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うだうだ帳

心がヒリヒリするときにイタイ文章を書いています。
実生活は“うだうだ”していないので、そっとしておいてやってください。

きょうだいなのに

2011年06月06日 00時42分11秒 | Weblog
睡眠時間3時間で親孝行ミッションしたら、居合わせたきょうだいからメールが来た。

( ゜д゜)

母親とそっくりの、言ったらすっきりするから言ってやるという書き方。私が傷つきそうなことを一生懸命考えた内容。勝手にそっちで僻んで妬んでるのにアンタより幸せだからねアピール。

今までは誠意を尽くして自分が悪いところを探して謝って関係修復に努めたけど、もう何年そういうことを繰り返しているのだろう。そうやって私が得るものは何一つなかった。ただただ消耗しただけだった。

見たくないからすぐ削除した。どのみち返事を求める内容ではないし。返事書かないのかと言ってきたらそれも削除しよう。

きょうだいだからわかりあわなければならないというわけでもない。きょうだいなのにわかりあえないのは寂しいけどそれを事実として受け入れよう。もう無駄に心をすり減らしたくない。

私忙しいし。
寝る!!

この自己評価の低さ

2011年06月01日 01時00分29秒 | Weblog
私の大変よくできた息子(エア息子疑惑あり)が、ここ数年、私に対して自己評価が低すぎるとイラついている。そういうのは謙虚とは違う、というのだ。彼のイライラの原因がいま一つわからなかったのだが、最近、卑下慢にもならないこの行き過ぎた自己評価の低さが、私の人生の迷走の原因(のひとつ)なのだという気が、突然した。

話せば長く、そして暗くなるので端折るけど、物心ついた頃から、少しでも気を許すと自己評価が最低ラインになって、どうせ私なんてと消えてしまいたくなるのが私の精神状態の基本なのだが、これを意識して変えようとこの齢になって決意したのだった。それはなかなか難しいことだったけど、かつては「どうせ私なんか」って言わないようにしていたことを突然思い出してからは、ちょこっとずつ修正できるようになって来た。

そうするとですねえ、いやあ、ふつうの自己評価だとなかなか快適ですね! 先日ものすごく腹立たしいことがあったのだが、以前なら反射的に自分が悪いからだと思ってずっとそれに囚われそうなところ、絶賛スルー中でございます。私は100パーセント悪くないとは言わないけど、向こうも悪いし失礼だと冷静に判断できる。自己嫌悪の中でフリーズしないでこれからどうすればいいのかも考えられる。この調子で行きたいものだ。


もっともっと自分を好きになりたい。--少し前、夏のように暑い日、郵便局とスーパーに行くだけだけど白い着物を着てみた。お気に入りの白い日傘を差してみると、自己評価アップキャンペーン実施中の身としては、しょぼいオバハンも気分は堀辰雄の小説に出てくるヒロインである。レジ袋のリンゴも重いの。だって結核に罹っていたりするのですもの。…しかしスーパーで見ず知らずの奥様にいきなり「すてきよお」と声をかけられて、うろたえて、たちまち挙動不審になってしまった。


次はにっこり微笑んで優雅にありがとうと言えるようになろう。

私がまだ歪んでいなかったころ

2011年05月29日 23時46分35秒 | Weblog
予備校生だった頃、X大は受けないでくれと大学生のボーイフレンドに言われた。私はなんで彼がそんなことを言うのかわからなかった。自分の大学よりずっと偏差値が高いX大に行かれるのはいやなのだ、と彼は言った。世間の人というのはそういうのを気にするものだし、僕自身もいやなのだと。

なんてスケールの小さい人なんだろう、と私は思った。幼馴染みのTくんだったら、じゃあがんばってX大に行けと言うだろう。遠くて下宿になるかもしれないけどY大もいいよと言うだろう。海外のZ大だって反対はしないだろう。彼はTくんの存在を知らなかった。Tくんのことは話さないで、そういう風に思わないのかというと、ボーイフレンドは、思わない、なぜなら好きだから、と答えた。

私はちょっとびっくりした。恋する気持ちというのは人をこんなにも愚かにしてしまうものなのか、と思った。そして幸せな気持ちにもなった。彼がそんな風に愚かなことを言うのは、他でもないこの私を好きでいてくれてるからなのだ、と。

