チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

朝比奈隆インタビュー(1984年)~フルトヴェングラー、マーラー1番などについて

2015-07-27 21:49:59 | 日本の音楽家

クラシックの本『DISC REPORT』1984年8月号の、朝比奈隆氏のインタビューからです。
この月刊誌は単なる新譜案内にとどまらず、なかなか読みごたえがあります。



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【フルトヴェングラーの交響曲第2番】

― 先生は先だって(1984年4月24日、大阪・ザ・シンフォニー・ホール)フルトヴェングラーの交響曲第2番を日本初演なさいましたが、演奏されるきっかけは何だったのでしょうか。

朝比奈 フルトヴェングラーは、言ってみれば私達にとって神様みたいなものです。それで今年彼が没してちょうど30年にあたりますので、この機会にめったにやらない交響曲だからやってみようと思ったわけです。オーケストラ(大阪フィル)の方もちょうど定期が200回になりますし、まあ、だいたい、そんなような感じだったんです。私は初めてこの曲を見ましたが、なかなか良く書けていると思います。まあ、面白いか面白くないかは聴く人によってさまざまでしょう。ただ非常に長い曲です。70分以上かかります。

― フルトヴェングラーの他の作品を演奏なさる予定はありますか。

朝比奈 それは今のところありません。


【フルトヴェングラーはブルックナーの「版」を厳密に考えていなかった!?】

― 先生はフルトヴェングラーにお会いになって、ブルックナーは「原典版」でやらなくてはならない、ということをお知りになったわけですが。

朝比奈 まあそうなんですが、別に教わったわけでもないし、しかられたわけでもないんですよ。ただ何種類もの「版」があるなどということなど、全く知りませんでした。その時は第9番をやろうと思っていたんですが、「原典版」を見てびっくりしましたね。オーケストレーションが全く違うんですよ。丁度30年前ですが、現在の平均的知識と思うものですら私は知らなかったのです。それがなんでも今は日本ブルックナー協会の会長だなんて、えらそうにしていますが、当時は本当に何も知りませんでしたし、オーケストラの方も全く弾けませんでした。それを思うと日本は急速に進歩していますね。

― ところで、フルトヴェングラー自身は「原典版」のことについて、いろいろと言及していますが、実際に彼は改訂版指向なんです。例えば第8番は49年には原典版を使いながら、死の年の54年には改訂版を使っています。

朝比奈 それはレコードになっていますか?

― なっています。フルトヴェングラーは他人に原典版を勧めておきながら、自分自身は改訂版で演奏するというのはおかしいような気がしますが。

朝比奈 まあフルトヴェングラーも、その方がいいよ、と言っているだけで彼自身はそのことについて、そんなに厳密に考えていなかったんじゃないでしょうか。ただ私達日本人にとっては相手が相手でしたから、雷にうたれたような気がしたんですよ。クナッパーツブッシュなんかは版については無頓着でした。あの人なんかは版なんかより、オレの演奏を聴いてくれ、みたいなところがありますから。

― しかし、必ずしも無頓着とは言えないような気がします。といいますのは、放送録音なども含めて、クナッパーツブッシュが原典版を使った例が今までひとつもないんです。

朝比奈 そうですか。とすると、あの人は本当に改訂版が気に入っていたのかもしれませんね。


【今後もレコードはライヴで】

― 今まで先生のレコーディングはすべてライヴ録音ですが、今後もライヴでおやりになるわけですか。

朝比奈 もちろんそうです。私はレコードはあくまでも記録としてのものだと思います。何回もやって、それをつなぎあわせてやるのはもってのほかです。そりゃあ、たまには恥をかくことはあります。そういった録音は自分のいい反省材料になります。現在3度目のベートーヴェンの交響曲全集が進行中ですが、前のものと比べて聴衆に、楽譜に書いてあることが忠実に伝えられていないとしたら、やり直すしかありません。それは、その場でやり直すのではなく、何年もかかって自分の頭の中を整理し、オーケストラの技術もそうすることによって、前のものより精度の高いものを作りあげるのです。それに、音楽とは作曲家と演奏者と聴衆と、三ついるんですよ。その中のどれかが欠けても演奏じゃないわけです。三位一体という言葉は大袈裟ですが、私達は聴衆がいるからこそやるんですよ。そりゃあ心の中では少しでも良く思われたいという気持ちがあります。それは決して悪いこととは思いませんし、それがいささかの興奮になり、緊張となって演奏にあらわれるわけです。


【マーラーの第1交響曲はどうも......】

― マーラーの交響曲は全集になる予定でしょうか。

朝比奈 だいたいやりましたが、第1番だけはやっていないんです。私はどうもこの第1交響曲は、やる気が起こらないのです。いや、この前にはなんとかやる気でいたんですが、とうとうダメでした。

― 理由は何でしょうか?

