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うだうだ帳

心がヒリヒリするときにイタイ文章を書いています。
実生活は“うだうだ”していないので、そっとしておいてやってください。

新緑の道路

2011年04月03日 23時53分51秒 | Weblog
あっという間に4月!
ちょっとハイで、何かいろいろなことができそうな気分になる一方、めんどくさくて少し不安な新年度が始まる。

4月といえば思い出す、詩のような文。
高山辰夫の文だ。1999年まで『文藝春秋』の表紙絵を描いていた画家。高山は表紙絵に毎回短い文章を添えていたが、その文章は時に詩のようで、絵よりも印象に残った。たとえば、1992年4月号。去年、BBプラザの展覧会で見て書き写した。


 新緑の道路
出かける道に 車窓に
新緑は強くふき出し 花はあわたヾしく咲く
あヽあの いつも知っている四月か
今の自分を忘れて 自分に戻る
画家になろうと学校へ向った日の事かも知れない
画家になる以前の日の事かも知れない

名詞がイヤ

2011年04月02日 00時42分11秒 | Weblog
「思い」っていう言葉がなんか、苦手、というか、イヤ。ミドドではなくドミドっていうアクセントの「思い」。

「気づき」っていう言葉も。うさんくさい啓発セミナーでバンバン使われているイメージを勝手に持っている。

なんだろうこの違和感、いやもっと言ってしまえば嫌悪感。私、名詞化するのがイヤなのかなあ。「思う」も「気づく」も「思い」「気づき」って名詞化するとなんだか専門用語みたいになるなあ。一部の閉じた人たちで使っているみたいな。「思う」「気づく」で何があかんの。

難聴の父が病院で、なんぼ聞こえへんねんゆうても大きい声でゆうてくれへんからわからんのや、とぼやいていたので、付き添ったときにスタッフの人たちに「“聞こえ”に問題があって…」と言ってみた。その後対応が改善されたのは、“聞こえへん”ではなく“聞こえ”という名詞を使ったからなのかどうか、それはわからない。

「自粛」は一種の罪悪感を軽くする魔法の言葉だ

2011年04月01日 01時26分24秒 | Weblog
日本人の「空気を読む」力は飛躍的に向上したようだ。阪神大震災の時、震災に無関係の人々は、被災者がこの世の地獄を見て辿り着いた避難所のすぐ向こう、ポートピアランドのジェットコースターで日ごと歓声をあげていた。それが今回の災厄では、今後じわじわと影響が出ることの予想はされこそすれ、今現在震災以前と何の変わりもなく生活している人達ですら、気分の浮き立つことすべてを自粛しようとしている。

被災地から遠く離れて何の支障もない場所で、様々な行事を自粛するのがいいことなのだろうか。自粛した行事で使うはずだった金銭をそのまま被災地に寄付するのならまだわかるが(私が関係者なら、義捐金にしようと思う)、必ずしもそうではないようだ。華美なことを慎んでおりますという趣旨で料理が一皿減ったとき、その一皿分の代金はどこへ消えるのか。節電しておりますという薄暗い建物の、その電気を関東に送れないなら使うはずだった電気代はどこへ行くのか。これは自粛という名の、被災者を利用したサービス低下ではないのか。

春は元来行事の多い季節だ。たとえば花見のころよくある桜祭りなどというイベントが中止されると、ステージを企画していたイベント会社はあてにしていた大きな収入を失うだろう。そしてそれに付随して、ドサまわりで食いつないでいた芸人、出店を出そうとしていた地元の食堂……みな大幅な収入減となる。自粛した行事に関わる仕事をしていた人々にとって、それは経済的な痛手だ。零細企業なら存続に関わる。今それどころではなくてみんな忘れてしまったのかもしれないが、日本は大変な不況だったのだ。倒産の危機に瀕していた小さな会社や個人事業主にとって、今回の「自粛」は最後の一撃になるだろう。だがその人たちはおそらくは日本人らしく「空気を読んで」、自粛についての恨み言を言わない。そしてこういうときのお決まりとして、何人かの社長は追いつめられて死を選ぶだろう。家が津波で流されたわけでもないのに。

