入院中から足掛け5日、継続して読み進めていた「新復興論」(小松理虔著、ゲンロン叢書)を読み終えた。かけっこと同じく読み足の遅い私だが、11時間程度かかっていたのだろうか。
だいたい書店で手に入れたのが「海を撃つ」(安東量子著、みすず書房)と一緒の時だったが、まず「海を撃つ」、続いて「新復興論」を見つけた。その瞬間、頭に浮かんだ単語は「厚い」。なんて厚い本なんだ。こりゃ時間がかかりそうだ。そんな思いだ。
過去に読んだ本で、最も厚く最も長編の本は井上久著「吉里吉里人」だった。本書の約2倍の厚さがあるだろうか。1ページ2段組みで、ポイントの活字も小さい。10.5ポイント以下だったのではないか。とにかく文字が詰め込んであった。当時勤めていた私はことにバス通勤の往復80分程を中心に、ほぼ1カ月かけて読んだ。ラストは日曜日、当時の住まいだった独身寮で3時間程かけて読み上げた記憶がある。おそらく40時間から50時間かけたのではないだろうか。読まれた方はご存知と思う。セリフは吉里吉里訛で表記され量も多い。同じ岩手県の宮古生まれの私でも、理解に苦しみながら読み進めた。
しかし本著は、「吉里吉里人」程厚くはない。文字は10.5ポイント程で2段組みでもない。適度に行間もある。しかも文章は標準語で書かれており、読み方にも苦労はない。気を取り直して読み始めた。
読み始めると本の厚さは何の障害にもならなかった。「小名浜という町に暮らす一人の人間の経験を書き連ねた本」は震災後の7年間を凝縮して振り返り、その体験から得た現状分析を試みながら、未来の復興の姿を指し示そうとしている。
本書は「食と復興」「原発と復興」「文化と復興」の3部からなる構成。筆者は本書で「原発事故以後の地域づくりは、外部(よそ者あるいはその意見)を取り戻すべきだ。本書が訴えたいことはそれに尽きる」と語る。海の魚のデータを検証した上で食を楽しんだ海ラボ、原発被災の現状を知るためのツアーなどの経験を語りながら、復興後に地域にまかれたアートが、補助金の縛りで行政目的等の達成だけが問題になる中途半端なアートとなってきた現実を打破することが必要で、「事実を語るのではなく真実を翻訳する」アーティストの活動への切望を語っている。
また、本市は歴史的に見ても、産業にしても、本市は首都圏・中央のバックヤードの役割を果たしてきたと語っている。そのバックヤードの役割を果たすために、中央の施策「大きなひとつ」を受け入れ、これによってもたらされる文化で、それまでの文化を上書きしてきた経過を語る。首都圏に電源を供給した原発もそうだ。このような「大きなひとつ」によってもたらされる「思考停止の社会がはじけ飛んだ」のが原子力発電所の事故で、これからは「小さな集まり」を発揮して、バックヤード以前の文化「私たちが本来持っていた文化にアクセスする必要がある」と喝破している。原発事故が地域ならではの文化・アートを取り戻すきっかけになるという。「小さな集団」が地域の文化を塗り替えるというのだから面白い。
あらためて認識をあらためさせられるのは、食をめぐっての次の指摘だ。本市(県)産の産物はどうしても口にしない人たちがいる。こうした人たちをデータや科学知識で説得するのはやめて、食べる人も、食べない人も互いに認め合って共存することを呼びかける。そして、本県産の産物の検査データによって確認された安全性を叫ぶより、うまいと知ってもらい、その魅力を知ってもらうことこそが必要という。うまいと知れば自然と手が伸びる。その通りだろう。
もう一つは、放射性物質に対して不安を解消できない人たちへの対応の考え方だ。環境省主催のワークショップでの経験から、「医学的、物理学的問題から社会的問題へと変わっていったといいかもしれない」と指摘する。「海を撃つ」の安東量子さんが、ツイッターで2月21日に、自主避難者に対して「実質的な支援策なしに、気持ちと周辺支援者の問題に押し込めるのは適切であるとは思えない」とつぶやいていた。私は、「その人のおかれた状況に沿った、支援策が必要ということでしょうね」とコメントした。その人たち自立するために何が必要かを個別につかみ、その必要な事項に沿って支援することなしに自立が難しくなっている状況があると考えた方がいいのかもしれない。つまり、小松氏のいう「社会的問題」としての支援だ。
さらに、原発事故による放射性物質の拡散を「障害」ととらえる視点も面白い。障がいを持つ人は、基本的に障がいと生涯いっしょに歩んでいくことになる。放射性物質も同様だ。安全を喧伝したとしても、拡散された事実に対しての嫌悪感という社会全体の潜在的な思いと、私たちは長い長い時間向き合って歩んでいかざるをえないのだろう。その意味では「障がい」と変わらない。その時に大切なのは障がいを認め、うまく付き合っていくということになるのだろう。そのために、本書が指摘する諸々は示唆的であるともいえる。本書では、この「障害」を、内と外との出会い、交流という観点からとらえているが、私はこの言葉からはそのようなことを考えた。
本書が語るボリュームは厚い。そこかしこに、共感できる問題提起を次々と発していた。また、思考の参考になるフレーズも散りばめられているという感が強く残った。震災後を振り返り、今後を考える手引き書として側におきたい。そんな1冊になった。
ちなみに本の写真に写りこんでいる虹は、鏡によるプリズム光で、本のカバー等のデザインではないので、誤解のないように。
