チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ショスタコーヴィチ:ピアノ協奏曲第1番冒頭のベートーヴェン引用

2021-04-01 23:54:01 | 何様クラシック

【8年前の記事を修正しました】

ベートーヴェンの幻想曲ト短調 Op.77の冒頭聴いたらビビったわ。

ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番冒頭のパクリじゃん(逆)

ショスタコ作品はこの曲に限らず引用の嵐だそうですけど、ここではアタマからやってるわけですね。

↑ ベートーヴェン

↑ ショスタコーヴィチ

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新日本フィルハーモニー交響楽団の知ってる人!?(1974年)

2021-02-22 02:31:11 | 日本の音楽家

音楽之友社『教育音楽(中学版)』1974年10月号から新日本フィル演奏会の画像です。指揮は秋山和慶氏。
新日本フィルは1972年設立なので、再スタート2年目くらいの頃ですね。



この写真をながめていたら、指揮者のちょうどうしろに知っている人が写ってる!



↑ この、お休み中の人です。最近テレビで見た?それともどこかで会った!?

 


。。。思い出すのに丸一日かかりました。

小学館「音楽の図鑑」。1973年初版第1刷発行。



この図鑑の「オーケストラの楽器」の章に登場されていました。一番右のかた。

常光誠治さん(1937年広島県生まれ。2021年2月19日にお亡くなりになったそうです)。

 


この本には日本人演奏家の写真がたくさん載っており、お名前や所属している団体をなんとか自力で解明しようとしたのですが、手がかりがなく少し前にあきらめたばかりでした。

追記(2021年3月24日):上の画像の左のオーボー奏者は新松敬久さん。2019年の年末にお亡くなりになったそうです。

また、オーケストラ画像の1番オーボエは鈴木清三さん。コメントありがとうございました!



この人たちは、服装からしても新日本フィルの方々だと判断してもいいですよね? (そもそも図鑑には少しでもプレイヤーの紹介文を掲載してもらいたかったです)

(2015年9月3日の記事に情報を追加しました)

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トスカニーニの指揮で第九を歌った日本人合唱団員(1939年)

2021-01-28 22:33:53 | 日本の音楽家

山野楽器店の音楽雑誌『月間楽譜』昭和15年(1940年)7月号です。

 

この号にトスカニーニの指揮で合唱団員として第九を歌った日本人女性の手記が載っています。

松岡宏子さん

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トスカニーニの指揮で歌ふ

          松岡宏子


ある晴れた朝でした。

合唱の何時ものような練習時間に、私達は「トスカニーニが学校を訪問される」という一大事件を耳にして、学校はひっくり返るような騒ぎになりました。

「私達の合唱を試験しにいらっしゃるんですよ、良ければカーネギーホールでベートーヴェンの第九を歌えるんですから皆さんしっかり歌ってください」との校長の話!!喜びと驚きとで生徒達の緊張ぶりと意気込みとは大したものでした。すぐに我々のバッハのロ短調ミサの練習が始まったのです。

ゆっくりと落ち付いてトスカニーニはやってきました。マネージャーらしい人と二人で。そして我々の合唱をじっと聞いていました。

私はこの偉大なる指揮者の一挙一動を見逃すまじと歌うのを忘れ、ただ夢中でじっと彼の姿をみつめておりました。勿論この小さな東洋人の存在なんて判る筈がありません。真っ白い特徴のあるピンとはね上がった髭を生やした背の低い風采の上がらないお爺さんが、そんな有名な、偉大なトスカニーニかと疑いたくなるくらいです。でも、あの物凄い人を射るような眼光、この人の人生を物語っているような額の皺、それらが彼の偉大さを物語っているようです。


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「トスカニーニの試験に及第したんですよ、我々が第九を歌うことになりました」
との発表があったのは数日後のことでした。

「トスカニーニの訪問」それだけでも我々にとっては大事件でした。その上第九を歌うことになったのです。生徒一同の感激は全くすごいものでした。それから第九の練習がはじまりました。毎日毎日コーラスの時間は全部そのために使われました。

校長の得意さと熱心さもまたすばらしいものでした。

12月1日(金)練習 午後4時~6時
12月2日(土)練習 午前10時~12時
12月2日(土)演奏 午後10時
(以上カーネギーホールに於て)