ああ、タイムマシンであの頃の自分の真後ろから忍び寄って、ゴールデン膝カックンをかましてやりたい。愚かなのはお前だよ、と。ボーイフレンドは単なるセコイ男だった。

私はずっと前向きにがんばる健気で真っ直ぐな子供だった。幼馴染みのTくんは誰よりも私の夢を理解して、私には才能があると励ましてくれた。いつも私を力付けてくれたのだ。Tくんと一緒にいた10代が私にとって一番幸せな日々だった。

なのに、私が勝手に誤解して気まずくなって、私たちは離れてしまった。Tくんは私にとっては絶対に必要な存在だったのに。

思い返してみれば、あのころから私は迷走してしまったのだ。私を好きになってくれた人は何人かいたけれど、みんな私の才能を好きになってくれたわけではなかった。結婚相手だって、私のしようとしている仕事を理解してくれていたわけではなかったのだ。私はそれを薄々感じていていたのに、愛されているという安心感だけがほしくて、目を瞑って気づかない振りをしていた。そうして私はどんどん歪んでいったと思う。

私は自分の人生をリセットしたい。私がまだ歪んでいなかったあの頃に。Tくんはもうこの世にいないけれど、ここ数年堰を切ったようにいろいろなことを思い出して、忘れていたあの頃の気持ち、あの感覚を取り戻すことができたのだ。

私は自分の仕事に誇りを持ちたい。自分の才能を信じたい。そのためには、私の心が歪んでしまう人と人生を共にすることはできない。

わがままだと言うなら言ってもらってもかまわない。私は永遠に地上にいるわけではないのだ。残り時間は限られているのだ。

「どうせ私なんか」って言わない

2011年05月08日 01時04分34秒 | Weblog
ここ数年、なんだか自分が少しずつ変わってきた。

ずっと人生うまくいかない、生きにくいと思ってた。自分の一番しあわせだった頃みたいに前向きな気持ちになれないのはなんで? とずっとずっと思ってた。

最近、拗ねて捻くれて自分でうまく行かないようにしてるんや、ということにやっと気付いた。少なくとも、過去にそういうことがたくさんあった。どうせ私を誰も助けてくれない、私なんかに時間を割いてもらうのは悪い、そんな風にいつも思ってた。それなら死ねば? なんて自分で突っ込みたくなるけど、死なないし、社会生活を送ってる。それなら本当に価値のない人間だとしても、人様に助けてもらったり時間を割いてもらったりしないと、自分が困るだけでなくて結局人様にも迷惑をかけてしまうのだ。なら図太くいったほうが誠実ってもんでしょ。

ここ数年、ふとした時に10代のいろんな記憶が蘇る。あまりに子供でアイタタなところがあったから封印してたけど、なんだか懐かしく思い出す。ずっと忘れてたけど、ついこの間も何気ない会話をまざまざと思い出した。日の当たる教室で、ノートにお話を書いていた小学生の私は、手を留めてこんなことを言ったのだ。

「幼稚園のとき、お母さんが私を連れて行ってバイバイって言うたらいつもものすごく泣いててん。」
「なんで?」
「なんでやろ…わかれへん。けど、なんか、もう迎えに来えへん、捨てられるみたいで…あんまり泣くから、お母さん困ってしもうて、またね、とか、言うことにしてんて。」
「ふうん…。」

その日から、彼は私にバイバイとかさよならとか、別れを意味する言葉を言わなくなったのだ。代わりにいつもちょっと右手を上げて、じゃ、とか、じゃ、また、とか言って去っていくのだった。そしてその頃私は、二つの言葉を絶対に言わないことを誓ったのだ。その一つが「どうせ」だった。

「どうせ私なんて」って思わないようにと、彼は私に教えてくれたのに、大人になってからずっと忘れていた。

もう一つの言葉も、いつかふと思い出せるかな。

もう戦わない

2011年05月07日 19時37分58秒 | Weblog
母の存在が苦痛です。

こういうことを書くとメンヘラじみて嫌なのですが、苦痛です。機能不全家族、なんてカッコいい言葉使わなくてもどこでも多かれ少なかれ機能不全なんだよ、そう自分でも思います。実際そういう言葉のなかった子供のころから大人ぶって平気な振りして過ごしてきたのですが、今思えば激しく反抗していればよかったです。認めるのも情けないですが、母はサイテーの人間だと思います。