朝比奈 あの交響曲の基調となるものは歌曲の旋律(さすらう若人の歌)ですけれど、それがとても交響曲を形造っているなどとは思えないんです。スコアを見ても構成が脆弱で、楽器も数だけは多いんですが、必ずしも有効に使っているとは思えません。マーラー先生にはたいへん申し訳ないんですが、どうも自分の納得がゆかないものですから、やらないことにしています。

― そうすると先生によるマーラーの交響曲全集は完成しないことになるようですが....。

朝比奈 第1番抜きならやりますよ(笑)。


【大人になった内田光子】

― 朝比奈先生の協奏曲の録音というものは非常に少ないと思うのですが。

朝比奈 実演ではしょっちゅうやっていますが、レコードになっているのは学研にある園田高弘さんとのベートーヴェンの「皇帝」と前橋汀子さんとのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ぐらいでしょうか。それに、コンチェルトはなかなかむずかしいですね。例えばフルトヴェングラーとフィッシャーのような組合わせだと、伴奏とかなんとか言うんじゃなくて、ひとつのシンフォニーのようになっていますからね。それと、トシをとってくると、あまりコンチェルトはやらないようにしているんですよ。いろいろな意味でもったいないですからね。費用もかかりますし、それに、舞台に出る回数がだんだん数えられるようになってきましたから。この前、内田光子さんとブラームスのピアノ協奏曲第1番をやりましたが、なかなか良かったですよ。でも、どうしてレコードもラジオもテレビも収録しなかったんでしょうか。私はコンチェルトをやっているという意識があまりありませんでした。彼女はダッコするような小さい頃から知っていますが、このごろ大人の演奏をするようになりましたね。


【天才職人、ハイドン】

― 最近になって価値を再認識なさった作曲家はいますか?

朝比奈 ハイドンです。ハイドンは交響曲だけでも104曲作曲していますし、弦楽四重奏曲やオラトリオなども含めると厖大なものです。作曲のスピードと言ってもたいへんなもので、写譜するだけでも一生かかってしまうんじゃないでしょうか。そういったベートーヴェンやブルックナーとは違った天才ハイドンの初期の交響曲は素晴らしいものです。彼はいわゆる職人でしたが、演奏しても一番喜んでいるのは楽員です。楽員も職人ですからね。

― 本日は貴重なお話をいろいろと聞かせていただいて、ありがとうございました。

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。。。短いインタビューだけど朝比奈さんの誠実で謙虚なお人柄がよく出ていると思いました。


東京大学音楽部管弦楽団60年史より

2015-07-26 00:13:43 | 学生オーケストラ

『東京大学音楽部管弦楽団60年史 1920-1980』を読みました。東大のオーケストラって歴史が長いんですね!



↑ 1921年(大正10年)12月10日・11日、上野公園東京音楽学校奏楽堂での第2回演奏会(オーケストラとしては第1回)。
このときは外部からのエキストラ9人を含めて43人のメンバーで、ロザムンデ序曲、ジュピター交響曲の第1楽章その他を演奏したそうです。
指揮・瀬戸口藤吉(1868-1941)、独唱・沢崎定之(1889-1949)。

 



↑ 1936年(昭和11年)11月26日、第24回定期(日本青年館)。
下総皖一作曲の三味線協奏曲。珍しい!三味線は稀音家四郎助。指揮は長井維理。

 



↑ 1966年(昭和41年)1月16日、第51回定期(東京文化会館)。
このときの指揮者でもある早川正昭作曲の木琴協奏曲。木琴は横手祐二。

 



↑ 1971年(昭和46年)1月24日、第56回定期の第九(渋谷公会堂)。だんだんと規模が大きくなってきましたね。
大川隆子(S)、矢野恵子(A)、藤沼昭彦(T)、原田茂生(B)
合唱は東京大学音楽部コールアカデミー、清泉女子大学コロ・オルキデア、東京合唱団。

 



↑ 1975年(昭和50年)1月15日、第60回定期(東京文化会館)。
英雄の生涯。早川正昭さんがラデツキー行進曲風にこっち見すぎ?(Wie schön という歌を、聴衆と一緒に歌うのが慣例だいうことです。コメントをくださったかた、ありがとうございます。)

