チェンマイひとり暮らし

物価の安いタイのチェンマイで貧乏暮らしをしています。
先物取引でリッチになって、日本に復帰したい。

ブログは終了いたします。(その5)

2008-08-20 19:27:59 | Weblog
万葉集に山上憶良の次のような歌がある。

  ひさかたの 天地は遠し なほなほに 
             家に帰りて 業を為まさに

当時、自らを「倍俗先生」(倍は、そむくという意味で、世俗に背いた「先生」)
と称し、生業を捨てて山に篭ることが流行したそうだが、
それを戒めた歌である。

「遥かな天の道は無限に遠い。おとなしく家に帰って仕事に励みなさい。」
という意味である。

この「業を為まさに(なりをしまさに)」(仕事しろ)という文句が
胸に重く響く。

昨年の秋、AUAで一緒にタイ語を勉強したKさんと福岡で会った。
Kさんは大学の教授で研究休暇でチェンマイに来ていたのだが、
そのKさんを慕ってチェンマイに遊びに来た学生とも再会。

Kさんはもとより、当時学生だったS君もいまでは立派に社会で活躍している。

再会を喜びおいしい酒を飲み、楽しいひと時を過ごしたものの、
大いなる疎外感を感じた。

チェンマイに長期滞在し、いわば「外こもり」状態であり、社会とのつながりが
切れてしまっていることが、その疎外感の原因である。

私は春と秋に日本に帰るが、昔の仲間と会うことはない。
まだ現役で活躍している人と会うとそういう疎外感を味わうことがわかっている
からである。

昨年11月に日本からチェンマイに戻るとき、偶然、成田で職場の先輩に会った。
私は、チェンマイで長期滞在していて、次に日本に帰るのは3月だと言うと、
その先輩は、じゃあ3月に一杯飲もう、と言う。

その先輩とは特別に親しかったという訳でもないので、メールアドレスは交換
したが、酒の誘いは一種の社交辞令と受け取り、3月に日本に帰ったとき
私からはあえて連絡しなかった。

すると「3月と聞いていたけど具体的な帰国日は決まった?」という
メールが入った。

私はあわてて「今日本にいますが、ADSLの再開手続きに手間どって・・・」
と見え見えの言い訳をすることに。

その先輩は、当時私が親しくしていた同期にも声をかけてくれ、
久しぶりに昔の仲間と再会することができた。

懐かしく、また旨い酒で楽しかったが、
やはり、一方では、何もしていない自分に劣等感を感じてしまうことになった。

仕事をしていたときは、社会につながってるとか、まして社会に貢献している
とかいった意識は全く感じなかったが、
無職になってみると、普段は意識してなくても、現役の人に接すると
疎外感を感じるのである。

以前に何度かチェンマイの日本人子弟に勉強を教えたことがある。
ほんの数時間なのだが、それだけでも社会につながっているという
満足感を覚えたものである。

まあ、自分で無職を選び、異国の地で勝手気ままに生活していながら、
社会とのつながり・・・、などというのは、所詮たわ言であるのは承知している
のだが。

まあ、愚痴はこの辺にして。

チェンマイでは諸物価が上がっているとはいえ、まだまだ十分安い。

特に住居(アパート)については、日タイ間の価格差だけでなく、
「保証人」などとうるさいことは言われず、パスポートだけで簡単に入居できる
のは実にありがたい。

また気候については、

徒然草に、
「家の作様は夏を主とすべし。冬はいかなるところにも住まる」とある。

京都の冬は相当に厳しいものと思われるが、夏の酷暑に比べればはるかに
マシだというのである。

日本の夏の暑さは尋常ではない。
一昨年、さすがに暑さの峠は過ぎただろうと、9月中旬に日本に帰ったところ、
あまりの暑さに驚いたものである。

チェンマイの「穏やかな暑さ」に慣れた身では、もはや日本の酷暑には
耐えられないと悟ったものである。

一昨年の9月でそんな状況だったのだが、記録的猛暑と言われた昨年夏は
どんなものだったのだろう?
日本人でありながら、もはや想像できなくなっている。

タイはもちろん問題は多い。

インフラ未整備、公害、食への不安、などなど。
そして外国人ゆえのビザの問題。

そして、それらプラスとマイナスを比較勘案し、
私の場合、当面は、チェンマイに長期滞在しときどき日本に帰る、
というパターンを続けるものと思われる。

5年後、10年後はどうしているだろう?
まだチェンマイにいるのだろうか、それとも日本に帰っているのだろうか?

