論の本。きっと気に入るからと薦めてくれた数学の本。今思い返しても、私の嗜好の壺にはまり、かつハードルが高い本という絶妙の選択だ。考えてみればあの頃彼は小学校高学年の子供か中学生だったのだから、恐るべき早熟である。

自意識過剰な思春期の時期には、彼の存在は時にややこしかった。私は彼が大好きだったし、独り占めしたかった。正直に書くと、彼が恋人だったらいいのにと憧れたこともある。当時の私は、自分の恋人になるのは自分より頭がよくて(すみません今はもっと謙虚です)尊敬できる男子でなければならないと考えていたので、その対象は彼しかいなかった。しかしそう思い詰めて彼に会うと、目の前にいるのは頭の中で美化された彼ではなく、人を小馬鹿にする老成した中学生なので、「いやいやあれは気の迷い」と思い直すのであった。今こんなことを話せば彼はきっと大笑いするだろう。

あの頃の自分にとって彼の印象はあまりに強烈で、彼から受けた影響はあまりに大きく、今となっては自分が彼に抱いていた感情が何だったのかよくわからない。私たちの関係は、すばらしく出来のいいお兄ちゃんと、お兄ちゃんと対等に口を利こうとして必死の生意気な妹のようなものだったと思う。

井上陽水とビートルズのファンだった中学生の私に、彼はたくさん洋楽のレコードを貸してくれた。補導されないかと緊張しながらYMOのコンサートに行った。高校の頃は学校の英語がつまらないからと、一緒に洋書を読んだ。私はこれをきっかけに洋書を読む習慣を持つようになった。

私たちは学校は違ったけれど、同じ予備校に通った。私も恐ろしく頭のよかった彼もいわゆる受験勉強をろくにしてこなかったため、見事に浪人したのである。何もかもマニュアル化され情報が行き渡っている今と違って、当時の私たちには受験勉強の必要性が理解できていなかった。彼は私が浪人したのには自分に責任の一端があると思ったようだが、それは違う。数学の問題のよりエレガントな解き方を考えたり、英英辞書で洋書を読んだりするのが好きなのは、私自身のもともとの資質だ。だからこそ彼と気が合ったのである。気まずい顔をした彼に、私は腹をくくって「かっこわるい受験勉強」をしようと言った。そして私たちはそれぞれの道に進み、下宿を始めた彼は、いつものように突然ふらりと家にやって来ることもなくなった。

それからは人づてに近況を聞くくらいで、彼に会うことはほとんどなかった。彼のことを思い出し、話したいと思うことはあっても、大人になった私には無邪気に彼と連絡を取ることができなかった。小学生だった自分や文学少女を気取っていたイタイ時代をよく知っている彼に会うのは気恥ずかしいものがあったのだ。

もう十年以上前のことかもしれない、記憶が定かではないが、彼と久しぶりにばったり出会ったことがある。彼は変わっていなかった。いつもとんがっていた彼がごくまれに見せた、あのなにか気まずいような、はにかんだような笑顔。彼は小学生の時に話していたとおり医者になり、私は大学院を経て研究者になっていた。研究テーマについて話すと、彼はしみじみと「昔っからそういうのが好きやったもんなあ」と言った。それを聞いて私は、論文を書いたり大学で講義をしたりする自分の仕事が、子供の頃初めて感じた知的な喜びや、物書きになりたいという思春期のこっぱずかしい夢と、一直線に繋がっていることに思い至ったのである。そしてあの頃私の隣には、いつも彼がいたのだ。

思い返せば彼を通して私が得たものはとてつもなく大きく、逆に私が彼に与えたものが何かあったかと思うと申し訳ない気がする。しかし私たちは夢見る子供時代と理想に燃える思春期を共有している同志だ。大人になって現実に降参しそうになってからも、私が彼に対してそうであるように、彼にとっても私は「あいつにはかっこわるいところを見せられない」という存在だったのではないかと思いたい。

ヘタレの私が息も絶え絶えに研究を続けている一方で、彼は医師として活躍し、事故で車椅子生活を強いられた後も、新しい人生を切り開いてより活発に仕事をしていた。まったく前向きにも程がある。彼がやろうとしていたことそのものには賛成しなかったかもしれないけれど、幼い頃からの同志としては、彼が目指していたことはよく理解できる。彼という人は、地位や名誉は念頭になく、あのあほみたいな純粋さで苦しむ人たちのために情熱を傾けていたに違いないのだ。

しばらく話した後、なぜか彼は別れ際に右手を差し出した。私はわけがわからないまま笑って握手し、「相変わらずT君はヘンな奴やなあ」と思いながら帰途に就いた。長いつきあいだったが、彼と手を繋いだことはなかった。彼の手はごつくて、でも意外と柔らかかった。

それが彼と会った最後である。彼は若くして死んで、もうこの世にいない。

ただ一筋の光となって

2009年01月12日 16時57分12秒 | Weblog
かわいがっていたセキセイインコの“ちとこ”が死んだ。固く動かなくなったちとこを私は庭に埋めた。しばらくたって、またちとこと会いたくなって庭を掘った。土の中からぼろぼろになったセキセイインコの死体が出てきた。ちとこはもうどこにもいないのだ、とわかって、小さな私はしくしく泣いた。