とのプログラムが発表されました。

いよいよ待望のニューヨーク行のバスは発車致しました。ニューヨーク着、ホテル行、予定通りの行動をとっていよいよ感激のトスカニーニの第一回リハーサルです。

はじめて見るカーネギーホールの大きさに膽(きも)を奪われているうちに、我々の席は決まりました。

オーケストラのメンバー達もぞくぞくと這り込んでまいりました。最後にトスカニーニは出てまいりました。彼の一挙一動も見逃すまいと身体が緊張でこわばっていくのが感じられます。彼は真っ黒いつめえりの服装で小刻みに出てまいりました。

ギーギー、プープーというメンバー達の調子を揃えている音も間もなくやんで、トスカニーニは壇の上に立ちました。あのものすごい眼光で一目見廻しますとあたりはしんとしてしまいました。

さあ、いよいよ練習です。

トスカニーニは眼前に立っております。そして我々は今、彼の指揮の下に歌おうとしているのです。全く夢としか思われない事実だったのでした。指揮棒は取り上げられて、最初のピアノのためのコーラス・ファンタジーがはじまりました。

無我夢中、ただ無我夢中でした。

その時のピアニストは女の人でした。とてもすばらしかったのです。実によく歌って、ものすごく音楽的なのです。中程からピアノのパートに来ますとトスカニーニはさも満足しているというように指揮棒を休めて、にこにこしながら聞いておりました。

ああ、トスカニーニにあんなに満足されるピアニストは何と何と幸福なことでしょう。ピアノと管弦楽の調和!!全く感激でした。

いよいよ第九です。

最初の一音から肺腑をえぐるベートーヴェンの感情が押し迫って来るのです。

私はあまりのすばらしさに身動きすら忘れて、ただ呆然として彼の姿を凝視しているばかりでした。手には汗が一杯滲んでまいります。

いよいよ我々の合唱すべき第四楽章にやってまいりました。


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ただただ夢中で歌いました。いつの間にか終わっていました。

この小さな存在の価値もない東洋人の女の子の感激は、ただ偉大さに打たれ、全く呆然自失!!そして溜息ばかりでるのです。そしていつまでもいつまでもあの雰囲気に浸っていたく物言うのさえ忘れ、人から言葉をかけられるのさえ癪にさわりました。これこそ、真の音楽、真の芸術、私は本当の音楽を知りました。

第二回目の練習。例のごとく感激、ただ感激の一語ではじまりました。

無事にピアノのためのコーラル・ファンタジーを済ませ、第九の練習がはじまりました。

 

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トスカニーニの合図をまって太鼓が這入りました。彼はもう少し弱くと注意致しました。再びやりなおし、わけのわからないイタリー語でトスカニーニはどなりはじめました。ゆでだこのように真っ赤になって、ああその時の顔、そして声、私達は全くちぢみ上がってしまったのです。五分間位、彼はものすごく、どなっていました。私達は言葉はわからないし、何だかものすごくこわくて、すっかり度膽を抜かれてしまいました。またやりなおし、今度は彼の気に入ったらしく、彼はにこっと笑いました。これで我々もやっと安心したわけです。第二回目の練習もどうやらこれで無事に済みました。

第一回目の時にも、そして今度も、練習が了えた時に、トスカニーニは丁重に「有難う」とこの我々合唱団にも心から云ってくれました。

世界一のトスカニーニから礼を云われた。それも感謝を込めて、何となく心の中に熱いものが湧いて来るようでした。


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演奏!!

この日のトスカニーニの出来栄えはそれは大したもので、練習の十数倍の良さ、全く想像におまかせします。あまりの感激で云う言葉を知りません。コーラスの一員として座っていて何遍も何遍も気が遠くなりそうでした。私のようなものには、ただ感激というより他に方法がないのが口惜しくなってきます。あの背の低い風采のあまり上らぬ彼が一度指揮棒を振ったら、全く人間技とは思われません。

その棒の先からほとばしり出る感情の泉、全くベートーヴェンの深刻な芸術上の悩みが押し迫って来ます。白人の云うWonderful、全くそうです。全くこのまま死んでも惜しくはない、私は全くあのまま死んでも悔いはしなかっただろうと思います。