そんな先のことを考えてもしかたない。

とりあえず、ビールだ。
サバーイ、サバーイ。

・・・

これにてブログは終了いたします。

読者の方には深く感謝するとともに、皆様のご多幸をお祈りいたします。




ブログは終了いたします。(その4、変人が多い?)

2008-08-18 23:23:45 | Weblog
チェンマイには変人が多い、チェンマイでは日本人とかかわらないほうがいい、
などというのは、少なくても10年前には「常識」としてネット上で
語られていた。

まずは結論。
チェンマイには確かに「変人」は多い。
ただし、それは日本での「変人比率」との比較であって、実際に会う日本人は、
ほとんどはまともな常識人である。

そもそも、変人の定義が問題である。
どのような人を変人とみなすのだろう?

日本の常識に反している人、というなら、時間を守らないというのがあげられる。

残念ながら、こういう日本人はチェンマイに多い。

数人で昼食に行くことにした。
約束の時間になっても、ひとりが来ない。

先に始めるのもなんだから、携帯電話で連絡を取ってみた。
すると、「まだ自宅にいて、これから出発する」という。

「約束に間に合わないのは明らかなんだから、さっさと連絡よこせ」
と言いたいところだが我慢して、先に食事を始めた。

ある人と待ち合わせしたら、約束の5分前に携帯にTELがあった。
「30分ぐらい遅れそうなんですが、いいですか?」

「いいですか?も何もないだろ、30分遅れそうなのはいつ認識したんだ?
そのとき連絡したら、じゃ、今回はなしで次回ね、と言われるのが怖くて
ぎりぎりに連絡よこしたんだろ。」
と、言いたかったが、やはり我慢。

「30分」と言いながら、「あと10分ぐらいで行きますので・・」と言ってくる
だろうなと思ってたら、まさに想定どおりの展開に。

日本人としての最低マナーがまもれない人を「変人」とするなら、
掃いて捨てるほど居る、ということになってしまう。

一方、タイ人は時間を守る。
あるとき、タイ人は時間にルーズだと聞いていたけどあなたは時間厳守だね、
と聞いたら、

タイ人同士なら時間なんて守らない、日本人は時間厳守たと聞いているから
遅れちゃまずいと思って、との回答であった。

とても、ふだん日本人との付き合いがあるとも思えないタイ人大学生の言葉
だったので驚いてしまった。

時間厳守は日本ブランドの象徴。
時間を守れない日本人は本国に帰って欲しい、と本当に思う。
日本が誇る時間厳守を、ここはタイだから、などと安易に考えて欲しくない。

時間厳守という点を除けば(除きたくないが)、大多数は「変人」ではない。

一応、気づいた特徴として、
やたらプライドが高い、話に誇張がありそうだ、ということはある。

チェンマイに居るのは、私のような貧乏人ばかりのはずだが、
膨大な資産があるかのような話をしたり、超一流大学から超一流企業に
就職して・・・、などと言いたがる人もいる。

まあ、お愛嬌として聞き流せばいい。
そんなのまで「変人」扱いしてたらキリがない。

ところで、
日本では「モンスター」という言葉が流行っているようである。

「子供が朝起きないので、先生、迎えに来て」というのがモンスターペアレント。
妻の主治医が男性だと「セクハラだ、女医を寄こせ」という夫も
モンスターと称するらしい。