日本に住んでいる限り地震はロシアンルーレットのようなもので、関東の惨状は他人事ではない。何か、手助けになることがしたい。しかし今のところ、特殊な技能を持つわけでもないふつうの人々には、義捐金を振り込むことくらいしかできることはない。連日の報道を目にするたび一種の罪悪感のようなものが増幅され、そのやり場に困ってしまうのだ。自粛、という一言はその重い気分を少しだけ軽くする魔法の言葉だ。自粛したからといって東日本で何が変わるというわけでもないのに。

西日本の私たちの多くは、今のところ震災とは無関係の安全な位置にいる。これから予定されていた華やかな行事は、主宰者や参加者がもうそんなことをする気分になれない、という場合、大枠を利用して、そのまま東日本を応援する別のイベントに転用できないだろうか。空気が読めない私は、今、次々に自粛されていく行事にそんなことを考えているのである

100パーセントで分かりあえなくても

2011年03月28日 23時07分50秒 | Weblog
論文を書く人たちと売り物の文章を書く人たちとの間には暗くて深い河がある。編集課の人たちとうまくいかなくて、どうしても妥協できなくて仕事を降りた研究者も見てきた。その気持ちはとてもわかる。私も苦悩wと自嘲で生活のため売文業をやっているのだから。

でもいったん仕事を始めると依頼主と私は運命共同体だ。お互い決死の思いで暗くて深い河の向こうにロープを投げ、危うい吊り橋を作って共同作業を始める。そのうち私たちの間には、なんというか、一種の友情のようなものが芽生えるのだ。

もちろんたいていの場合、仕事を離れると私たちに共通項はなく、友達になることはないのだけど。何だろうあの感じ。同じ釜の飯を食った仲間というようなものかな。

子供の頃からの友人は私の生い立ちに同情してくれるけど、まっとうな家庭で育った彼女が私の苦しみを100パーセント理解してくれることはないだろう。企業でバリバリ働く友人とは働く女の苦労を語り合ってきたけど、研究者の世界のややこしさを100パーセント理解してくれることはないだろう。専業主婦の友人とは家庭のことや親戚付き合いの煩わしさを慰め合うけれど、彼女には私の仕事のことは理解できない別世界だろうし、私も働かない生活が完全には想像できない。院生時代から一緒に泣き笑いしてきた友人達も、非常勤のしんどさを本当にわかるのは不可能だろうし、私も専任ゆえの責任の重さを頭でしか理解できていないのかもしれない。

でもそれでもいいのだ、私は。100パーセントでわかりあえなくても。ダイアモンドの分子結合のように強力に結びつかなくても、ゆるい金属結合くらいでいい。

そして自分の一番大切な部分で結びついていられればいいな。それは仕事とか、価値観とか、生き方の流儀とか、人生の目的とかかもしれないし、もっと抽象的なものかもしれない。単に相手に関する情報不足ならまだ理解し合える部分が残されている。一番大切な部分で結びつかないのなら、それはもう仕方ないけど…。

というわけで50パーセント以上結びつけるような方、どうぞよろしくお願いします。

産めばいいと思うよ

2011年03月24日 19時02分20秒 | Weblog
ここ何回かのブログはうんこのことばっかり書いているような気がする。うんこ自粛。大人なんだから。


去年しばらく生理がないときがありました。…うんこ自粛したら生理かよ、とつっこまないでください。すごい! 何も気付かないうちに更年期を華麗に乗り越えたっ、と思ったのですが、単にストレスで一時的にそうなっていただけでした。でも、生理が来なくなったんだと勘違いしたとき私は自分でも意外なほどショックを受けました。

