チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

楽員の観た歴代のN響指揮者~チェリスト・大村卯七(1954)【その1】

2014-10-21 22:20:59 | メモ

音楽之友昭和29年8月号に、NHK交響楽団で活躍されたチェリスト、大村卯七氏による歴代指揮者への思いが『ぼうふりものがたり』という題で楽しい逸話をまじえながら書かれており、面白くてイッキに読んでしまいました。



この大村さんという人は容貌からしても、文章からしてもたいへん人間味溢れた温かい方だと想像できます。ここに書かれているエピソードも貴重なものばかりなので、埋もれてしまってはもったいないです。

きょうは批評家への批評、ヨゼフ・ケーニヒ、それとニコライ・シフェルブラットについて書かれた部分をメモります。


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ぼうふりものがたり 《楽員の観た歴代のN響指揮者》 大村卯七


わがN響は、とって今年二十九歳の青年です。従って六月の定期公演をすませますと、第三五八回目という記録的な数字ですが、従って僕も第三五八回という定期公演の出演記録を持ったチェロ弾きを、大いに世に誇っていいわけです。

――過去と現在の間――シンフォニー・プレイヤーという商売は、人のまえで楽器をならすことだけが、あきないすることらしいんです。他人が出演する演奏会はおろか、僕のN響が出演した会でさえ、たったの一度も、満足して聴いてみたことがないからです。もう一つ。はばかりながら、シンフォニー演奏会といいますと、普通、必らず、一人の指揮者がいて、僕達をリードし、アインザッツ以下、指揮者の要求に応えて、僕達は音をただで提供してきたわけです。つまり僕達が、譜面台越しにみたものは、指揮者の人間ではなしにたった一本の指揮棒だったかも知れません。

批評――について。演奏会のたび毎に、僕達プレヤーは、批評家を相手に、勝負一本の「おたちあい」をしてるみたいな気持です。でも残念なことに、この勝負は批評家の方に勝ち目があります。つまり、音響効果の最良の場所で、しかも肉体的にただ耳だけをとがらすという腹の空かない条件で批評するんですから、批評家氏の批評が間違ってたらおかしいじゃありませんか?

むろん僕達にも、僕達の演奏批評があるわけです。批評といってさしさわりがあるようなら、反省といいなおしたって結構です。つまり、僕達は僕達で反省するちゃんとしたメトードを持っているといいたいです。

演奏しながら、僕と僕のおむかいさん、僕と僕の両方のお隣りさん、とがぴったりお互いの「呼吸」があってた時、「ねー君、今日は全然うまいこといったじゃないか」。「おかげさまで。疲れたろう?」「少し疲れたけど、いい気持さ!」「何処かで一杯、ひっかけようや。さすがにウェスさんもごきげんだったぜ」。とまあ、こういう具合に、お互いのかたをたたきあって、お互いの感激を大事に心へしまいながら、お互いの苦労をねぎらいあうんです。ですから、次の日の朝刊などで、批評家にこっぴどくたたかれてたりしますと、――正しいことも、重々知ってるだけに、大変にうらめしくもなるんです。しょせん、何事でも、その道の商売人には、いっこうに歯がたたないものなんです。僭越ながら、こうして僕の楽屋ばなしが始まります。

 ――やっぱり、過去と現在の間、僕が、――親愛と尊敬とを心にこめて、名指揮者と呼びたい人々に、先ず神様に近いワインガルトナー先生、N響のパパー、ヨーゼフ・ローゼンストック先生、ウェス先生、それに練習の巧者ジャン・マルティノン先生は云うに及ばず、殊に、音楽のかたまりみたいなヘルベルト・フォン・カラヤン先生にいたっては、名人中の名人でしょうと思います。N響の歴代指揮者となりますと、先ず、我が国交響楽運動の大先達山田耕筰先生、愛称「おやかた」と親しまれた近衛秀麿先生は、山田和男君、高田信一君などと一緒に、今なお、日本楽壇第一線で活躍中であり、従ってもう皆様にも馴染み深い方々ですから、改めてここで僕が紹介するまでもあるまいかと思いますが。