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。。。松岡さんの感激が時空を超えて伝わってきました。

編集後記によると、このカーネギーホールでの第九コンサートは1939年の年末に開かれ、松岡宏子さんは翌年5月に日本に帰って来られたそうです。

松岡さんは東京の大井基督教会の牧師を父とし、かねてアメリカに留学、ウェストミンスター・クワイア・スクールに学ばれ、手記が書かれた頃は津川主一氏のシンフォニック・コーラスのメンバーとして活躍されていました。

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東京・銀座 旧ヤマハホール誕生(1953年)

2020-12-18 21:44:49 | メモ

『藝術新潮』1953年5月号より、東京・銀座ヤマハホールの誕生についてです。新ヤマハビルの建築に伴い取り壊され、現存しません。ピアノ発表会等で舞台に上がった方も多いのでは?

↑ ホール天井と左側面

 

↑ 巌本真理、河野俊達、齋藤秀雄(!)

 

↑ 二階側面にある放送室。素朴~

 

↑ ホール左側面

 

↑ 二階ロビー

 

↑ ステージは決して広くはありませんね。

 

↑ 二階正面 お客さん、ぎっしり。

 

↑ 井口基成夫妻の演奏。

 

以下、本文から抜粋します。

「街なかの音楽堂」

街の美術館としてブリヂストンや近代美術館がさきに生れて好評だが、今度は、街なかの音楽ホールが誕生した。銀座七丁目の日本楽器の山葉ホールがそれである。これでかねてから云われていた音楽家の会場難は、さきに返された第一生命ホールとともに、いくらか緩和されるはずだが、使用料が収容人員(524名)に比してお安くはない(※1)のが欠点だという人もいる。それはともかく、銀座の騒音の中にいて完全な防音装置をほどこし、木材を生かして伝わったレイモンド(※2)の東洋的モダンスタイルは、今後音楽好きな人々を多く吸収するであろう。

※1 開館当時の使用料
【平日】
午前(9-12時)10,000円
午後(1-4時)15,000円
夜(5-8.5時)20,000円

【土日祭日】
午前(9-12時)10,000円
午後(1-4時)20,000円
夜(5-8.5時)25,000円

※2アントニン・レイモンド(Antonin Raymond, 1888-1976)
チェコ出身の有名な建築家。

↑ Wikipediaを見たら、ヤマハホール以外にもレイモンドが設計した有名な建物が日本にたくさんあって驚きました。

 

↑ 1976年の雑誌より。

ちなみに現在のヤマハホールは2010年2月26日にリニューアルオープン。

(2015年6月7日の記事に情報を追加しました)

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アレクサンドル・タンスマン来日公演の曲目とインタビュー(1933年)

2020-12-14 15:57:07 | 来日した作曲家

ポーランド出身のフランスの作曲家、アレクサンドル・タンスマン(Alexandre Tansman, 1897-1986)が1933(昭和8)年に来日し、ピアニストとして自作を演奏しました。



第1夜 1933年3月19日(日) 仁壽講堂(東京・内幸町)

1. 古風な様式による舞踏組曲(Suite dans le style ancien)

2. ヴァイオリン・ソナタ第1番(ヴァイオリン:林龍作1887-1960)

3. ピアノ・ソロ
 ・6つのマズルカ(1928)
 ・4つの即興曲(1922)
 ・大西洋横断ソナチネ(1928)
 ・交響曲第2番イ短調よりラルゴとスケルツォ(1926)

4. アンコール
 ・ポーランド舞曲
 ・ドゥムカ
 ・ポルカ

第2夜 1933年3月21日(火) 仁壽講堂

1.ピアノ・ソナタ第2番(1929)

2. フルート・ソナチネ(フルートは誰だか不明。調査します)

3.ピアノ・ソロ
 ・アラベスク(1931)
 ・テンポ・アメリカーノ(1931)
 ・間奏曲(1926)
 ・4つのポーランド舞曲(1931)

4. アンコール
 ・マズルカ
 ・交響曲第2番イ短調よりスケルツォ

さて、3月22日(水)には大田黒元雄ら新興作曲家連盟主催のタンスマン歓迎会が開催されています。

↑ 歓迎会のようす。遠山一行記念日本近代音楽館所蔵。



食後は来会者の要望によりタンスマンは田舎風ソナタ(Sonata rustica)全曲とマズルカを演奏し、詳細な解釈を与えたそうです。

更には以下のような質疑応答がなされました。

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質問:貴下の生年は文献によって色々異なっておりますがどれが本当ですか。