チェンマイにもいた、モンスター変人。
私が以前住んでいたところにそのモンスター変人はいた。

とにかく周囲とトラブルを起こす。

そこはホテルの月貸しで、日本人も何人か滞在していた。
日中仕事している駐在員は別として、長期滞在者とはことごとく問題を起こした。
私が知ってるだけでも、同じホテルの4人の日本人と。

何か所かの日本食堂からも出入り禁止になっている。

トラブル相手は日本人だけではない。
そのホテルのタイ人従業員からも蛇蝎のごとく嫌われていた。

あるとき、駐車場の守衛さんに、今度バイクを買うんだ、と言ったら、
その守衛さんは、赤色のバイクは買うなと言う。

なぜなら、その日本人のバイクはしょっちゅういたずらされているという。
赤だと、その日本人のバイクと間違っていたずらされるおそれがあるから、
というのである。

私がそこに引っ越してしばらくは何事もなかった。
ところが、ある日、彼がそれまで仲良くしていた日本人とロビーで
罵り合いをしているのを目撃。

それからである。
相手がいなくなって、私に近づいてきたのである。

彼はどこにいっても相手にされないから、しょっちゅう私のところに来る。
同じホテルに居るんだから仕方ないかと相手にしていると、夜、内線電話まで
入るようになった。

で、今のアパートに引っ越した。

まあ、彼は「変人」というより、ほとんど人格破綻者と呼ばれるべき存在であり、
さすがにチェンマイでも例外中の例外であろう。

なお、彼の口癖は「チェンマイには変人が多い」である。

まあ、かくいう私も「変人」かもしれない。

あるときは、万葉集を暗記しようとして700首暗記してみたり、
辞書片手にうんうんうなりながら、The EconomistやTimeを「解読」しようと
没頭したり、
部屋ではもやしに水をやるのが日課だったりして。

こんな変人でも、時間厳守は最後の砦だと思っている。






















「不愉快な出来事」について

2008-08-18 18:46:53 | Weblog
「不愉快な出来事」がありそれがブログを終了するきっかけとなった、
とだけ書いて、その内容を書かなかったため、不審に思われてしまったようです。

紙の日記なら当然書いておく事柄(実際に紙の日記には概略を記載)なのに、
ブログにはアップする気にならないのは、

以前から感じていた違和感、つまり、ブログは「日記」ではないんだ、
ということを再々認識させられた、ということで、

やはり「日記」ではないんだから、この辺でブログは終了しようと
思ったしだいです。

さて、
「不愉快な出来事」について

・タイにはノービザでの通算滞在期間は6か月で90日以内、という規定がある。
・私の今回の「6か月」の始点は2月5日のノービザ入国。
・3月4日にメーサイに行き、2回目のノービザ入国。
・3月30日、日本に帰国。
・5月13日、日本からタイ入国。3回目のノービザ入国。
・6月11日、メーサイから出国し、再入国時に観光ビザで入国。

2月5日の始点から、ノービザ滞在を3回、これでほぼ90日だが、
観光ビザの有効滞在期限は8月9日は、6か月の終点である8月5日を超えており、
(ノービザ約90日、日本滞在1か月半、観光ビザ2か月)

その日に国境に行けば、再入国では、新たな「6か月」が始まるので、
30日間のノービザ入国が認められるはず、と考え、実際にメーサイに行った。

ところが、
再入国にあたり、係官は頑として6か月の経過を認めようとしない。
9月にならないとダメとのことで、各ノービザ滞在の「端数」を合わせた
4日間しか滞在許可をくれなかった、というもの。