最近サイテーだと思ったのは姪っ子に関してです。姪っ子は不妊治療の末ようやく授かった子供なのですが、何かにつけ母は「無理矢理作った子やから」と言うのです。かわいくないと言うのです。そして実際そういう態度をとる。そんな自分を私って正直やからとかわい子ぶる。思ったことをそのまま言うというのがこの人の美徳らしいのです。そう、私自身も「自分の子やけどかわいくない」と言われ続けて育ちました。

行きたくないけど他のきょうだいに全て任せるわけにもいかないから、なんとか時間を作って実家に顔を出します。そうすると暇で仕方がないという愚痴の末に悪口です。微笑みながら聞いてましたけど、内心はコンロにあった行平鍋をつかんでこのババアを殴り倒してやろうかと思いましたよ。繰り返しますが微笑んでましたけど。

こういう母が許せなくて、言葉を尽くして不妊治療の辛さなどを説明していたこともありましたけど、あきらめました。今まではロクでもない母という存在と(紳士的に)戦わねばならないと思っていたし、実際戦ってきたのだけど、これからは、やり過ごそうと思います。実家に行くのも必要最低限にする。私自身、大変な私、というのに酔っていたのかもしれない。これからは、そういうことに時間とエネルギーを割くのは止めます。


それにしても。
姪っ子を抱きしめてやりたいよ。あまりにも唐突やけど。

あとは睡眠

2011年04月30日 02時03分43秒 | Weblog
バカみたいに酒を飲むのが心底イヤになってきたのに加えて、早起きっていいなあと思うようにもなってきた。というか、時間割の関係で平日のほとんどを強制的に早起きをしなくてはならなくなって、元来夜型の私はとても辛かったのだけど、眠い辛いと言いながらも朝のすがすがしい空気はなんか好き。

問題は夜、なかなか眠れないことで、ご飯作って食べてお風呂入って洗濯を干して台所を片付けて翌日の弁当の下準備してたら1時ごろになってしまう。翌日6時に起きると仕事場では平気(なつもり)なんだけど、夕方早めに家に帰れる日は、うたた寝のつもりが夕食の時間まで寝てしまって慌てることがある。そんなことがないように出来るだけ外で仕事をしているけど、時々は家に帰って、うたた寝といいながらやっぱり3時間くらい寝てしまう。それで夜眠れなくてリズムが崩れるのの繰り返し。今日もそう。

いろいろ工夫して早く眠るようにしてもTVの音がうるさかったり、そもそも私は世帯主が起きていると安心して眠れなかったりする。ほら、食うか食われるかの世界なんで隙を見せられないのである。だからそれでも眠らなければならないときは眠剤で解決するのだけど。

最低でも1時には眠るようにしたい。出来れば12時。一人暮らしなら可能だと思うけど…


わたくし、本気で生活を改善しますですよ!

1.つぶれるまで酒を飲まない。
2.早寝早起き。
3.整理整頓。

古本屋での再会

2011年04月17日 00時49分34秒 | Weblog
帰り道に知らない通りを歩いてみようと思ってぶらぶらしていたら、いい感じの古本屋があった。そこで小学生のころ持っていた本を見つけて思わず手に取る。保育社のカラーブックスと、つる書房のスヌーピーの漫画。どちらも実家に置いたまま家を出たら捨てられていたものだ。

買い直そうかなと少し迷ったけど、思い出はそのままにしておこう。私の本ももしかしたらこの世のどこかにあるだろうか。なんだかタイムスリップしたような気になった。また行きたい。


再会してみたい、子供時代に好きだった本(ちょっとあやふや)いろいろ

カラーブックス←持っていたのと再会した!
つる書房のスヌーピー←一部再会した!
岡崎里美『自殺への序曲』←ネットで存在確認。
陸奥A子の漫画
ABCブックとかいう絵本のシリーズ
学研ひみつシリーズ
なぜなに学習辞典とかなんかそういうシリーズ
学研かどこかが出していた縦長のポケット図鑑
サンリオ出版が出していたやなせたかしの詩集
雑誌『女学生の友』

路線図がない!