タンスマン:1897年がほとんどです【自分でもどれが本当かわかっていない?】

質問:ポーランドの作曲家、例えばシマノフスキ氏やパデレフスキ氏についてのお話を伺いたい。

タンスマン:パデレフスキ氏はもうとても老年で昔日のような演奏はできない、がアンコールの頃になると熱がようやく出てくるらしく昔の面影をうかがわせる。シマノフスキ氏は私等の大先輩で音楽学校の校長をしていた。今日会った東京音楽学校の校長さんはどの種類の音楽家ですか。

回答:あの方はお役人の事務家です。

質問:フランスの作曲家、例えば六人組の人々についてはどんなご意見ですか。

タンスマン:ミヨー氏とオネゲル氏の二人が断然他の人々と段違いになってしまって比較にならない。プーランク氏は可愛らしい音楽を書く、けれどただ可愛らしい音楽を書くだけではどうも...、オーリック氏は消えそうだし、残りの二人デュレ氏とタイユフェールさんはうっかりすると名前を忘れてしまう。

質問:ドイツはいかがですか。

タンスマン:ヒンデミット氏が断然群を抜いています。

質問:シュレーカー氏は?.....例えばオーケストラ曲は

タンスマン:彼のオーケストレーションは私にはどうも同感できません。重苦しくて(schwer)

質問:貴方の音楽中には多くの五度和声的要素を認めますが、意識的に用いられたのですか、無意識的に入ったのですか。

タンスマン:無意識的です。なぜならば、私のまだ若い頃新しい音楽といってもワーグナー位なもので、シェーンベルクやドビュッシー等を全然耳にしない頃に作曲したものにもうその要素が入っています。例えば日本の和歌に作曲した「日本のメロディー」等

質問:四分音階についてのお考えは?

タンスマン:演奏を聞きますと、トリスタンのような響きがするか、あるいは調子が外れたような感じがする。十二音階的な音楽がまだ充分開拓されていない位で聴く人の耳がそれを受け入れるまでには相当の時を要するでしょう。

質問:経過音的には?

タンスマン:経過音的には今日、弦楽器等の演奏で既に用いられているでしょう。

質問:ベートーヴェンの交響曲のオーケストレーションについてはどんなお考えですか。

タンスマン:モーツァルト風な第一交響曲のオーケストレーションが良くできている。それから、第七、第八になってまた良い。第三の辺や第九等は重厚すぎる気がする。

質問:第九の第三楽章なんか長過ぎるように思われませんか。

タンスマン:現代人には長すぎるようです。ブラームスのピアノコンチェルトの第一楽章等と同様に。

質問:ベートーヴェンの管弦配置に手を入れる問題はどのように考えられますか。

タンスマン:それは一口になかなか言えない問題だけれど、ダイナミック的な配慮で楽想を活かすことに努力してみる。そしてもしそれでも、どうしても主題が出ないようならば、楽器の編成に手を入れてもよいと思う。例えば、一本のホルンを二本に重ねるとか、今日の吹奏法が進歩した状態からして、旋律をオクターブ上げるとか。例えばワインガルトナーがワーグナーのタンホイザーで行った有名な改良のように。但し全然音色の違った楽器を持ってくることは問題外です。


最後に大田黒氏とタンスマンの挨拶です。

大田黒「日本に来た世界的な作曲家は貴下が二番目です。最初はプロコフィエフ氏であったが、その時代はまだ彼を理解するだけ日本楽界が進歩していなかった。それ以後長い間大作曲家が我が国を訪れたことがなかった」

タンスマン「私は多年憧れていた日本に来ることが出来て、そして思いがけなくも貴国の作曲家達から招かれてここに愉快な夕を過ごすことができたのを、何の歓迎にもまして嬉しく思います。どうもありがとう」

以上、『音楽評論』創刊号(1933年4月号)より。



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。。。いまの時代、タンスマンは「大作曲家」という感じはしませんけど、今回タンスマンの音楽をいろいろつまみ聴きしてみて、よみがえれタンスマン!という気持ちになりました。

(2017年7月22日の記事の一部を修正しました)

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