係官に、指を折りながら、6か月は経過していると何度か主張したが、
とにかく「ダメ」の一点ばり。

建前としては、滞在許可日数は、ビザの規定より係官の裁量が優先するので
理不尽だろうが何だろうがそれに従うしかない。

以前、私のミスで、バンコクのスワンナプーム空港で、6か月未経過として
やはり「端数」しか滞在許可をもらえなかったことがある。

そのとき、空港の係官から日数計算の「レクチャー」を受けているので
自信はある。

それでも、万が一自分の勘違いだと次回以降また困るので、
チェンマイに戻ってから、念のためチェンマイのイミグレに聞きに行った。

結論は、私の計算で間違いがない、というものであった。

しかし、当然ながら訂正はできない、係官の裁量は規定に優先する。

チェンマイの係官は国外に出て再入国すればノービザ30日がもらえるよ、
と軽く言ってくれたが、
また「裁量」を使われたんじゃかなわない。

そこで、急遽、ラオスのビエンチャンに行き観光ビザを取った、という次第。

片道、14、5時間のバスの旅である。
車中泊2泊、現地2泊の4泊5日。

あの係官のせいで、と思うと本当に不愉快である。

繰り返しになりますが、

この不愉快な出来事があったからブログを終了する、ということではなく、
「ブログ」は「日記」ではないということが私の中で明白になった、
ということです。

「日記」でなければ、(読んでもらってるかどうかは別問題として)、
読者を念頭に自分の主張を書く、ということになるが、
私には「主張の発信」など気恥ずかしくてとてもできない、と結論づけました。

これまでも、読者の方からのコメントがあった訳で、決して読者を意識して
いなかったという訳ではないのですが、
あくまで「日記」だと強いて思い込んでいた、思い込もうとしてきた、
という感じでしょうか。







ブログは終了いたします。(その3、タイ女性のこと)

2008-08-17 15:17:54 | Weblog
タイで長期滞在している日本人男性はまず例外なく、タイの女性と付き合った
経験があるものと思われる。
夫婦で来ている人は別でしょうが。

T-thai(定退)という、退職してタイで長期滞在している方のHPがあった。
検索してみたら、その内容は残っていないようだが、平成9年から平成14年まで
続いたようである。

私のあやふやな記憶をたどると、そのHPの主催者は、たまたまバスで隣合った
女性と同棲だったか結婚だったか、一緒に住むようになった。
場所はチェンマイではないが、同じ北タイのパヤオである。

まさか自分が会社を辞めてチェンマイに長期滞在しようとは思っても
みなかったころからそのHPを見始めたのだが、
文化習慣の違いからくる、その日本人とタイ女性とのトラブルなどを興味深く
読んだものである。

さて、チェンマイに初めて来たのはシンガポールに駐在していた97年秋だが、
シンガポールからは直行便もあり近いことから、数度、短期旅行でチェンマイを
訪れた。

お気に入りの女性がいて、チェンマイで知り合った白タクの運転手に
シンガポールから電話を入れ、その女性を確保しておいてもらったりもした。

99年に会社を辞め、いったん日本に帰り、規定の分の失業手当の支給を受けた。
失業保険の受給にあたっては、毎月一度職安に出頭する必要があったので、
その合間をぬって、各3週間ほどの中期滞在を3度ほど繰り返した。

その時にひとりの女性と知り合った。

私は、当時、セントラルデパートに隣接するパンソンケーオというホテルを
定宿にしていた。

その女性はそのホテルで客室の掃除を担当していた。
菅野美穂に似たかわいい女性だった。

当時はタイ語など全く話せなかったが、「タイ語自遊自在」というフレーズ集に
食事に誘う文句が載っていたので、彼女にそれを示した。

すると、にっこり笑って首を縦に振るではないか。
年齢は20歳であった。
そんな若い娘とあっさり食事にいけるとは・・・
少し拍子抜けでもあった。

夕方、私は勇んで待ち合わせ場所(隣のセントラルデパート)に行ったのだが、
彼女は、4人も女友達を連れてきていた。

そういうこともあることは話には聞いていたが、実際に遭遇すると
やはりカルチャーショックを感じた。

次は、彼女の休日に、上にも書いた白タクをチャーターしてピクニックに
行くことにした。

覚悟していたが、このときは2人の友人を連れてきた。
運転手ふくめて5人、彼女はそこまで配慮したのだろうか。

池の畔のレストランに行った。
とにかく大量の料理を注文する、とても5人で食いきれる量ではない。

私は散在は覚悟のうえ、それより、彼女が連れてきたのは同郷の友人たちで
みな20歳、ひとりは現役大学生である。
3人の若い女性に囲まれ、黙っていてもどんどん皿に料理を取ってくれる。
大いに満足した。