私は筋金入りの子供嫌いです。レストランなどで子供が騒いでいるとしばいたろかと思うくらい嫌いです。今はもういい大人ですから、そういう育て方をしている親の方が嫌いですが。でも子供っていうやつそのものは、今でも私にとっては汚くてうるさくて鬱陶しい存在です。

でも子供は産むべきだと思っていました。生物として産むべきだと思っていたし、わりと古い考えの人間なんでヨメとして産むべきだとも思っていました。今はちょっと違うけど、当時は子供を産まないのなら結婚する意味がないと思っていました。

でも、子供を産むということに興味はあったけど、育てることに関してはまったく興味はありませんでした。冗談で、実家の庭に捨てて置くから頼むと言ってましたが、少しばかり本気入ってました。私のような人間が子供を育てていいのかとも思いました。愛せなかったらどうしようかとも思いました。

私が子供を産んだとき、周りの人たちは虐待するのではないかと本気で心配していたそうです。

でも産んだらスイッチ入りますよ奥さん。可愛いですよ、子供。自分の子供だけですけど。

かつての私のように「自分のような人間が子供を産むなんて」と迷っている人がいたら、私はいつも言います。産めるんなら産んだらいいよ、何とかなるよ(経済的に厳しくてもまあ1人ッ子なら)、楽しいよ、って。友達夫婦を見ていると、この2人の子供なら楽しい子だろうなあと想像します。そして産んだ友達は実際大変大変と言いながらも楽しそうです。

子供がいてよかったとよく思います。私はわりとろくでもない育てられ方をして、就職もうまくいかず、結婚もコレ明らかに失敗してるけど、子供がいてよかった。


なんて書いてるけど、私は昔からずっとプロフィールには“ここの文章はノンフィクションだと言った覚えはありません。”と書いています。時々出てくる母思いの息子はエア息子かもしれませんよ?

線引きはできない

2011年03月23日 13時19分15秒 | Weblog
テキスト庵が今ごたごたしている。

私は話題になっているブログを書いていると疑われた方の日記をあまり読んでいないので、疑われている方がいるというのに気付かなかった。私の心配は、ブログで攻撃されている人がテキスト庵にいるのではないかということだ。

その攻撃的なブログが、単なる釣りではないのなら、どこにも吐き出せない思いのはけ口なのだろう。私自身、実生活では決して人に言わないような弱音やセンチな部分をここで書きつづっているので、同じように不快に思われていることもあると思っている。そういう点では、私の書いているものがとりとめもない内容なのに対して、あのブログが一貫して一人の人物を攻撃しているさまは、誤解を恐れずに書けば、清々しくさえある。

また、書き手が本人でなくても、そして誰が「なりすまし」ていても、攻撃対象が実際に存在しなくても、何かの象徴であっても、そんなことはすべてまったくかまわないと思う。
私にとっては出来上がった、そこにあるテキストそのものがすべてだ。


テキスト庵は、「本当の自分」を真摯に・健康的に・前向きに・直球勝負で書いたものだけを受け入れる場ではないと解釈している。仮に本人が自身の本当のことを書いたものしか受け付けない場であったとしても、登録されたテキストが毎回そういう条件を満たすものであるかどうか管理人が判断するのも不可能だ。毒を吐く人がたまに現れてもゆるくすべてを受け入れておけば、そのうち吐き尽くして流れていかれるのではないか。


風聞帳での【な】さんの、

もう一方の当該日記の方も、どうぞご安心して更新続けてください。

という言葉に、正直言ってほっとした。

テキストにはいろいろな形があると思う。そしてどこまでがよくてどこからがダメかの線引きは難しい。ちなみに、私は当該日記はダメだとは思わない。

ええかっこしいのDNA

2011年03月17日 13時40分39秒 | Weblog
私は、買い占めしません。

今、このときに「米やトイレットペーパーを必要以上に買うと、東北で被災者が死ぬ」と思うからです。

「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」くらいですから、きっと気付かないうちに人殺しになってしまうでしょう。私は人殺しになりたくありません。