2011年04月16日 09時25分53秒 | Weblog
電車を2回も乗り間違えました。
もう悪夢みたいでしたよ、時間に間に合わないんじゃないかと思って。

私は地図が読めないどころかものすごい方向音痴で、いや方向音痴どころか、いったん出かけると、つまずいてころんだり看板に頭ぶつけたり、もう大変なのです。

かつては「もうドンくさいんだから」と、笑顔で言いながら世帯主が色々仕切ってくれていたわけです。友達と出かけるときも、なんとなくそういう流れになるのです。「ほんと、一人で生きていけないやつやなあ」なんて言われながら、いつも誰かの後を付いていったのでした。そしてそういう頼りないキャラではいかんと長年思いながらも、なんか楽なのでずるずるとそのままでいたのでした。いかんいかん。

そういう私ですから、仕事で遠くに行くときは必死です。時刻を検索し、地図をプリントアウトし、一度くらい迷っても絶対遅れないような時間に家を出ます(もしかしたらこういう人他にもいるかな)。そして内心ものすごく緊張しながらも、すんなりやってきたような顔をして仕事を始めるのです。

さて貧乏人の私はよくJRの新快速を利用します。利用される方はご存知だと思いますが、関西を200キロ近くカバーし、しかも特急料金なしで最速130キロ/時で走る便利な電車です。

よく利用する本線系は、米原から京都・大阪を経由して神戸・姫路方面へ、上郡まで。
山科から湖西線系が分かれていて、敦賀へ。
そして北陸線系は敦賀と米原をつなぎ、赤穂線系は相生から播州赤穂へ。

私なんか真ん中の大阪で「米原(行ったことない)行き」とか「上郡(どこにあるかもわからない)行き」とか言われたら、もう自分がどちらに乗ればいいのかわからなくなるような長距離を走っています。これに学研都市線も入ってきて「松井山手行き」なんていわれると、もうわけがわかりません。

この新快速がまた人身事故で遅れるのが日常茶飯事になっていて、先日もそういう事情で最初乗るつもりだった電車と違うのに乗って混乱してしまったのでした。ああ情けない。

うだうだと書きましたが、私が今回非常に困ったのは、「乗り間違えたかも!」と気づいて確認しようとしたとき、車両の中に路線図がほとんどなかったことです。本来路線図があったところがことごとく広告になっているのです。1車両に1つくらいしかないんじゃないかな。

これは困る。ものすごく困る。私のようにいろんなところに出かけ、且つ方向音痴には路線図のない車両というのはものすごく不安です。大阪地下鉄じゃないんだから。200キロ近く走る新快速に路線図ないなんて。

というわけで、路線図があったら2回も間違わないですんだのにと、自分のうっかりぶりを棚に上げてプンスカしていたのでした。



追記 やっぱりネットが出来る携帯を持たねばならんなあ。車内ですぐに路線図を検索すればよかったから。でもなんか違う気もする……

非常事態でも

2011年04月06日 00時22分15秒 | Weblog
なんでそんなに我慢するのとよく言われたけど、ほんとうにどうして我慢してきたんだろう。我慢せずに、自分の意見や感情も伝えればよかった。

父は子供がそのまま大人になったような人だったので、ふつうの夫婦というものがどういう感じなのか私はあまりよくわかっていなかった。自分が育った家庭環境のせいにしたくないけれど、そういうことの影響はやはり大きいのだ。父は銀行に行ったこともなく、日常生活のこまごまとした雑用もまったくできない人だったので、夫というものが家庭でどのくらいそういうことに関わるのか見当が付かなかった。

私がまだ社会を知らない院生で世帯主が会社員だったこともあり、結婚に際してのいろいろな手続きなどは世帯主の言うとおりにしてきた。世帯主のやり方が世間的な常識なのだと思っていた。引っ越すときも新しい家を見ることなく決められて、不動産屋に「奥さんはマンションを見なくていいんですか? 今から見に行きましょう」と言われたくらいだった。マンションに向かう車の中で、不動産屋に同情されて初めて私は世帯主のやり方が変なことに気が付いたのだった。

自分の意見を言うこともたまにはあったけれど、鼻で笑われるか怒鳴られるかだった。鼻で笑われるのも嫌だったけど、怒鳴られるのは私は自分でも意外なほど応えた。殴られるわけでもないのに怒鳴られるのは何であんなにしんどいんだろう。また怒鳴られるかもとビクビクした。どうして怒鳴るの、と訴えると、お前が怒鳴られるほど駄目なことをしたのだと、怒鳴られた。怒鳴られたくない一心で、怒鳴り声のない家庭にしたい一心で、私はいろんなことを我慢することにした。実家にも帰れないし、海のものとも山のものとも付かない院生に家を出る財力はなかった。

