8年前の今頃、私は死ぬことばかり考えていた。大学に出講しなくてもいい時期だったので、化粧もせず着替えず一日中灰色の寝間着のまま布団の中にいた。瞬きをするのも瞼が重かった。トイレに行くために起きあがるのも一大事だった。そもそもトイレに行きたいかどうかもわからなくなっていたので、失禁さえしていた。
夕方からは少し動けるようになるので簡単な夕飯だけは作った。それだけでマラソンを走ったかのように疲れ果てた。冷蔵庫では野菜が腐って水になっていくのに、宅配をストップする電話が怖くて掛けられなかった。動ける間に自分のにおいのするもの、手紙や写真を手当たり次第にゴミ箱に入れた。積み上がったモノの下には虫がうごめいていたが、驚いたり気持ち悪がったりする気力もなかったのでそのままにしていた。
体のあちこち、顔にまで湿疹が出ていた。歯を磨いていなかったし風呂もろくに入らなかったので臭かったと思う。どうしても外出しなければならないときは黒い服しか着ることができなかった。本屋に入ると万引きに間違えられた。
鬱病は、汚らしい病気だ。そんな汚らしい病気を仕事仲間にカミングアウトしたのは、緩解して久しぶりに片づけた部屋に締め切りの過ぎた振り込み用紙や返事を書いていない手紙が大量にあったり、学界の重鎮が亡くなったことも知らなかったりして、自分があちこちにとんでもない迷惑を掛けて不義理をしていたのではないかと不安になったからだ。事情を説明して謝りたかったからだ。
最近、自分が鬱病であるとカミングアウトする人に会うことが多いのだが、そのたびに私は「この人があの私が罹っていたのと同じ病気なのだろうか?」とまじまじと相手を観察してしまう。カミングアウトする人に共通しているのは、まず、きっちりお洒落して外出できていることだ(しかし勉強・仕事はできない)。次に、辛い、悲しいと具体的に言葉にする。そして真面目な性格の人が罹るということを自ら言ったり、言われて同意するのを好む。
病人にはやさしくするくらいの常識はあるので静かに聞いているが、“本当に鬱病だったら、あんな汚らしい病気にかかっていることなんて、必要もないのに告白しなくていいよ”、そんな気持ちが心の中に渦巻いている。“それはただの思春期じゃ”と毒づいているときもある。本人すら鬱病と思い込んでいる詐病のようなものではないのかと怪しんでしまうこともある。
鬱病事情に疎くなりつつある私、最近の鬱病っていうのは昔のと違っているんでしょうか。
夕方からは少し動けるようになるので簡単な夕飯だけは作った。それだけでマラソンを走ったかのように疲れ果てた。冷蔵庫では野菜が腐って水になっていくのに、宅配をストップする電話が怖くて掛けられなかった。動ける間に自分のにおいのするもの、手紙や写真を手当たり次第にゴミ箱に入れた。積み上がったモノの下には虫がうごめいていたが、驚いたり気持ち悪がったりする気力もなかったのでそのままにしていた。
体のあちこち、顔にまで湿疹が出ていた。歯を磨いていなかったし風呂もろくに入らなかったので臭かったと思う。どうしても外出しなければならないときは黒い服しか着ることができなかった。本屋に入ると万引きに間違えられた。
鬱病は、汚らしい病気だ。そんな汚らしい病気を仕事仲間にカミングアウトしたのは、緩解して久しぶりに片づけた部屋に締め切りの過ぎた振り込み用紙や返事を書いていない手紙が大量にあったり、学界の重鎮が亡くなったことも知らなかったりして、自分があちこちにとんでもない迷惑を掛けて不義理をしていたのではないかと不安になったからだ。事情を説明して謝りたかったからだ。
最近、自分が鬱病であるとカミングアウトする人に会うことが多いのだが、そのたびに私は「この人があの私が罹っていたのと同じ病気なのだろうか?」とまじまじと相手を観察してしまう。カミングアウトする人に共通しているのは、まず、きっちりお洒落して外出できていることだ(しかし勉強・仕事はできない)。次に、辛い、悲しいと具体的に言葉にする。そして真面目な性格の人が罹るということを自ら言ったり、言われて同意するのを好む。
病人にはやさしくするくらいの常識はあるので静かに聞いているが、“本当に鬱病だったら、あんな汚らしい病気にかかっていることなんて、必要もないのに告白しなくていいよ”、そんな気持ちが心の中に渦巻いている。“それはただの思春期じゃ”と毒づいているときもある。本人すら鬱病と思い込んでいる詐病のようなものではないのかと怪しんでしまうこともある。
鬱病事情に疎くなりつつある私、最近の鬱病っていうのは昔のと違っているんでしょうか。
その彼もちゃんと社会人となって、ちゃんと仕事をしてると母親からの便りが届きます。それを読んで安堵します。
最近病院にも行かず自己申告で「鬱病だから配慮してくれ」と言ってくる学生がいて困ります。私は「まず病院に行け、話はそれからだ」という対応をするのですが、鬱病と聞いただけで配慮してしまう先生が多いようです。
そんな腫れ物に触るような態度こそが精神疾患に対する偏見を助長すると思うのですが。
私も鬱病と診断された経験があり、おっしゃる「汚さ」は身をもって知っているつもりでいます。しかし私も人と会わねばならない時にはお風呂にも入りしっかりと身だしなみを整えておりました。自分の実態を人に知られることを何よりも恐れていました。病院へ行っての診断が遅くなったのも、ひたすらこの異常な実状を誰にも知られてはならないと思っていたことにつきます。完璧主義や人目が気になる性質が鬱になっても残っていたとすれば、それほど重篤でなかっただけなのかもしれませんが、もう一つ、鬱と診断されたことを自慢でもあるように他人に話す人を見て強い不快感を覚え、私自身が鬱に厳しくなっていたということがあります。
この病をなにかの免罪符のように使う人に対しての嫌悪感から、苦しい実態はどうでも「まっとうに見える」ことに必死でしがみつこうとしていました。似非鬱病に見える人のなかにも、おそらく私のような人間もいるだろうなと想像してしまいました。
それにしても精神疾患の中でなんで鬱病だけ自慢気に語られるのでしょうね。
過去の日記を読ませていただいてます。
わけあってつい先日「Im not in love 」掘り起こしてきて聴いていた私にとって「ああ・・」と思わず出そうになった日記でした。
これからも読ませて頂きます。