 



↑ 1980年(昭和55年)1月19日、第65回定期(東京文化会館)。
とうとうマーラーの「復活」。常森寿子(S)、志村年子(Ms)
東京大学音楽部コール・アカデミー、東京六大学合唱連盟(有志)、日本女子大学合唱団、東京女子大学コール・コンセンティオ、東京家政大学フラウエンコール。

以下、指揮者早川氏自身によるコメントです。
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東大音楽部創立60周年を記念して、大曲、マーラーの交響曲第2番「復活」をメイン・プログラムとして演奏した。東大オケの第65回定期演奏会は、指揮した私が言うのもおかしいかもしれないが、かなりの成功だったと思う。第60回定期にとり上げた「英雄の生涯」が、成功だったあと、一年おきに、マーラーの第5、第6、そして今年の第2と、大曲主義がここに極まった感があるが、200名以上の部員をステージに乗れるようにするためには他に良い方法がないわけである
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。。。ちなみに東京大学音楽部管弦楽団のホームページによると現在、部員は130名だということです。200名というのは合唱団込み?


2台のピアノのための『春の祭典』初演!?

2015-07-22 22:55:09 | メモ

↑ 『ディスクリポート』1984年8月号より、ペキネル姉妹によるピアノ版「春の祭典」の広告です。

↑ 広告の写真と違うジャケット!それと広告には「2台のピアノのための」とありますが、1台のピアノを2人で連弾したのでは?

というか、問題はそこではなく、広告の「オーケストラ初演の一週間後、作曲者とドビュッシーにより初演された」という部分です。



バレエの例の初演は1913年5月19日。その一週間後にピアノ版が初演されたことについての真偽はわかりませんでした。

ようやく見つけたのは、1912年6月に批評家Louis Laloyのためにストラヴィンスキーとドビュッシーが並んで弾いたという情報(http://4handsla.com/?page_id=98)。

どちらが正しいにせよ、すごい顔合わせのデュオでしたね!

 

(追記)船山隆氏がマイケル・ティルソン・トーマスとラルフ・グリアソンによる2台のピアノのための「春の祭典」のレコードの広告(1976年)に寄せてこんなことを書いていました。
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2台のピアノ版は、オーケストラ版に先立ち、1912年の秋、レマン湖畔のパンションの一室で、弱音器つきの粗末なアップライトで書きあげられた。

そしてその年の秋にパリに出たストラヴィンスキーは、例のスキャンダラスなバレエ公演の半年前に、友人のドビュッシーと一緒にこのピアノ版を演奏している。

その私的初演に立ちあったある批評家の証言によれば、ストラヴィンスキーは、第2ピアノを友人に受けもたせ、鍵盤に鼻をつけるようにして時々うなりながら演奏したという。

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この批評家というのはLouis Laloyのことでしょう。1912年6月なのか1913年5月19日の半年前なのかナゾが増えてしまいました。

ブローニュの森通りにあるドビュッシーのアパートにて。1910年6月、エリック・サティ撮影。


ショスタコーヴィチ 交響曲第14番の呪い?(1969年)

2015-07-20 23:01:09 | メモ

『音楽芸術』1996年2月号にショスタコーヴィチ交響曲第14番「死者の歌」初演についてのルドルフ・バルシャイ(Rudolf Barshai, 1924-2010)の興味深い証言が載っていました。

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ショスタコーヴィチと親しくさせてもらっていた私としては当然、私のモスクワ室内管弦楽団のために作品が欲しかったのです。

この初演に関しては、大変有名で寂しいエピソードがあります。演奏の最中に誰かが倒れ、病院に運ばれる途中で亡くなったというのです。

それはアポストロフといってソ連共産党中央委員会の音楽担当部長でした。『ムツェンスク郡のマクベス夫人』の発表以来、終始一貫、彼の弾圧に当たってきた人です。

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Pavel Apostolov(1905-1969)ゴルゴ13に出てきそうなかたですね


実際にはアポストロフが心臓発作で倒れたのは初演前のリハーサル中(1969年6月21日)であり、亡くなったのは約一ヵ月後の7月19日だということですが確かにちょっとだけ呪いっぽいですね。

ところで、第14番の初演に関してはもうひとつ、別のトラブルがありました。

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ショスタコーヴィチは演奏が終わるや楽屋に飛び込んできて、神経質に爪を噛みながら、大変な早口で「これだけは厭だった。これだけは大変厭だった」と繰り返しました。