ちとこが死ぬということは犬も人間も死ぬということだ。ジョンもお父さんもお母さんもいつか死ぬ。私もいつか死ぬ。そう思うと眠れなかった。夜が来るのが怖かった。夜の暗さは星のない宇宙の暗さと繋がっていて、死んだ人はそこに引きずり込まれるのだった。私は何日も布団の中でしくしく泣いた。何で泣くのだと聞かれて、「みんないつか死ぬから」と答えると、大人たちは笑った。こんな恐ろしいことをどうして笑えるのか、いつか死ぬのがわかっているのにどうして平気なのか、私にはわからなかった。

おじいさんが死んだとき、お父さんが泣くのを見なかった。子供がいないときに泣くのかもしれないと私は思った。おばあさんが死んだとき、お母さんは派手に泣いたが、いつもどおりご飯をもりもり食べていた。人が死んでも毎日はふつうに過ぎていく。

子供の頃の私が見たら、今の私は大切な人が死んでも平気でふつうに暮らしている大人に見えるだろう。いつもどおり洗濯を干し、仕事に行き、ご飯を食べている。

でもこの悲しみをどうしたらいいのか、私は今もわからない。一緒に悲しんだ人たちも、何年もたった今、平気になってしまったように見える。今も悲しんでいたら、大人としてあきれられるかもしれない。でも私は悲しい。悲しくて悲しくてたまらない。なのに子供の頃に持っていた泣く力は退化して、涙の回路は閉じられて、悲しみは澱のように溜まっていく。悲しいというより苦しい。苦しいというより心が痛い。痛みは時間が経つほどに広がって、平気なふりをする方法がもう私にはわからない。

大切な大切な人たちが、何人も死んでしまった。それまでいた人がこの世からいなくなるということが、どういうことなのか私にはわからない。みんなどこに行ってしまったというのだろう。

死んだらどうなるのだろうか。死んだら何もかもなくなるのだろうか。どうか魂のようなものがあって、あの大きな闇の中を、自由に飛び交っていてくれますように。そこでは年上であるとか年下であるとか、男であるとか女であるとか、社会的な立場や地位や利害関係のしがらみはもう何の意味もなくなっていて、不自由な肉体を脱ぎ捨てた私たちは、ただ一筋の光となって、大切な人たちと繋がることができるのだ。

まるくなるということ

2009年01月09日 09時15分48秒 | Weblog
疾風怒濤の二十代を送った先輩が三十代にくれた手紙に、

 二十代だから美しかったこのようなことどもが、
 今もなお続いているのが苦しい。

と書いてあった。先輩は三十代で亡くなったので、そのとんがった精神を持て余しながらも最後まで抱えていた。でも今になって思うと、何かものを生み出す仕事をしている人間として、無意識のうちに丸くなるのを拒否し、とんがった部分を保とうとしていたような気もする。

昔の友達について書かれた文章を読んでいたら、gentleという単語がたくさん出てきた。gentle(^-^;) あっ思わず顔文字を使ってしまった…そういわれれば、あの余裕たっぷりの笑顔には妙に包容力を感じさせるところもあった。

でも私は、彼のとんがったところ、

いきなりスキンヘッドにしてきて機嫌悪かったあの横顔や、
人の心をまっすぐ突き刺すようなあのきついものの言い方や、
ぬけぬけと自惚れたことを口にするあの横柄な態度が、

結構好きだったな。そのくせ吃音が出たときふと見せる気弱な表情も。それからgentleな方ではなくて、あのきまり悪そうな、ちょっとはにかんだような笑顔も。

とんがったところはおたまじゃくしの尻尾がなくなるようになくなるのだろうか。可愛い奥さんと暖かい家庭を手に入れたことで彼の尻尾はなくなったのだろうか。それとも尻尾がなくなったから奥さんと巡り逢ったのか。

そこの所を聞いてみたい。私ね、ええかげん年食って、みっともなくないようにまるくなったふりをしてるのだけれど。

まるくなれないんだよう。

日記才人に感謝

2007年06月30日 11時10分13秒 | Weblog
こんな見得を切ってるのに(一つ前の日記)ノコノコ帰ってきたりする。
でも今日だけです(たぶん)。一言言いたくて。


日記才人よ、ありがとう!


私が日記サイトに登録したのは「うだうだ帳」という日記だった。番号は12123。
その当時は鬱病で通院中で、「うだうだ帳」は投薬も終了したころに一度中断した。

いい時代にウェブ日記を書いていたと思う。
今なら星の数ほどのブログに埋もれてしまっているか、痛い人として晒されていたことだろう。

その後「もうちょっとうだうだ帳」を引き続き書いていたが、だんだん書くことに意味が見出せなくなってきた。また、このまま書き続けると、家族が特定できて迷惑がかかる虞が出てきたので、やめた。

多くの人が日記を書くのをやめられたのだろう、マイ日記サイトには8つだけ残っていた。今でも読んでいるものが多い。
こぼれぴょん記
日々の雑記
「学問無宿」の部屋
餌をやれ!
こちら猫族@へたれ研究室
うさたろう日記
小説:科学者トホホ日記
憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向日記


管理人さんありがとうございました。
あのころ私の日記を読んでいてくれた人、相手をしてくれた人、ありがとうございました。


今の私。
ポリープが出来るやら血尿が出るやら、でも今すぐどうこう言うわけでもなく健康。
研究を十何年ぶりに楽しいと感じている。
最低限の暮らしが出来るほどは稼いでいる。
まあ、これも幸せというものかもしれません。