そして最後はカラオケでしめた。

ところが、同じタイ人であるその白タク運転手は、彼女たちの「たかり」ぶりが
常軌を逸していると思ったらしく、私に同情的であった。
最後に約束の謝礼を渡したら、半分返してくれたほどである。

やはりな、私の下心を逆手に、ふだんできない贅沢を楽しんでいるだけか。
まあ当然だよな。

と、あきらめたのだが・・・

深夜、部屋に訪ねてくるではないか。
どうなってるのだろう。
まあ、そんなのはどうでもいいが。

その後、一時チェンライに帰ってくるという彼女についてその実家にも
行ってみた。

美しい農村風景が広がっていた。
10月か11月だったと思うが、日本の秋の農村を思わせる風景に魅入った。
紅葉とまではいかないが、木々の葉が色づいている。

夜、私の歓迎のパーティを開くという。

飲食だけかと思ったら違っていた。
お坊さんが来ている。

私と彼女は並んで座るように指示され、そのうち、手首や頭などを白い紐で
ぐるぐるに巻かれることになった。

なんだろう?
まさか結婚(婚約)式?

すぐ近くで、おばあちゃんが涙ぐんでいる。

いまだにあの儀式が何であったのかは不明である。
彼女に何度も確認し、とにかく結婚等を意味するものではないことは
わかったのだが。

それから程なく彼女とは別れた。
彼女は結婚したかったようだが、それは実家も含めた経済的援助を意味するのは
あきらかで、私にはそこまでする気持ちはさらさらない。

それから、タイではいとも簡単に20歳の娘と仲良くなれることを経験し、
これならあわてる必要もないだろう、ということもあった。

その後も、まあ適当にいろいろあったのだが、
彼女たちのカネへの執着の強さを見せられるとやはり引いてしまい、
今では、同居人を探そうなどという気は全くない。

数年前、日本の女性作家が、結婚は男のカネと女の顔の交換、と言って
物議をかもしたことがある。
(女の顔は、本当はカラダなのだろうが、さすがに露骨過ぎるか)

日本の中年男性とタイの若い女性ならそれ以外にはない。
それは男どもも十分認識しているが、俺はもしかして例外、という幻想を
抱いていたいではないか。

タイ人女性には、カネに無頓着なふりをすればいいのになと思う。
カネ蔓は生かさず殺さず、長期に渡ってしぼり取るのが肝要なのだが。
 

ブログは終了いたします。(その2)

2008-08-17 00:12:26 | Weblog
チェンマイに長期滞在を始めて8年が経った。

振り返ると、次の3期に分けられる。
旅行の延長、混乱期、安定期、この3つである。

1.旅行の延長
  
 何もかもが新鮮で楽しかった。
 バービア、カラオケ、タイ料理・・・

 連日のように、ひとりで、あるいはAUAで知り合った仲間と遊び回った。
 タイ女性との出会いも大きな要素だが、それは後述するとして、
 安価な料金で飲み歩けるのがなによりであった。

 こんな世界があるのなら、もっと早くに会社を辞めるべきであったなどとも
 考えた。

 冬でも寒くないのがいい。
 一年中、半袖、短パンで過ごせる。
 酒はうまいし姉ちゃんは綺麗だ、とどこかで聞いた文句がよみがえる。

 そんな夢のような時期は長続きしない。
 約1年半ぐらいであろうか、そのころから遊びに行っても心底満足できない
 ようになった。

 結局は「旅行」だったのである。
 ただ、約1年半ぐらいとは言っても、密度は濃かったので、その何倍もの
 長さに感じた。

2.混乱期

 経済学でいう「限界効用低減の法則」だったのであろう。
 同じカネを払っても、得る満足の程度は減ってくる。
 そして、やがては、満足度は支払うカネを下回ってくる。
 同じ金額なのに。