準備の段階で、ショスタコーヴィチからソプラノにガリーナ・ヴィシネフスカヤを起用する案が出ました。ところが、その頃、ヴィシネフスカヤは大変忙しく、なかなかリハーサルに現れませんでした。

ある日、ショスタコーヴィチが「今、私のオペラで大変素晴らしい歌手が歌っているので、そのオペラを聞きに行こう」と言いました。それが、マルガリータ・ミロシニコワです。

ショスタコーヴィチから私に「すぐ電話がほしい」という電報が届きました。私が電話すると、彼はいらいらした声で言い出しました。
お願いだから僕を助けてくれ。二人のプリマドンナから私を救ってくれ。」

彼が言うには、二人のプリマドンナが交互に電話を掛けてきて、一人は泣きの一手、もう一人には罵詈雑言で責められ、困惑しているというのです。

私は直ちに彼の家へ行き、こう提案しました。
「よく劇団がやるように、チームを二つ作るのです。第1チームの初演ではミロシニコワが歌い、第2チームの初演ではヴィシネフスカヤが歌うわけです。」

ショスタコーヴィチは「ソロモンの裁きだ」と大喜びし、部屋の中を何度もグルグル回ったものでした。
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1969年9月29日のレニングラード初演時のソプラノ、マルガリータ・ミロシニコワ(Margarita Miroshnikova, b. 1932)



1969年10月6日のモスクワ初演のソプラノ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ(Galina Vishnevskaya, 1926-2012、ロストロポーヴィチの奥様)



。。。どちらが泣きの一手でどちらが罵詈雑言だったのかはわかりませんでした。


バーンスタインが失敗した英雄交響曲(小林研一郎氏の感想)

2015-07-14 23:15:44 | メモ

『ディスクリポート』1983年11月号に、小林研一郎氏がバーンスタインのコンセルトヘボウでのリハーサルに立ち会ったときの感想が書いてありました。



いつのことだかわかりませんが、さぞかしすばらしいリハーサルだったんだろうなと思いきや、逆にバーンスタインには珍しい(?)失敗例でした。

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コンセルトゲヴォーでのリハーサル。その日はベートーヴェンの「英雄」であった。最初提示部を通奏した時、深い響きが鳴り渡り、僕はさすがと感激して聞き入ったものだ。が、ダ・カーポといってから音楽は突然方向を失いはじめる。

カラヤン氏は「オーケストラは生き物である。例えが悪いかもしれないが、馬にたとえるなら、馬にも行きたい方向、したくないこと等、多々あるであろう。うまい騎手ほど馬の心を察知するに敏であり良いタイミングでそれを動かす」....と話されたことがあったが、この言葉の示したようなことが起こったのだ。

この日のオーケストラは、バーンスタイン氏の指示に対しひどくとまどいを見せた。長い歴史はこのオーケストラに独特の響きを植えつけて来た筈である。そしてそれは個性として完全に彼等の上に定着してしまっていたはずである。それを氏は破壊する方向をとり始めたからだ。これには驚愕した。

大抵の指揮者は例えむきつけに自己を主張する指揮者であっても、そのオーケストラの個性、必然的に持ち合わせている響きは尊重する。三流のオーケストラならいざ知らず、いや、それですらボーイング1つ直すのに、フレーズ1つ違うことを要求するのにどれ程多くの困難が待ち受けていることか。だからこの日の氏には固唾を飲んで見守るという形容がぴったりのリハーサルとなった。

氏は、「英雄」をアメリカナイズされた響きにしようと特に意図しているように思われた。「英雄」に執拗に表われるスフォルツァンドをジャズのようにと何度も希望していた。強奏の部分では、正に踊りのように何度も指揮台の上で飛びはねるのであった。

最初は熱気に満ちていた楽員達は、暗く沈みイスに深々ともたれて、ただ時の過ぎ去るのを待っているだけの様な感じさえ受けた。そんな精神状態でのコンサートがうまく行くはずはなかった。リハーサルで方向を失って暗中模索そのままの形がコンサートにあわわれてしまったのである。氏のような偉大な指揮者にしても、自分の意図がオーケストラから歓迎されない時には、全く興ざめなコンサートをもたらすという好例かもしれない。
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バーンスタインが指揮台で飛び上がるのはジャズっぽく演奏しろ、のサインだった!?