思い返せばそのせいで世帯主がどんどん我儘になっていったのかもしれないけど、世帯主がいないときに舅が私に愚痴るところによると、子供の頃からキレやすい我儘な性格だったそうだ。私の態度はもともとの性格を助長したのかもしれない。

今ほどではないけれど、阪神淡路大震災のときにもう既に、結婚って思い描いていたものと違う…と絶望していた。グラグラ揺れるマンションで私はとっさに赤ちゃんに覆いかぶさっていた。世帯主と生死をともにしようとはひとかけらも思わなかった。何度かの余震のとき、死んだ姑が怒っているような気がして、お義母さんごめんなさい、もう少しがんばりますと心の中で繰り返して震えていた。

もしまた地震に遭うようなことがあったら、世帯主は私を少しは気遣うだろうか。おそらくは気遣わないだろう。それだけでなく、冷戦期間のイライラを爆発させて私をわざと見捨てるくらいのことをする人だと思う。でも私も今度は世帯主と一緒に力を合わせて乗り切ろうと思えない。どうしても。


ああこんなこと考えるも不謹慎かな。

井上陽水のこと

2011年04月04日 23時35分39秒 | Weblog
日本人の歌手で一番好きなのは井上陽水だ。とりわけ、初期の陽水の作品に現れた、痛々しく切ない男の子っぽさ! あれは小学校5年生のことだった。友達のお兄ちゃんが持っていた“変わったLP”を借りて以来、私はいっぺんに陽水の魅力の虜になった。そのLP、『氷の世界』を録音したカセットテープを私は繰り返し聞いた。あんまり聞いたのでテープがついに切れてしまうほどだった。

それまで私は日本語の歌をあまり好きになれなかった。学校の音楽の時間に習う歌は優等生っぽすぎて退屈だったし、歌謡曲のベタベタした感じは大嫌いだった。当時は西城秀樹・郷ヒロミ・野口五郎が御三家と呼ばれていたけど、私はこの3人の歌も好きになれなかった(「私鉄沿線」だけは少し許せると思った。許せるなんて偉そうだけど。あと沢田研二も少し。)ので、テレビの歌謡番組も見ていなかった。

ふつうの小学生がテレビを見ている時間に私が何をしていたかというと、本を読んでいたのである。特に福音館の本が好きで、高学年になっても絵本も読んでいた。福音館の絵本には堀内誠一のものもあって充実していたと思う。またサンリオ出版が小さなうつくしい詩集や内藤ルネの人形や西洋の少女の写真集を出していて、これも今思えばすばらしかった。

そういう俗気のない世界に浸っていた私は、音楽にも同じような、ベタベタしていなくて透明感があって俗気がなく適度にお洒落なものを求めていたのだけれど、なかにし礼や阿久悠に代表されるような昭和の歌謡曲は、自分が求めている物とは程遠かった。そこに現れたのが井上陽水だったのだ。

陽水は私の心の恋人だった。西城秀樹や郷ヒロミに夢中の同級生は理解してくれなかったけど、その方がかえって独り占めできる感じがしてよかった。

生まれて初めて行ったコンサートも井上陽水のだ。今だったらあんなことはできないのかもしれないけど、中学1年生の最初の期末テストの最中に、子供同士で夜出かけたのだった。当然、まわりは大人ばっかりだった。

『氷の世界』を借りて以来、私は少ないお小遣いをやりくりして何枚かのレコードを買い、新しいアルバムが出るのを楽しみにしていた。ようやく出たそれは、『招待状のないショー。』という題名だった。『二色の独楽』あたりから陽水が少しずつ変化してきているということは感じていたけど、『招待状のないショー。』の中には初期の陽水の世界の男の子っぽさはかなり薄まっていた。井上陽水も一人の大人の男の人なんだなあと思った。そして『招待状のないショー。』の収録曲から、陽水はどうやら女の人と別れたらしいと解釈しておおいに同情した。

陽水はだんだんメジャーになっていき、今では大御所と呼んでいい存在だ。寂しくもあったけど、自然体でいやらしいところがなくうまく変化していったと思う。生身のおっさんがいつまでも「お花の中では一番きれいだ」なんて歌ってられないし。フォーライフのころからは昔ほど熱心なファンでなくなったけど、初期のみずみずしさは現在の曲にも残っていると思うのだ。


実は以前書いた荒井由実(私が好きなのは松任谷由実ではなく荒井由実なのです)についての文章の続きです。次はまたいつか森田童子について書きたい。