だいたい書店で手に入れたのが「海を撃つ」(安東量子著、みすず書房)と一緒の時だったが、まず「海を撃つ」、続いて「新復興論」を見つけた。その瞬間、頭に浮かんだ単語は「厚い」。なんて厚い本なんだ。こりゃ時間がかかりそうだ。そんな思いだ。
過去に読んだ本で、最も厚く最も長編の本は井上久著「吉里吉里人」だった。本書の約2倍の厚さがあるだろうか。1ページ2段組みで、ポイントの活字も小さい。10.5ポイント以下だったのではないか。とにかく文字が詰め込んであった。当時勤めていた私はことにバス通勤の往復80分程を中心に、ほぼ1カ月かけて読んだ。ラストは日曜日、当時の住まいだった独身寮で3時間程かけて読み上げた記憶がある。おそらく40時間から50時間かけたのではないだろうか。読まれた方はご存知と思う。セリフは吉里吉里訛で表記され量も多い。同じ岩手県の宮古生まれの私でも、理解に苦しみながら読み進めた。
しかし本著は、「吉里吉里人」程厚くはない。文字は10.5ポイント程で2段組みでもない。適度に行間もある。しかも文章は標準語で書かれており、読み方にも苦労はない。気を取り直して読み始めた。
読み始めると本の厚さは何の障害にもならなかった。「小名浜という町に暮らす一人の人間の経験を書き連ねた本」は震災後の7年間を凝縮して振り返り、その体験から得た現状分析を試みながら、未来の復興の姿を指し示そうとしている。
本書は「食と復興」「原発と復興」「文化と復興」の3部からなる構成。筆者は本書で「原発事故以後の地域づくりは、外部(よそ者あるいはその意見)を取り戻すべきだ。本書が訴えたいことはそれに尽きる」と語る。海の魚のデータを検証した上で食を楽しんだ海ラボ、原発被災の現状を知るためのツアーなどの経験を語りながら、復興後に地域にまかれたアートが、補助金の縛りで行政目的等の達成だけが問題になる中途半端なアートとなってきた現実を打破することが必要で、「事実を語るのではなく真実を翻訳する」アーティストの活動への切望を語っている。
また、本市は歴史的に見ても、産業にしても、本市は首都圏・中央のバックヤードの役割を果たしてきたと語っている。そのバックヤードの役割を果たすために、中央の施策「大きなひとつ」を受け入れ、これによってもたらされる文化で、それまでの文化を上書きしてきた経過を語る。首都圏に電源を供給した原発もそうだ。このような「大きなひとつ」によってもたらされる「思考停止の社会がはじけ飛んだ」のが原子力発電所の事故で、これからは「小さな集まり」を発揮して、バックヤード以前の文化「私たちが本来持っていた文化にアクセスする必要がある」と喝破している。原発事故が地域ならではの文化・アートを取り戻すきっかけになるという。「小さな集団」が地域の文化を塗り替えるというのだから面白い。
あらためて認識をあらためさせられるのは、食をめぐっての次の指摘だ。本市(県)産の産物はどうしても口にしない人たちがいる。こうした人たちをデータや科学知識で説得するのはやめて、食べる人も、食べない人も互いに認め合って共存することを呼びかける。そして、本県産の産物の検査データによって確認された安全性を叫ぶより、うまいと知ってもらい、その魅力を知ってもらうことこそが必要という。うまいと知れば自然と手が伸びる。その通りだろう。
もう一つは、放射性物質に対して不安を解消できない人たちへの対応の考え方だ。環境省主催のワークショップでの経験から、「医学的、物理学的問題から社会的問題へと変わっていったといいかもしれない」と指摘する。「海を撃つ」の安東量子さんが、ツイッターで2月21日に、自主避難者に対して「実質的な支援策なしに、気持ちと周辺支援者の問題に押し込めるのは適切であるとは思えない」とつぶやいていた。私は、「その人のおかれた状況に沿った、支援策が必要ということでしょうね」とコメントした。その人たち自立するために何が必要かを個別につかみ、その必要な事項に沿って支援することなしに自立が難しくなっている状況があると考えた方がいいのかもしれない。つまり、小松氏のいう「社会的問題」としての支援だ。
さらに、原発事故による放射性物質の拡散を「障害」ととらえる視点も面白い。障がいを持つ人は、基本的に障がいと生涯いっしょに歩んでいくことになる。放射性物質も同様だ。安全を喧伝したとしても、拡散された事実に対しての嫌悪感という社会全体の潜在的な思いと、私たちは長い長い時間向き合って歩んでいかざるをえないのだろう。その意味では「障がい」と変わらない。その時に大切なのは障がいを認め、うまく付き合っていくということになるのだろう。そのために、本書が指摘する諸々は示唆的であるともいえる。本書では、この「障害」を、内と外との出会い、交流という観点からとらえているが、私はこの言葉からはそのようなことを考えた。
本書が語るボリュームは厚い。そこかしこに、共感できる問題提起を次々と発していた。また、思考の参考になるフレーズも散りばめられているという感が強く残った。震災後を振り返り、今後を考える手引き書として側におきたい。そんな1冊になった。
ちなみに本の写真に写りこんでいる虹は、鏡によるプリズム光で、本のカバー等のデザインではないので、誤解のないように。
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