 自然、遊びの場からは足が遠のく。

 遊ばなくなっても、1日24時間という長さは不変である。

 さてどうするか。

 自分の場合は、タイ語の勉強に向かうところとなったが、ここで何もやることが
 見つからなければ、日本に帰るという選択をとることもあるであろう。

 当初の熱狂が覚め、こんなはずではなかったと、日本に帰る人も多いと聞く。
 
 あえて「混乱期」と分けたが、私の場合は、スムーズに次の「安定期」に
 移行できた。

3.安定期

 チェンマイに住み着いて2年も経つと、刺激を感じることもなくなるかわり、
 おだやかで落ち着いた日常の日々の中で淡々と生きていく、安らぎのような
 ものを感じられるようになる。

 刺激がないから月日はあっという間に過ぎていく。
 それは、日本で日常を過ごしていても同じこと。

 ある一定の期間を「旅行」として過ごすことはできても、
 ずっと「旅行」のまま、という訳にもいかない。
 
 もし「旅行」状態を続けている人がいるなら、心底うらやましい。
 
 8年のチェンマイ滞在のうち、この「安定期」を6年過ごしたことになる。
 今後もチェンマイに居る限り、それは「旅行」ではなく「生活」なのである。
 
 もし、バンコクやパタヤに引っ越せば、しばしは「旅行」状態を満喫できるで
 あろうが、チェンマイで経験した上記の1年半という訳にはいかない。

 それでもさらに「旅行」を求めるなら、さらに別の場所に引っ越すことになるが
 「旅行」を味わえる期間はどんどん短くなっていき、結局はどこかで
 「生活」に落ち着かざるを得なくなる。

 「生活」だから面白いことはなにもないが、そのかわり、日本とチェンマイとの
 価格差をフルに享受できることになる。

 住居費は安く、市場やメガスーパーなどで食材を買えば、基本生活費は
 格安で住む。

 私の場合、住居関連で約5000バーツ、食費1500バーツ、酒3000バーツが
 基本中の基本である。

 実際の出費は、経常的なビザ関連費用がバカにならないし、
 たまには昔からのタイ人の知人の「たかり」にも応じてやったり
 しているので1万バーツで収まることはないが、
 経常的に1万バーツを大きく超えることもない。

 安いもんだと思う。

ブログは終了いたします。(その1)

2008-08-15 19:41:03 | Weblog
最近とても不愉快なことがあった。

係官の勘違いなのか、虫の居所でも悪く意地悪されたのか、よくわからないが、
当方には落ち度のないことで、この一週間近く、無駄な労力を費やさざる終えない
状況になった。
(なお、当方に問題がないことは、念のため当局に確認済み)

ことの詳細は別に秘密でもなんでもないので書いてもいいのだが、
どうしてもこのブログには書く気にはなれない。

そもそも、このブログを始めたきっかけは、気まぐれであって、
どういうしくみになっているのか知るには試しにやってみるのが早いか、
というだけのことであった。

ほんの練習のつもりだから、hiroという名前も私の本名とはまったく無関係。
たまたま前日か前々日の夢に出てきた高校の同級生の名が弘子だったので
hiroにしてみた、ただそれだけであった。

気楽に始めたとはいうものの、目的としてはWEB日記、つまり日々の出来事や
感じたことを備忘録的に残しておこうというものであった。

ところで、

大学受験の科目に現代国語というものがあるが、この分野の推薦参考書として
誰もが推薦する本で「新釈現代文」というのがあった。

私は文系受験だったが、その要ともいえる現代国語が大の苦手であった。

英語なら単語や熟語、文法を勉強する、数学なら公式を覚え練習問題を解く、
といったように、勉強法としては単純である。

それに対して、現代国語をいうのは何をどう勉強すればいいのか見当もつかない。
それで藁にもすがる思いで、皆が推薦するこの「新釈現代文」を買った。

大学受験参考書というとどれもこれもかなりの厚さであったが、
この「新釈現代文」は極めて薄く、ただ読むだけなら一日で終わってしまい
そうであった。(今改めて検索してみたら、180項弱、とあった)