実家のお庭は敗戦後GHQがやって来て名樹を切り倒し更地にされました。祖父母は駐屯していたGHQに食料をねだれと人に何度も勧められたそうですが、そのようなことは一切しなかったそうです。かつては祖父が芸者を呼んで酒宴を楽しんだお庭、祖母が四季の花を愛でたお庭だったところに物乞いに行くのは、彼らの誇りが許さなかったのでしょう。父の一家は配給だけで生活し、ほとんど栄養失調になっていたそうです。

母方の祖父は戦争で米兵に胸を打ち抜かれ、肺を片方なくして帰ってきました。祖父は助かりましたが同じ町から一緒に戦争に行った方は即死だったそうです。助けられなくて申し訳なかった、お国の役にも立てなかったと祖父は恩給など一切を拒否しました。そのため母は極貧生活の中、十分な教育を受けられず大変な苦労をしたそうです。母が性格的にいろいろ問題がある人なのはこの苦労と貧乏ゆえの僻みが多分に影響していると思います。それに私は苦しめられて来たわけですが。母が祖父について恨みがましいことを言ったのを聞いたことはありません。

そういう家に育ったものですから、私は買い占めに走るくらいなら迷うことなく飢えて死ぬことを選びます。私はええかっこしいなのです。

でも私には食べ盛りの子供がいます。自分はどうであれ子供にはひもじい思いをさせたくない。家にはまだ米がありますが、昨夜スーパーで米がなくなっていたのを見て、今日別の所へ買いに行った方がいいのではと心配になっておりました。他のものはどうでも、米がなくなったら…。

一夜明けてそんなことを話すと、買わんでいい、むしろ、買うなと子供は言いました。買い占めなくても大丈夫だし、買うと被災地の物不足に荷担することになると懇々と説明されました。もし日本の米が買えなくなったらタイ米でも食べればいい。日本の米と同じように炊くとまずいがタイ式に調理するとそれはそれでうまいのだ。一生のうち数ヶ月・数年間そんなときがあってもええやないか、と。それに加えて、買い占めは格好悪い。

子供も私のええかっこしいのDNAを受け継いでいるようです。この痩せ我慢がいつまで続くかわかりませんが、とりあえず、今まで通りの量しか買いません。

自分に酔えない

2011年03月04日 23時45分18秒 | Weblog
私がお洒落に今一つ入れ込めないのは恥ずかしがり屋だからかもしれません。

引っ越しまで洋服を買わないぞと決めているのですが、カタログを見ていると、とても素敵なワンピースがありました。水玉模様で、シフォンのふわふわした生地。私の好みそのままです。おまけに家で手洗いできる。思わずうっかり買ってしまいそうになりました。

が、カタログのコピーを見てそんな そわそわうきうきした気分が急速にしぼんで、冷静な自分がそこにいました。コピーには、こう書いてありました。


 ふと振り返る、
 その姿は、ヒロイン。


ヒロインwwwww
すごいコピーです。思わず草を生やしてしまう破壊力。こんなこと書かれたら買えません。

いそいそとこれを着て出かけるときに、きっと「ヒロイン気取りかよ」って自分につっこみを入れてしまいます。ギャグでこのカタログのポーズを取ってしまいます。いや、誰も私の着ているワンピースのことなんか気にしないのはわかっています。それでも、自分が嫌なのです。

結婚式のとき、友達がドレスで入場してきた私を見て、「あ、いつものように“てへっ”ってなってる!」と思ったんだそうです。そうなのです。わたしはものすごい恥ずかしがり屋で照れ屋なのです。自分の世界に入り込んでいるより理屈をこねている方が安心できます。