【ヨゼフ・ケーニヒ(Josef König、1875 - 1932)】


古い会員の方(お年寄りの方とは申上げにくいので)でないと御存知ない方が多い――大変不幸なことです――でしょうが、僕達古参者仲間では、恰度自分のおやじみたいな気がして、今なおなつかしく慕っているヨーゼフ・ケーニッヒ先生は、N響の歴史の上で、偉大な足跡を残した最初の外人指揮者でした。謹厳直情の先生は、それでいて豪快で、精神的な計り知れない度量と、人情味の豊かな、時には底ぬけのちゃめっけも知っているという、つまり人格的な人でした。或る時、当時のチェロのトップにいた斎藤秀雄君が、先生の代りに、一度、定期公演を指揮することになりました。話はその前日の夜のことです。有楽町の、とある天丼屋で、腹を満たして表へ出ばなぐち、ケーニッヒ先生にぶつかったものです。「運、不運は時の勢い」といいますが、正にその通り、天丼屋の入口に、酒屋の小僧でも忘れて行ったか、店の女中がしまい忘れたか、大きいとっくりが一つころがっていましたのを、眼ざとい先生がめっけたから、なんぞたまらんや、です。

「晴れの演奏会を明日に控え、なんじ酒をくらうとは、ふらちなやつめ!」とばかり、ものすごいけんまくです。全然身におぼえのない、ぬれぎぬをおっかぶされて真っ赤に真っ青、きもったままでちぢみ上った程でした。が、さてその機知の縦横無尽な飛躍ぶりには、ただめんくらってるより仕様があるまいに。「俺の後からついて来い」。とただ一言。なにごとより、この一言がおっかない。顔色を失なった僕が、先生の後をとぼとぼついていったところが、銀座八丁目。当時、高名のバー、その名「プランタン」。と、赤と緑のネオン(灯ってたような気がします?)。にぶい色の光が、テーブルを照らし、それを真中に座った時、「ミスター大村。あすの演奏会のために乾杯!」。ビールを飲むたびに、先生の教訓が、僕のまぶたにうかびます。永遠に消えることのない、在りしの映像のために、そして僕は、そのたび毎に、乾杯を繰り返えしているんです。



ニコライ・シフェルブラット(Nicolai Schifferblatt, 1887 - 1936)】


シフェルブラットという指揮者は、――不幸にも、近頃の人達には、やっぱりおなじみのうすい人です。――大変にヴァイオリンの巧者で、技術的に、或いは音楽的にヴィルティオーソの風格をもっていた人でした。N響の育英に心をくだき、やがて文字通り、日本交響楽運動の殉教者となって斃れた人でした。性来、子供っぽく、頑固一徹な気質の人でしたが、又反面には、内気で、丁度一八、九の小娘みたいなはずかしがりやの、好ましい人でした。でも、雷親父といえば、先生の代名詞でしたが、本当に、随分こわかったもんでした。欠点といえば、排他感情のひとなみ以上に強い人で、自分よりもまずい指揮者や演奏家を、極端に見下し、そのくせ、自分よりも巧者に対しては、無条件に敬服するという、つまり芸術家が一般にもっている欠点をそのまま大事に蔵っているという、正直の上に馬鹿の字がつく、極く単純な人でした。

チェロ弾きの名人とえいえば、当代、先ずピアティゴルスキー【Gregor Piatigorsky, 1903-1976】でしょうか、が、たまたま日本に来ていた時分です。或る夜の独奏会で、ピアティルゴルスキー名人の「神技」(とシフェル先生がもらしましたが)に近いスタッカートの連弓には、やっぱりスタッカートの名人をもって謳ってた、さすがのシフェル先生も、よほど、きもにこたえたとみえます。翌日。大変に頭へきてますから、茹蛸みたいに真っ赤な顔で、「大村君。ピアティルゴルスキーのスタッカートときたひにゃ、天国の紫色の雲の上でね、輪になって舞ってたエンゼルたちみたいに、かろやかで、きらびやかなんだよ。彼は神様だよ。全くの話がね。」天真爛漫、その子供っぽいこと。邪気のない――たとえ相手が、先生よりももっと下手糞で、こてんぴしゃにやっつけた場合でも、でも内心に一物もかくさない、そのものずばりな感情だったに違いない。余談を一つ。シフェル先生も禿頭組の一人でした。G・H(ゲーハー)と僕達仲間が、そう号してあげてたわけです。しまいには、先生もその意味がつかめたらしく、多少ドイツ語をしゃべった僕に、「G・Hって?僕のはげのことですか。大村君」。「いいえ、......つまり、はげのことですが」

ニコライ・シフェルブラット (藝術新潮昭和30年6月号より)

↑ 新交響楽団改組1周年記念大音楽祭。シフェルブラット指揮。 (音楽新潮昭和11年8月号)

↑ 1937年10月14日(水)午後2時30分からの多摩外人墓地におけるシフェルブラット追悼墓前祭(音楽新潮昭和12年11月号)