皆が推薦するだけあって、受験勉強を超えて、いまだに印象が深いのだが、
特によく覚えているのは、次のようなことである。

・・・試験の対象は「現代文」だが、現代の言葉で書かれているから「現代文」
   というのではない。
   ここでいう「現代文」とは、作者が読者を念頭に、その読者に伝えたいこと
   があり、その伝えたいことを文章にしたもの、それを言う。

記憶で書いているが、そんな趣旨だったと思う。

そして、
 
・・・だから、「日記」はいくら現代かな遣いで書かれていようと
   「現代文」ではない。
   なぜなら、読者は念頭になく、したがって、伝えたいこともないからで
   ある。

現代文ではない、というのは、あくまで大学の入試問題の対象として、という
前提付きのものであるが、

とにかく、日記というのはそういう特質を持つものであることを
明確に認識し、そして今でも折に触れ思い出すのである。

さて、日記のつもりで始めたブログであるが、続けるうちに
「現代文」と「日記」の違いをあらためて認識させられることになった。

匿名ブログであるものの、公開している以上、「日記」ではないと気づいた。
実際に読んでもらえるかどうかは関係ないのである。

「日記」でないなら、「現代文」で行こう、というのは、もちろんアリだし、
むしろ純粋な「日記ブログ」なんてほとんどないのではないだろうか。

だが私は、匿名であれ何であれ、実際の自分であれ別人格に仕立てたhiroであれ、
継続して「伝えたいこと」を伝えていこうという考えは持っていない。

私の見解なんてしょせん独善、誰もまともに聞こうとはしないであろう。
それをあえて発信するのは恥をさらすに等しい。

よく無料情報誌などでも、一言居士を気取ってお説教を垂れるのが好きな人が
いるが、読んでいてこちらが気恥ずかしくなってくる。
(だからそんなものは読まないようにしているが、ついうっかり活字を追って
しまうことがある)

そんな訳で、違和感を覚えつつも今日まで続けてきたが、
今回の「大いに不愉快な出来事」はブログを終了するきっかけになった。
(あくまで、きっかけであって、原因ではない)

日記は紙の日記帳に記すべきである。

その紙の日記帳は、スポーツジムでの運動時間、買い物の内訳、ぐらいで、
日々、空白部分がほとんどを占めている。

マンネリ化して書くこともない、
ネットにつながらずイライラしているうちにアップする気が失せた、

などというのも、ブログを止める要因ではあるが、蛇足的なものである。

さて、ブログを終えるにあたり、チェンマイ長期滞在についてあらためて
思っていることを書いて見ようと思う。
すでにこれまでに書いてあることの繰り返しになると思われるが。

以下、つづく。


   




be going to

2008-08-06 18:44:23 | Weblog
中学で習う、基本中の基本のひとつ、be going to。
「~~することになっている」という、未来をあらわす表現である。

DVDの「風と共に去りぬ」を見ていたら、
レッドバトラーがスカーレットに向かって、

You are not going to ruin Bonnie's future.
と叫ぶ場面が出てきた。

この場面は、「お前がどうなろうとはかまわない」という意味の台詞に
続くところなので、
「お前はボニー(娘の名)の将来を台無しにはしないであろう」では
明らかに変である。

そして実際の字幕では、
「ボニーの将来までめちゃくちゃにはさせない」となっており、
場面からしてぴったりである。

だが、be going toを「~~することになっている」としか知らなかった私には、
かなり違和感が残った。
「~することになっている」と「~~させない」とはあまりにも距離がある。

で、電子辞書を引いたら、ちゃんと載っているではないか。

・・・[話し手の意志・おどし・約束] ~~させるぞ。
    You are not going to cheat me. だまされはしないぞ。
    This room is going to be clean.この部屋はきれいにさせます。

上のレットバトラーの台詞は、この「おどし」という説明がぴったりである。

それにしても、英語は奥が深い。
こんな基本表現に、辞書にもきっちり書かれているような意味、用法があるとは。