お洒落するには、まず自分に酔うことが必要なのだと思いました。

入試問題漏洩の真相

2011年02月28日 08時56分12秒 | Weblog
「ひるあんどん君、英語の入試問題なんか作れたりする?」
「なんとかできそうですが。」
「ありがとうー助かるわあ、ただでさえ大変やのに、入試の担当になってしもうて。」
「いえいえ私も助かります。」
「それから…このことはくれぐれも内密に。」
「わかってます。」

「関東のほにゃららって知ってる? あいつも今年入試問題作成で大変言うてるねんけど、頼まれてくれへんかなあ。」
「わかりました。過去問のコピーもらえますか?」

さすがに入試問題は気を遣うなあ。やっとできた。珈琲でも飲もか。休憩休憩。知恵袋っておもしろいなあ。「昨日彼女と大喧嘩しました」か。リア充め。ちょっと相手しといたろ。

「ひるあんどん君、おかげで毎年助かってるわあ。あのな、それで相談なんやけど、数学の問題はでけへんかなあ?」
「私文系ですよ。修士のときの家庭教師以来数学やってませんし。いくらなんでも無理です。」
「ほら、高校生の子供さんおったやん?」

予備校のテキストのバイトということにしといた。さすがに入試やとは言えんかったなあ。こんな親で情けないなあ。なんか気分が暗うなってきた。そやそや、こういうときは知恵袋見よ。「好きな人の気持ちが分かりません(ノ_・。)」。はあ? ちょっといじったろ。

「ひるあんどん君、例の件なんやけど…。京大のなんたらに頼まれて。」
「ええっ、ついに七帝まで外部委託ですか。」
「信頼してるよー頼むわあ。」

はあ。この時期まとまった収入があるのはいいけど、何してるんやろ私。いつまでこんな生活が続くんかなあ。最近また眠られへん。こんな時は知恵袋やな。「いい精神科・心療内科を教えてください」っと。

「ひるあんどん君、あのな、言いにくいねんけど例の仕事、今年限りっちゅうことでいいかな、うちとこな、大学から予備校に頼むようになってん。まあバレてもやばいし。」
「えっ、私は仕事の情報はバラしませんよ。…でも仕方ないですね。いろいろありがとうございました。」

はあ。けっこうあてにしてたのになあ。来年からどうしよう。なんか腹立ってきた。今頃受験生は必死やろなあ。あの問題、仕事にあぶれた研究者崩れが作ってるとも知らずに。

そうや、こんな時は知恵袋やな。

無邪気と可愛さ

2011年02月24日 12時03分03秒 | Weblog
自分では邪気まみれの性格だと思っていたが私は無邪気な人間らしい。無邪気にも程がある、と常日ごろ息子に言われている。早速雑誌のセリフをまねて「大人の女性が垣間見せる無邪気さが可愛いらしい」と言い返してやった。しかし無邪気と言われることでは人後に落ちないのに、たいしたモテ期が来ないまま人生を送ったのはなぜだろう。無邪気が可愛いんとちゃうんかい。

「朝目が覚めかけてうつらうつらしてるとき、母の足音がパタパタ聞こえるわけ。」
うんうん。
「ああ起きてるのか、と思ってると、家事しながら鼻歌歌ってるわけ。」
家事に鼻歌は世の母親の定番だしね。
「それが、今朝なんか“ひょっこりひょうたん島”…」
何があかんのか。
「なんで“ひょっこりひょうたん島”? しかも鼻歌とは違う。思いっ切りシャウトしてんの。“ひょっこりひょうたん島”で。」
そうやったっけ?
「無邪気やなあ…と、」
可愛さを感じる?
「…むしろ狂気を感じる。」

そういえば私の父親も無邪気としか言いようのない人だったが、その無邪気さに周囲の人間は大迷惑の日々だった。無邪気を可愛いに結びつけるには可愛らしく見えるための綿密な作戦と計算が必要で、無邪気さを微妙なさじ加減で小出しにせねばならんのだ。難しいことよ。


しかし鼻歌って無意識に出てくるけど、けっこう聞かれているもんなんだな。